哲学者としての三浦梅園


 その5:抽象と現実
 

一般的に言って、日本では「抽象的」とか「観念的」という言葉は良い意味で は用いられません。「君のいうことは抽象的で分かりにくい」とか「彼のいうこ とは観念的で説得力がない」と言われるようにこれらの言葉は良いイメ−ジを持 たれていません。これに対して「具体的」とか「現実的」という言葉は「君の提 案は具体性を持っていていい」とか「この考えは現実的であり、説得力を持って いる」というようにプラスのイメ−ジを持っています。常識的な立場からするな らば、このようなことは日本のみならずどこでも見られる傾向かもしれません。 しかし、学問の世界では、殊に哲学の世界では必ずしも「具体的なもの」「現実 的なもの」がプラスのイメ−ジを持っているわけではありません。むしろ、「具 体的なもの」「現実的なもの」は「その場限りのもの」と見なされ、いい評価を 受けないことも多いのです。少なくとも、それだけでは哲学として不十分であ り、何らかの抽象的な観念を具体的なもの、もしくは現実的なものから導き出さ ねば哲学は成り立たないということができます。だから、哲学は分かりにくい上 に役に立たないのだと言われるわけですが、この「抽象的なもの」もしくはこの 抽象から導き出された「観念」が有用ではないというのは単なる偏見に過ぎませ ん。何故なら、我々は日常生活の中のいたるところで抽象の世話になっているか らであり、人間が万物の霊長と称して複雑な社会を築くことができるのもこの 「抽象的な観念」のおかげだからです。最も身近なものは私たちが今用いている 言葉であり、物事を抽象して出来上がった言葉によって人間は人間として他の動 物から区別されているといっても過言ではないでしょう。それでも抽象的なもの は日常生活で意識されないからたいして便利なものではないと思う人には、次の ような路線図を見れば抽象の有用性が理解されると思います。ここに掲げたのは JRの東京付近の路線図ですが、この図を見れば目的地は何線に乗ってどこの駅 の次に降りればよいのかが一目で分かります。もしより具体的な首都圏の地図を 持ってきて、目的の駅を探すとするなら ばもっと苦労することになるでしょ う。この図は我々が必要としているJRの路線に関 する情報を無駄なく「抽出 して」わかりやすく「図象化」しているからこそ有用なのであり、言わば「抽象 的」だからこそ役に立つのです。

 このように抽象的なものは我々にとって本来有用であるべきものなのであっ て、話を難しくしたり、ごまかしたりするためのものではありません。ですか ら、抽象とは物事から偶然的な要素を取り除き、より本質的なもの、より必然的 でより広くどこでも当てはまること、すなわちより普遍的なものを導くためのプ ロセスと言うことができます。哲学とはこのような抽象を徹底的に遂行すること によって世界の本質に迫ろうという学問なのであり、科学も同様にその領域にお ける抽象的な知的営みということができるでしょう。従っ て、抽象的なもの は、本来、具体的なものにその源を持つのであり、具体的なものに対 する感 覚・直観なしには成り立ちませんし、抽象によって得られた観念も同じように現 実的なものから導かれた現実的な意味を持つものと考えるべきだと言うことがで きるでしょう。このことは実際に自然科学の成果が技術の発達を通していかに 我々の生活に影響を及ぼしているかということからも理解できますし、そもそ も、これらの自然科学の基本となっている数学がいかに抽象的で非経験的な学問 であるかを考えれば、よりはっきりすると思います。にもかかわらす、日本人の 多くが抽象的なものに対して否定的なイメ−ジを抱き、殊に哲学という学問に対 して無関心であるのは、日本人がその知的所産の多くを外国からの輸入に頼って おり、その結果として、抽象された成果を受け入れることには慣れていても、そ の抽象することそのものを体験していないからだと思われます。つまり、抽象の 結果は知っていても、そのプロセスは身に着けてこなかったというわけです。確 かに、日本人は科学技術に関して今日多くの成果を上げていますが、その基本と なるもの、言わば哲学のレベルにおいてはまだ多くの成果を上げているとは言え ないでしょう。それは技術のレベルにおいては科学の成果を、それを生み出した 哲学的発想とは無関係に応用できるからです。私は「ファインマンの物理学」と いう本の中で、たとえ相対性理論が物理学に おいて重要な意味を持っていると しても、従来の式の中に光の速度を表わす「c」を ル−トの横に付けただけと 思う人にはそれだけの意味しか持たないだろう、というようなことを書いていた のを覚えていますが、これは科学の成果を、その根本的な発想の地盤を抜きにし て、表面的に学習することが可能なことを言っているように思えます。確かに科 学の成果はそのプロセスと切り離して受け入れられることができるのであり、学 の成果とプロセスが一体となっている哲学はそれ故に日本にいまだ根付いていな いと言えるのかもしれません。たとえ抽象的なものであっても、さっきの路線図 のように、具体的な実用性がはっきりしているものを日本人は抽象的とは言いま せんし、ハウ・ツゥ−もののようにあまり現実的でない事柄で埋まっている本で も、それが「○○のため」というテ−マを持っているならばこの国では結構売れ てしまうものです。その点、哲学という学問はあまりに大きな対象を持ちすぎて いて、「○○のため」という特定の有用性も持ちませんし、しかも極端に抽象的 な学問ですから今まで日本人に受け入れられなかったのも納得できる話です。

