JARVIS 通信1月上旬

New Millennium 新世紀 明けましておめでとうございます。


1月10日(月)
 朝テレビを見ていたら、AOLとワーナー・パイオニアが合体したとのニュースが入ってきた。こちらのCNN(実はワーナーの系列らしい)で記者会見の生中継をやっていたので、つい見入ってしまった。AOLの Steve 氏の英語はとても聞きやすい。また、ワーナーの Levin 氏はかなり老獪に思えた。いずれにしても通信の高速化が目の前に迫っている以上、大きなニュースではある。ただ、私としてはここテキサスでの回線がいつも夕方から夜にかけてつながらないこと、そしてチルダ(波線)のメールの文字化けを何とかしてもらいたいところである。
 それはともかく、今日から食堂が再開した。うれしい。何とかこれで保存食からの生活を脱したわけだ。まだ、食糧は相当残っているが、かえるまでには何とかなるだろう。
 

1月9日(日)
 今日タイラーにいる日本人の方が日本に帰国すると言うので、5ヶ月ぶりにタイラーの空港に行く。ところが、予定した便がキャンセルになリ少し慌てることになる。幸い時間の余裕があったので次の便で間に合ったのだが、私の場合どうするかと考える。いずれにしても、私は同じ航空会社の乗り継ぎだから問題ないだろう。
 こちらに来て5ヶ月だが、英語はまだまだである。インターンシップのことを聞かれたが意味がよく分からず、通訳してもらった。答えることは出来るが、相手に合わせてその意味を理解するのは難しい。というわけで、うちに帰ってから、ビールを飲みながらぶっ通しで6時間くらいテレビの英語を来てみた。かなり効果があるものである。よく考えたら、こちらに来ても日本同様、読みの練習が多かったので聞きの練習が効果的なのである。
 

1月8日(土)
 聖書を読み終えたので「仏教聖典」を読んでいたのだが、冒頭にある法句経は「怨みは怨みによって果たされず、忍を行じてのみ、よく怨みを解くことを得る。これ不変の真理なリ。」の言葉より始まる。これはキリスト教の「贖い」の精神にも通じる世界宗教共通の教えであろう。ただ、仏教はこの教えを独特の観点から展開する。それは、我々の言葉がもたらす区別の作用がこの「怨み」の感情を増幅させているとしている点である。キリスト教などの一神教の立場からは神の絶対性からこの世のことを相対化し、怨みつらみの感情を浄化するのだが、絶対的創造者を定立しない仏教にあっては、より直接的に人間の認識作用の問題点が指摘されることになる。この仏教的な立場の良さは一神教に見られる宗教の違いによる対立に落ちこまずに済むことだ。一神教ではあたかも神の存在が普通の存在と同じようなレベルで語られてしまうために、神をめぐっての争いが起きやすい。しかし、仏教にあっては仏や悟りですらも最終的には言葉の区分による仮象に過ぎないから、絶対者をめぐってのドグマ的争いは起きにくい。
 この法句経の文句から思い出すのは法然の父の話である。この父は乱世の世に殺されてしまうのであるが、息子である法然に敵を恨むなという遺言を残す。恐らく乱世の習いとして彼自身人を殺めたことがあるのだろう。このような人には殺される側、殺す側双方に悲しみを感じるのであって、思いをどちらかに偏らせることはないのである。実は「仏教聖典」の中にも似た話が出てくる(なかま 3-1-6)のだが、いずれにしてもこの父なくして法然はなかったであろう。世界では民族や宗教を元にして争いを続けている人々がいるが、彼らはまだ争うことの悲しみを知らない。それは自分と相手を区別して自分を相手とまったく異なった単なる被害者と思いこみ、双方が同時に争う心の被害者であることに気づかないからだ。ここにいおいては宗教であれ民族であれ言葉の与える区分がすぐさま争いに結びつき、それを拡大させる。[心理学についてのなぜ] でも触れたところであるが、人は実体のない意識の作り出したものに自らを見失うのである。
 それはともかく、「オートポイエーシス」をだいたい読み上げ、早くも [必殺読書人] の原稿を書いてしまった。これはわりと早めに公開するかもしれません。結構長い文章です。
 

