哲学者としての三浦梅園


 その2:哲学と宗教
 

哲学も宗教も共に人が生き行動するための基盤となる世界観や人生観を提供す ることに変わりはありません。しかし、実際には、哲学は宗教と歩みを共にする ことはあっても宗教ではなく、宗教は哲学を欲することはあっても哲学ではあり ません。普通、この両者の違いは哲学が学問として知を探究するのに対して、宗 教が信仰の立場から救いを希求するものであるからだとされています。つまり、 前者が合理的立場から世界や人生について考察を与えるのに対して、後者が非合 理的でより感情的な立場からそれらについて説明を与えるというわけです。この ように見ますと、哲学の方が確実で正しいことを述べているのに対して、宗教は 単にただ自分の救いにとって都合のよいことばかりを言うにすぎないと思われる かもしれません。しかし、宗教も日本語では「〇〇教」という形で示されるよう に、人々を導く教えであり、そうである以上、そのためにそれなりの説得力を持 っていなくてはならないと私は考えます。

 哲学も宗教も世界そのもの、存在自体に対してそれを人々に説明するための内 容を持っています。先に、梅園の存在そのものにかかわる根源的な問題意識につ いて触れましたけれども、かつて宗教の始まりにおいても彼と同様の問いの立て 方をした例があります。イスラム教の開祖であるムハンマド(マホメット)は預 言者となる前に、この自然の森羅万象を成り立たしめているもの、そして太陽や 月を動かし、雨を降らせて作物を人々に与えるものは何かという思いにつかれて いたという話がそれです。彼にとっての謎は、梅園と同じように、世界そのもの を成り立たせている何かに対するものでありました。彼はこのような思いのうち で、突然、天使ガブリエルを通じて神の預言を受け、同時に世界が神によって創 造されたものであること、しかも無から創造されたものであることを確信するに 至ったというわけです。この唯一の神によって世界そのものが無から創造された というのはユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの一神教の共通の前提であ り、同時にこれらの宗教の与える存在自体に対する人間の根源的問いに与えられ た説明と見ることができます。そして、このことによって宗教は哲学と同じよう に、常識的人間社会を相対的なものとし、人々により高い反省的な立場を与える こととなります。

 このように、哲学も宗教も同様に常識的な日常を越えた立場を提示することに よって、人間の生活の指針を与えることができるのであり、また両者ともそのた めの合理的な説得力を持っているということができるでしょう。そして、そうで あるならば哲学と宗教とを区別することが不可能なように思われるかもしれませ ん。しかし、前にも述べたように、哲学は宗教ではありませんし、宗教も哲学で はありません。これは、両者が共に合理性をその内に持つにしても、その合理性 の位置付けが異なっているからです。哲学の場合、現実の認められる事実を離れ て論理を組み立てることは出来ません。ですから、天上の世界や、死後の世界に ついて何かを確実なこととして語ることは出来ません。しかし、宗教の場合、こ のような理性によって解き明かされる内容のほかに、啓示を通じて明かされる内 容が含まれており、時としてこの方が理性によって得られたものよりも優先され ることすらあります。これは、人間の理性が有限であり、間違いを起こし得るの に対して、啓示の方がより真実であるとされるためです。それでは、この啓示そ のものは何によって確証されるのかということになりますが、これは信仰による としか言い様がありません。つまり、宗教というものは、哲学があくまで理性に よって、言葉そのものによって成り立っているのに対し、人々に一つの「神話」 を信じることを要求するわけです。したがって、哲学において合理的理性が積極 的に働くのに対して、宗教の方はその「神話」をあり得るものとして、少なくと も信じ得るべきものとするためにより消極的に働いていると言ってよいでしょ う。

 このように言ってしまうと、やっぱり宗教というのはいい加減なものだと思う 人もいるかもしれません。また、「神話」を受け入れなければ宗教を受け入れら れないとするならば、進化論を支持する人はキリスト教徒ではないと考える人も いるかもしれません。しかし、私はこのような考えは宗教の持つ「神話」の意義 というものを理解していない考えだと思います。人間というものは、この世界の 中で単独で生きることは出来ません。これは単に社会的に孤立しては生きていけ ないという以上に、この自然を離れては生きていけないという意味をも含んでの ことです。それ故、人間は自分を越えたもの、また人間社会そのものを越えたも のを信じることなしには生きていけない、少なくとも安らぎと確信を以って生き ることは出来ないと思います。ここで言う宗教的「神話」とは単に「〇〇という 神が××した」という事実を物語っているのではなく、世界そのもの、人生その ものの根源的あり方を示す物語であると考えられねばなりません。従って、ある 宗教を受け入れることはその「神話」の示す、世界観・人生観そして倫理観を受 け入れることであり、ある宗教を信じることはその「神話」の意義を受け入れる ことなのです。