 このような哲学に対する無関心、時には反感というものが梅園哲学の評価に対 して影響を及ぼしてきたことも確かなことといえるでしょう。すでに触れたよう に日本の思想の多くは人間関係のマネ−ジメントについて語ることはあっても、 それを越えた存在そのものへの関心が希薄であったわけであり、根源への問いを 含んだ梅園の自然哲学が評価される可能性は薄かったということができます。皮 肉にも、西洋哲学の流入によって梅園がカントやヘ−ゲルと比較されるにいたっ てその価値が異常に評価されるようになったといっても過言ではありません。し かし、このことはもし西洋の学問の影響がなかったならば梅園は評価されるよう になったのかという疑問を生みますし、さらには本当に西洋哲学の発想を身に着 けたとも思えない日本人が本気で梅園を評価しているのかというより深刻な疑問 があるのも確かです。かつてロ−ズ・マリ・マ−サ−女史が梅園哲学に関心を抱 いてその研究を始めたときに、梅園哲学を理解するためにはデカルトやカントを 読むべきであるというアドバイスを聞いて、何故日本の思想家を学ぶのに西洋の 哲学者の名前が出てくるのかと思ったという話を聞きましたが、逆に言えば、こ のことこそ日本人が梅園哲学にアプロ−チするためにヨ−ロッパ的なものの考え 方を体験する必要があったことを物語っているように思います。正直のところ、 現在に至っても梅園哲学は哲学として西洋的な知の修練を受けた人間によってと 言うよりも、むしろ歴史学の出身者によって研究されているようです。このこと は梅園哲学が日本思想の常識の枠内、もしくはせいぜい中国哲学の知識の枠の中 で評価されていることを意味しており、その評価も従来の日本思想の常識に引き ずられていると私は考えます。特に、梅園哲学の抽象的用語の用い方については 日本人の生理的な拒否反応が見られるような気さえしてきます。