1月7日(金)
 「オートポイエーシス」と平行して読んでいるのが「仏教聖典」である。今日は読みを中断したが、いずれにしても仏教の発想とオートポイエーシスの発想は驚くほど良く似ている。構造主義にしてもそうなのだが、オートポイエーシスは「作動」の概念を通じてあらゆる実体的発想を否定する。実体的発想の否定は大乗仏教のよくするところである。「人々の苦しみには原因があり、人々のさとりには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる(仏教聖典 おしえ 1-2-1)」 オートポイエーシスの思想ではすべてのものが「作動」を通じて関わり合って現れるのであるから、仏教の言うように無常で固定して見えるものも単なる現象に過ぎない。この本では仏教の話は出ていないようであるが、今までの自然概念に対する批判のあり方はまさに大乗仏教がそれまでの仏教を批判したのと軌を一にしている。また、観察者の立場を持ち込むことを極めて慎重に否定しているが、これは無我の思想に通じるものがある。だが、仏教を自らの哲学の基盤の一つとしてきた私から見るとまだ足りない点がある。それは実体的発想を否定するあまり、現れとしての「もの」や「観察者」などの実在性を新たに捉え直していない点である。「ものはすべて縁によって起こったものであるから、みなうつり変わる。実体を持っているもののように永遠不変ではない。うつり変わるので、幻のようであり、陽炎のようであるが、しかも、また、同時にそのまま真実である。うつり変わるままに永遠不変なのである。(仏教聖典 おしえ 2-3-4)」 まだ、全部読んでいないので断言は出来ないが、「同時にそのまま真実である」世界にまでこの本は言及していないようである。詳しくは [必殺読書人] で書くつもりだが、「作動による構成素の産出」を記号過程として捉え直さなければ、オートポイエーシスは大乗仏教の否定した空見に陥る危険がある。
 

1月6日(木)
 実は今「オートポイエーシス」という本を読んでいるのだが、実に考えさせる本である。別に間違ったことを書いているというわけではない。多少表現に問題があるもののオートポイエーシスについては最も良く書かれた本だと思う。ただ、この中で書かれていることの多くが私が大学院を出た頃に考えていたことなので、驚いているのである。私は以前「System, sign and function(中味は日本語)」を書いたのだが、そこで書いた function と System についての部分とほぼ重複している。私は世界を記号過程として捉えることが出来るのではないかと考えているが、オートポイエーシスの発想に記号とその解釈の発想を組み込めばほぼそれに近いものが出来上がる。ただ、私の場合、それで話は終らないのが厄介なのだ。この本でも少し触れているが、それ以上に自己言及の問題が、自己展開の問題、つまりは歴史の問題とかんらんで来る。これは公務員になりたての頃に書いた「meta & Mono」に示されている。書いた当時は夢か現実か分からないままに書いていた。それだけにオリジナリティが強かったし、当時は人に見せるつもりで文章を書いていなかったからである。もう15年近く前になるが、その頃はHPなどが出来るとは予想していなかった。当時考えたことはこのHPの中の [自然のこと] でかなり生かされているが、かつてのように定式化された形では論じていない。実は、この定式化も先があるのである。生きているうちに書きたいものである。
 

1月5日(水)
 カレッジが始まった。朝の9時から昼の12時まで全体の集まりがあるというので本当に12時までやるのかと思ったら、12時すぎまでかかった。心理学の先生を招いての教職員の研修といったところか。簡単に自己紹介までさせられた。午後には1時間ほど分かれて会議があったので、今日はずっとカレッジに出ていた感じである。
 これだけ集まりが続くと英語を聞くのが結構大変である。別にそんなに分からなくても支障はないのだが、やはり英語が理解できないと気になるものである。正直、私にとってはメガネなしで言葉を聞いていると言う感じで、あまり内容がわからない。いくらか細かな部分が聞き取れても全体が分からないのである。モザイクを虫眼鏡で追っているという感じか。とにかく、ネイティブの普通の会話は話題が飛ぶのでついて行けないのである。話の方向性はつかめても、具体的にどうかまでは分からない。テレビを見ていても分かるのだが、歴史関係のドキュメンタリーは聞き取れても、トークショウはいまいちである。それでも、来た当初はネイティブの会話はお手上げだったので少しは良しとすべきだろうか。
 ちなみに、午前中にあった話の内容は学生にどうやってやる気を持ってもらうかに関したものだったようだ。教職員としては学生の学習意欲のなさ、お金の不足が気になるところだが、不満を言っても始まらないというところか。前半は教職員の意見を聞き、後半にそれに合わせて講話という感じである。
 とにかく、私は久しぶりのカレッジで疲れてしまったのだが、気になっていた春学期のシバラスをだいたい書き上げた。思ったより早く済んだ。これを書きながら学生のやる気のなさよりも、ここでの外国語教育においては、アメリカ人の外国語への関心のなさの方が大きな問題なのだとつくづく思う。日本人もアメリカ人も自国語で事が足りたら外国語なんでよだきくて(面倒で)勉強せんわな-。英語が国際語になりつつあることを思うと、その感を強くする。
 