神物剖析図  ところで、梅園哲学において「神」という用語がでてきますけれども、これは 宗教的な意味での「神」ではなく、自然を動かし生かしているエネルギ−のよう なものを示す彼の基本的な哲学的概念の一つに過ぎません。彼の哲学において宗 教的な「神」に対応するような絶対者があるとすれば、それは先にも述べたよう に、語りえぬ一元気ということになるでしょう。しかし、一般的にこの一元気は その哲学の中心にあるにもかかわらず、まさに語りえないためにそれほど多くの 関心を呼んでいるようには思えません。しかし、「玄語」という彼の主著の名前 自身が示しているように、かれの哲学はこの世界の根源にある「玄なるもの」がいかにして現実世 界を成り立たせているかをテ−マに展開されてい るということができます。つまり、語りえぬ「玄なる一元気」から語りえる現実 世界への方向に彼の哲学は向いているということになります。ですから、ここに おいて原初的なものは語りえないとしても、そこから生み出される世界の現実に ついては十分に語ることが可能であり、理性によって探究することができるわけ です。これは、中心にある根源的なものから次々に多くの概念が派生している玄 語図のパタ−ンを見れば理解されるのではないかと思います。梅園哲学は条理学 といわれますけれども、この条理とは、根源的なものが分合の働きによって自ら を展開してゆく基本的原理なのであって、それ故に、すべての存在するものはこ の条理の働きによって成り立っているということができるわけです。

 私はこの梅園の条理の発想が、実は仏教の縁起もしくは空の論理と軌を一にす るものではないかと考えています。というのも、両者ともあるものの存在はそれ 以外の他のものの存在を前提にして初めて成り立つとする相即の論理の立場を取 っているからです。相即の論理とは、例えば「上」がある以上「下」があり、 「右」がある以上「左」があるように、あるものの存在の裏には必ず「それでな いもの」もしくは「それとは反対のもの」が必要であり、単独で、他者との関わ りなしに存在できるようなものはありえないとする論理です。このように考えて みますと、梅園は中国の伝統的な「陰陽」の対抗関係の形式を取りつつも、一方 その内容においては、仏教的な縁起の論理、もしくは根源的なものは区別を持た ない故に語りえないとする、老壮思想を取り入れていると言うことができるでし ょう。しかし、もしそうであるとすると、どうして彼は仏教に対して無関心な立 場を取ったのかが問題となります。恐らく、これは梅園が哲学者として、客観的 なものを探究する「天為」の立場に立っていたからだと思います。そもそも、仏 教の「空」にしても老壮の「無」にしても、これらは人間社会におけるさまざま な悩みから人間自身を解放するために生れた否定的表現であり、「空」とか「 無」とか言っても、それは存在そのものを安直に否定してしまうニヒリズムでは ありません。これらは、いわば実践的な生き方を示す人生論的意味合いを持つも のであり、その点において、梅園より主観的な「人為」の立場に立つものである と言えます。

 私は、この「天為」と「人為」との立場の違いが哲学と宗教との立場の違いの 根本にあるのではないかと考えています。先に、梅園哲学は語りえぬものから語 りえるものへの方向をとっていると述べましたけれども、逆に宗教は語りえる現 実から語り得ぬ世界へ向かう方向を持っていると思われるわけです。というの も、多くの場合、宗教への関心は現実の生活における不安や悩みがきっかけにな っているからであり、逆に言うならば、このようなものがなければ宗教は必要と されなかったであろうからです。哲学者は絶対者である神の存在を信じるにして も、またその存在を主張するにしても、決して語りえる現実の世界を越えて「神 話」を説こうとはしません。しかし、宗教は語りえる現実世界の重荷の故に、信 じるべき世界の「神話」を説こうとします。哲学の用語で言うならば、哲学者が 天上を意識しながらも、あくまで地上の形而下の世界にとどまるのに対して、宗 教家は地上の現実の故に形而上の世界へ意識を向けるのです。

 この意味で、哲学と宗教とは判然と区別されます。ムハンマドは森羅万象を疑 った後、アッラ−による天地創造という「神話」に至りましたが、梅園は自然を 成り立たしめている原理としての条理に思い至りました。これらは共に直観的に 与えられたものですが、全く異なった意味合いを持っています。何故なら、前者 は世界そのものについて形而上的な立場から世界の存在について「創造」という 理由づけを与えているのに対して、後者が形而下の立場から「条理」という世界 のあり方を示しているからです。普通、何かを説明するためには何らかの原因を 明らかにする必要があります。例えば、風邪を引いた場合、それは前の日に睡眠 不足だったからだとか、寒いところに長くいたからだという形で説明がなされま す。これは「何によって」という形の説明であり、天地創造の神話はこの形で世 界を説明するものということになります。一方、太陽に対する惑星の運行は力学 の法則にしたがって説明できるというのは、「どのようなしくみで」という形の 説明であり、世界のあり方を示す「条理」とはこのような意味での説明原理と見 ることができます。従って、前者の説明は偶然的な出来事の因果性から世界を説 明するものであり、後者は必然的な物事のしくみから世界を説明しようとするも のであると見ることも可能です。