 この傾向が特に顕著なのは山田慶兒氏による「黒い言葉の空間」という本で す。氏は梅園哲学について詳細な文献学的な考察をしつつも、その思想的評価は 大変否定的なものでした。これは梅園哲学を「外延主義」によるものとして解釈 し、梅園の提示する哲学的諸カテゴリ−を外延によって定義されるものであり、 その世界観は固定的で図式的なものに過ぎないとする考えです。「外延」という 文句は一般の人には聞き慣れない言葉だと思いますが、これは論理学においてあ る言葉が示す対象の範囲というように考えればいいでしょう。例えば、「鳥」と いう言葉の示す範囲の中には「鷲」「鷹」「雀」「鳩」「ペンギン」等の動物が 属しますが、これらの種が「鳥」という言葉の外延に当たるということになりま す。山田氏はこの外延という用語をヒントにして、梅園哲学の諸カテゴリ−を自 然の森羅万象をうまく分類する目安ではないかと考えたのであり、これがいわゆ る「外延主義」による梅園哲学の解釈というわけです。これは例えてみるなら ば、梅園哲学の諸カテゴリ−を図書館で用いらている十進法分類のようなものと 考えているといってよいでしょう。つまり、梅園哲学は単に自然の存在者を博物 学的に分類する方法を提示しただけで、それ以上のものではないというわけで す。しかし、もしそうであるならば、どうして梅園自身が幼いときから存在に対 する根源的な問いを発していたのか理解できなくなってしまいます。推理小説で はありませんが、「外延主義」では梅園の哲学的動機が説明できなくなってしま うというわけです。私はこのような梅園哲学に対する解釈、そしてそれに基づく 梅園哲学に対する評価が成り立つのも、日本において未だ哲学とは何かというこ とが理解されていないからだと思います。もし西洋的な意味での哲学の伝統を理 解し、かつ東洋的な思想の流れを把握しているならば、より梅園哲学に対する積 極的な解釈ができるはずだと私は考えます。つまり、梅園哲学が提示する諸カテ ゴリ−を単に人間の頭の中で作り出した図式、フィクションではなく、現実に即 した抽象の成果であると評価することができるというわけです。

 単なる抽象、単に頭の中で生み出された抽象的なものは、結局、それだけで終 ってし まいます。このことは和算の例を見ればはっきりするでしょう。関和孝 以来高度な展開を遂げた日本の数学である和算も、単に問題を解くゲ−ムとして のみ発達し、結局それだけで終ってしまったことを思えば、単なる抽象がいかに 無力であるかが納得できると思います。抽象的なもの、観念的なものは現実から 生れ、現実に生かされることによってのみその意味を持つのであり、そうでない ならば単なる「ひとり上手」にすぎないのです。この「ひとり上手」の典型的な 例が最近話題になっている「オタク」と呼ばれる人々です。彼らはアニメならア ニメ、漫画なら漫画について膨大な知識を有し、しかもそれについての批評は極 めて高度なのですが、その特定の世界の外に出ることがなく、ただ特定の集団の 中において自己満足に陥っている人間と見られています。とどのつまり、彼らは 自分達固有の夢の世界から出ることをせず、自己完結したマニアの世界で現実の 憂さを晴らしているというわけです。私は梅園をこのようなオタクだとは思いま せんし、ましてや哲学者を無力な抽象を操るオタクのようにしか考えない人々に は反感さえ感じます。にもかかわらず、未だに梅園をオタクの産物のように評価 する場合が多いのも確かです。「三浦梅園聲主の学」を書いた岩見輝彦氏もこの 本の最後で次のように書いています。

三浦梅園の『玄語』は自然と人間についての体系的な記述である。私自身 は、 梅園が対の概念を駆使して、あらゆる事物に命名したことのすべてを、天地の 「條理」にかなってい る、と肯定しているわけではない。むしろ私 は、梅園に よる徹底した二分法的思索も、結局は、人の有為によって無為の「天」を窺って しまった「覬覦」の一種であろう、とみなしている。ましてや三浦梅園が生涯を かけて探求し『玄語』に叙述していた内容が、実用として役に立つとは考えてい もいない。しかしながら、やはり『玄語』の漢文 は、論理としての美をともな っており、いわば人間の思索が完成させた芸術である。そうであるからこそ、古 訓詁にとらわれていない「條理」のことばを理解するために、『玄語』の用例を 吟味しながら訓詁して、その「主(指示対象)」の内容を明らかにしていく試み を続けていたい。 [502P]

確かに梅園哲学は多くの不正確な内容を含んでいることも確かですし、そのまま では実用に供しえないのも真実です。しかし、梅園自身も主張しているように、 誤りは天地の現実により修正されればよいのであり、また哲学とはそもそも直接 的には実用として役に立つものでなく、むしろその実用性そのものの前提となる 物事のあり方を探究することにその意味を持っているのです。「人の有為によっ て無為の『天』を窺ってしまった」という主張もヨ−ロッパ近代認識論を学んだ 私の立場からして理解できることですが、だからといって「論理としての美」だ けを梅園哲学の魅力とするのは、この哲学を無力な抽象と見なすことになる以 上、私には受け入れられない所です。