1月4日(火)
 今日事務のエドワードさんから電話があって、先日のテストをカレッジに提出した。突然だったので、慌てて探すが、ようやくカバンの中に入ったままであるのを発見する。明日から教職員もお仕事である。久しぶりに朝9時に集合、午後は会議(英語がよく分からないにもかかわらず)である。授業は1週間後だが、そろそろ春学期のシバラスを作らなくてはならない。
 それはともかく、ドイツ語で電子メールを書く可能性が出てきたので、コンピューター用の独和辞典を実家に依頼する。正直、「仏教聖典(ドイツ語版)」は後回しになる。空いた時間で Japanese Anime のHPを探してみた。ダラス周辺にも結構ある。英語のアニメ関係のページも出来たことだし、そろそろコンタクトを取りたいところだが時間が取れるかどうか不安である。とにかく新学期が始まらないと先が読めない。
 

1月3日(月)
 さすがに今日は疲れが出た。ドイツ語版の「仏教聖典」が結構難物なのである。よく読むと、他の版より余計に文章が書いている。なしか!? その上に辞書が読みにくい。目が痛いのである。電子辞書を入れようかとも思ったが、よく考えたら電子ブックでそれを持っていた。どうしようかと思案する。取りあえず、途中きりの良い所があるので、そこで読みを中断することにする。その一方で、トゥグヴィルの「American Democracy」の読みに入っているがこちらは順調である。ただ、の画面を通して読むので、文字を拡大しても多少目が疲れる。コンピューターで読むと Roboword gが使えるので便利なのである。
 それはともかく、今日久しぶりにカレッジに出たら、エドワードさんがもう仕事をしていた。およそ2ヶ月ぶりである。例の Baptist 教会で大分人に会った話をしたら驚いていた。こちらは3日から事務所は平常どおり仕事をしているようだ。いちおう教職員が来るのは5日からだが、事務の人は忙しいのである。
 

1月2日(日)
 私にとっては今日が仕事始めである。ドイツ語の辞書があまりに使いづらいので、大分から電子辞書を送ってもらおうかとも考える。それはともかく、新年に合わせて準備していた<哲学茶房のサクサクHP>のリンクの更新を何とか仕上げた。「哲学茶房の主が時折顔を出す掲示板のあるHP」の新設である。また、昨年末に宗教についての話題をMLで展開したのだが、それに合わせてこのMLでお世話になっている管理人さんのHPの掲示板に年頭のコメントを書く(興味のある方はクリックしてください)。
 

1月1日(土)
 2000年問題もなく無事にテキサスでも年を越すことが出来た。ちょうど、アメリカ版ゴジラ(らしきもの)をこちらでやっていたので、それを見ながらの年越しとなる。この映画、パロディとしては結構よく出来ている。フランス人のおっさんとお姉さんのセンスはやはり良い。ホーキンスは田舎町ではあるが、ここでも New Millennum とともに花火の音が聞こえた。この24時間でどれだけの火薬が世界中で消費されたのであろうか。いずれにしても平和がなによりである。本当は新世紀は2001年かららしいが、New Millennium との兼ね合いもあるし、今年から新世紀と私は解することにしたい。インターネットの普及で産業革命以降の生産力の拡大に見合った情報処理能力を人々は手にしつつある。農耕を第一インパクトとすれば、ようやく第二インパクトの全貌が見えてきたというところか。私は静かにこの時代の変わり目を過ごしていた。
 ところで、私は元旦にはあまり勉強をしない主義なので、外国語の勉強をせずに、少しHPの原稿を書いていた。2つほど書けたのでじきに公開します。
 
 
 

[ことばのこと]