 しかし、そうなら「神話」による説明はその内に重大な矛盾をかかえ込むこと になります。というのも、すでに述べたように、世界そのもの・存在そのものを 因果関係によって説明しようとすることは、因果関係によって因果関係そのもの を説明することになり、自己矛盾の原則をおかしてしまうことになってしまうか らです。「全知全能の神は自ら持ち上げることのできない石を創造することがで きるか」というパラドックスは天地創造の神話に対するこの矛盾の表われです。 世界そのものを創造する神は、まさにそのことによって全知全能でなくてはなら ない。しかし、もしそうだとすると、自ら持ち上げることのできない石を創造で きることになるのだが、そうなると神は全知全能ではないことになってしまう。 これではいくらなんでも一神教そのものの前提がひっくり返ってしまうのではな いか? 日本人の中にはこのために彼らは非合理主義的で訳の分からん連中だと 思う人もいるかもしれません。しかし、このような矛盾は神を世界内の存在者と 同様に考え、その天地創造を形而下のレベルで考えるから生じるのであり、「神 話」そのものの意義を常識的にしか解すことができないために生じたパラドック スであると私は思います。そもそも、神による世界の創造は「無から有の創造」 であって、はじめから理性の及ぶ範囲を越えているのです。ですからこの「神 話」の教えるものは、因果的連関によって示される日常的で具体的な事実ではな く、それを越えた世界そのものの意義なのです。

 それ故、宗教的神話の世界は世界を説明するものであっても、哲学のようにそ れを合理的に理解させるようなものではなく、むしろ非合理的で説明できないも のであることを理解させるものです。「奇跡」という言葉は神話のこのような性 格をよく表わしていると思います。奇跡とは合理的には説明できないもの、むし ろ理性による合理な理解を拒絶しているものと解すべきです。このように言いま すと、超能力や超常現象などの何かオカルトめいたものが奇跡であるかのように 聞こえますけれども、前にも述べたように、それは単に奇異なだけに過ぎず、真 に宗教的な神話の名に値するものではありません。そうではなく、道元の神通の 概念のように、日常が日常であることそのものに対する神秘が奇跡であり、宗教 的な神話の根幹をなすものなのです。この意味で、イスラム教徒はオカルト的な 意味での奇跡を認めません。つまり、彼等にあってはこの世の存在そのものが神 秘であり、神の恩恵なのです。一方、キリスト教の場合には、イエス・キリスト を神とし、その復活を奇跡と見なす点でイスラム教と大きな違いを持っています が、この奇跡もキリスト教の宗教的根幹をなすものといえます。彼らにとって は、神と人とが等しい地盤に立ったこと、そしてその神が死の後に復活したこと が自らの救いの保証となっているわけです。キリストの復活はそれ自身事実かど うかは別にしても、私はその死を通じて彼の弟子たちが使徒として神の教えを広 げたことは、その神話の意義を確かなものとしているように思えます。

 このように、イスラム教とキリスト教とは同じ神による世界の創造という神話 のうちに立脚しつつも、異なった神話の下で、異なった宗教として発展してきま した。これは宗教が、あくまで人間の主体的な現実から生れた、梅園の言う、人 為の立場から生れたものであるからにほかなりません。ですから、たとえその内 に真理の意義が含まれていたとしても、各地域・民族によってその形はさまざま なのであり、本来は、あのガンジ−が見抜いていたように、一人ひとりの人間に おいてそれぞれ異なった信仰があると考えるべきなのかもしれません。しかし、 哲学は万人に共通な理性の立場、合理主義的な立場にある以上、言葉によって批 判され吟味されなくてはならない学問であることに注意されなくてはなりませ ん。確かに、今までの哲学において唯ひとつの正当な哲学によって世界が解釈さ れたことはありませんし、これからもないでしょうが、それは人間の知の限界に よるのであって、理性によって互いの立場を結び付けることを否定するものでは ありません。宗教が、神もしくは世界の根源をなす絶対者から個々人の救いを目 指す人為の立場にあるのなら、哲学は、個々の主観的な見解から、自然を師とし て、客観的事実を通して語りえぬ世界の根源を探究する天為の立場にあるという ことができるでしょう。

 このように考えて行きますと、哲学と宗教とは異なった立場から常識的な日常 世界を反省し、我々の行動の指針を与えてくれたということができるでしょう。 しかし、そのことによって同時に、それらは世界そのものについてのあらゆる人 にとって共通な立場を提供することとなり、多様な社会に対してコミニケ−ショ ン基盤を提供していると見ることができます。というのも、哲学による合理的な 思想も、宗教の提示する「神話」も共に、あらゆる人間そのものを含んだ世界の 根源を示してくれているからであり、多様な人々、あるいは異質な人々によるコ ミニケ−ションの共通のル−ル、もしくは土台を提供することになるからです。

 続いては、この人間社会におけるコミュニケ−ションの考察から哲学の役割に ついて述べていきましょう。
 

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