 高橋正和氏はこのような抽象と現実との乖離、抽象的な知の歩みに対する無理 解に対して次のような批判を行なっています。

 山田教授の主張の今ひとつの問題点は、仮りにその梅園評が正しいとすれば、 山田教授の科学史観や文明史観の方向は原始・未分化・魔術至上主義を志向して いるという点である。なぜなら、山田教授が主張する如くに梅園の哲学が瘠せて いると評せるのであれば、全く同様の意味で、単一の原理を志向してきた、ある いはひたすらに志向し続けている諸学、なかんずくその志向をなにがしか達成し つつある近代科学や、あるいは古き時代にそれなりに透明な哲学体系を完成した プラトンやアリストテレスの哲学、カントやヘ−ゲルの哲学などなどに対して も、全て瘠せこけていると評さねばならないからである。(「条理と実測」 梅園学 会報9号 43p)

相当に過激でかなりゴテゴテした文章ですけれども、正鵠を射ていると私は思い ます。知的な学問というのは哲学であれ、科学であれ、現実を抽象した観念によ って組み立てられたモデルの学であり、そのモデルそのものが抽象的もしくは観 念的であるからと言って、それが示す世界が無味乾燥で無力なわけでは決してな いのです。むしろ、このようなモデルは世界の根本的なあり方を示し、秩序を明 らかにすることによって、世界の多様性の根拠を指し示しているということがで きるでしょう。

覆載図  この意味で、同氏が「叢書・日本の思想家・23 三浦梅園」で展開した「天 地」の解釈は抽象的なカテゴリ−の示す自然のあり方が、具体的な事物のあり様 においていかに見出されえるかを示す格好の例を示しているように思えます。普 通、「天地」というと我々は地球と天球のことだけを思い浮べます。 確かにこ れが天地なのですが、あり方としての天地の関係は単に実際の天地のみならず、 生き物の肉と皮との関係にも見出だせるのであり、更に無生物の分野にも見出す ことができるというのです。すでに梅園の直円の図式を論じた際に、地球球体説 の天文学的モデルが梅園哲学の基本的モデルになっているのではないかと言うこ とには触れましたけれども、彼が「天地」という概念を通してより具体的レベル でそのモデルを適用していることには注目に値します。直円の図式の示す中心と 周辺をそれぞれ「地」と「天」に対応させ、それを1つのパタ−ンとして、馬や 牛の体の構造にあてはめている様子は一見牽強付会のようにも思えますが、梅園 が実際医者であったこと、そして動物の解剖を試みたことを考えると、単に頭の 中だけで得た結論とは思えません。むしろ、現代科学が明らかにしている細胞の 構造などを考えると、細胞核が地であり、細胞膜(細胞壁)が天というように、 梅園の示した図式の妥当性が明らかにされているように思えます。高橋氏はこの ことを「記号論」と称していますが、これはむしろマクロコスモスである天地と ミクロコスモスである生物との間に共通のホロニックなあり方が見出せると言っ たほうがいいのではないかと思います。というのも、「記号論」には解釈される 記号と解釈する人間との関係についての理論が中心となるからであり、それ故に 梅園哲学における記号論ということになると、岩見氏の研究している聲主論がそ れにあたるように思われるからです。

 ところで、この天地論で示されたのは対象の中に見い出される物事のあり方、 言わば天 地と呼ばれる構造のパタ−ンの普遍性と言うことでしたが、対象の普 遍性を表現する以 上、それを表わす言葉そのものにおいても普遍性が要求され てきます。天地というのは、この意味で、現実にある天と地の構造のあり様に依 拠した表現ですが、「(イン)陰の字から<こざとへん>を除いたものが入るが、外字のため表示できません」「昜」「直円」等の概念はすでに具体的対象から独立 した純粋に抽象的な観念ということができるでしょう。よく梅園哲学が難解であ る理由としてあげられる中に彼の用語法の独自性がありますが、これも彼が今ま での思想から独立して、自然という対象をより厳密にそして普遍的に表現しよう としたためだと思います。従来の哲学の用語を踏襲することは、今までの哲学の 特殊性に縛られることになりますし、何よりもそれまでの思想においては梅園を 納得させるような抽象的かつ普遍的表現は見出すことができなかったと言えるで しょう。例えば、従来の中国哲学では「水」「木」「火」「土」「金」の5つの素材 (matter) による五行説と「陰」「陽」の組み合わせによって自然を説明しようと 試みますが、これらの要素は具象的であっても、いまだ抽象的な観念ではありま せん。というのも、これらは自然の中に現実に見出される具体的な物を象徴的に 取り出したものであって、物事の典型的なあり様を例示ものであっても、その構 造的な仕組みを明かにするような物事のあり方を示してはくれないからです。

 この意味で、梅園が「陰」「陽」という伝統的な哲学的概念に関してそこから阜 偏を取り除き「(イン)」「昜」という文字を用いたことには重大な意味があると私は考 えます。というのも、従来の「陰」「陽」は、彼自身の指摘するように、日の当た る丘のイメ−ジの具象化によってできあがった概念であり、梅園哲学の根本にあ る「一即一一、一一即一」の相即のメカニズム、すなわち天地自然のあり方とし ての条理を抽象することによって得られた概念ではないからです。ここには今ま で日本人が到達しえなかった純粋な抽象による現実把握の成果があるのですが、 まさにそのために梅園は今まで理解されなかったと言って過言ではないと私は思 います。何故なら、未だに日本人のほとんどが「あり様」と「あり方」との違い に気付いていないからであり、それだからこそあの山田慶兒氏のように安直に 「(イン)」「昜」を「陰」「陽」に戻してしまうことがありえたのだと考えるからです。 私は前に、「あり様」を文章によって表現される内容とし、「あり方」を文章そ のものを成り立たせている文法として示したことがありますが、今回はアインシ ュタインの特殊相対論を例にとって説明しようと思います。

 彼の相対性理論が画期的であるのは、単に光の速さに近付くと時間の進みが遅 くなるとか、物差しが縮んで見えるということを明かにしたからではありませ ん。ただそれだけであるのなら、彼以前にロ−レンツという物理学者がすでにロ −レンツ変換によって明かにしていたことです。数式だけを見るならば、このロ −レンツ変換と特殊相対性理論によって示されることは全く同じです。にもかか わらず、アインシュタインの理論が画期的であったのはその数式によって示され る内容が物理学的出来事のあり方を規定する時間と空間の変化によって引き起こ されるとした点です。ロ−レンツの場合、このような不可思議な出来事が起こる のは電子の性質、つまり電子がたまたまもっている特殊なあり様によると考えら れていたのですが、彼は敢えてすべての物体の運動を規定する空間と時間の必然 的に有する普遍的なあり方によると考えたわけです。これは梅園と彼以前の思想 家の違いを端的に例証してくれると私は考えます。というのも、従来の思想家に とっての「陰陽」はロ−レンツの考えた電子のように具体的な存在者と同様のも のであるのに対し、梅園の「イン易」はアインシュタインの時空のようにすべての 存在者を規定する存在の根本的なしくみを示すものだからです。

 一般に、日本人は具体的な物事の調整能力には長けているが、普遍的な行動原 則を持たないと言われます。これはまさに日本人が抽象というものを軽視し、具 体的なもののみを現実的なものと見なしていたからだと私は思います。上の例で 言えば、数式が同じであれば、ロ−レンツ変換もアインシュタインの特殊相対性 理論も何の違いもないと思うのと等しいということになるでしょう。しかし、こ れでは真に現実的なものをその根本から理解することにはなりません。このよう なやり方は、試験の時の丸暗記のように、その場しのぎのものにすぎず、特定の 常識の通用するごく限られた範囲ではとても便利ですが、そこから一歩でも出る と通用しないやり方です。具体的なものから具象をへて抽象的なものを求めるこ と、このことはその意味で国際化のために不可欠な知的営みであると私は考えま す。現実は抽象されることによってより根源的に認識されるのであり、この認識 によってより広く何時でも何処でも誰にでも通用する普遍的な行動の規範が得ら れるのであり、だからこそ、世界は哲学を欲してきたのであって、この哲学にお いて抽象的なものは現実的であり、現実的なものは抽象的であったのです。
 
 

[←戻る] [次へ→]

[三浦梅園のこと]