天国への扉(7)


それからまた何日かが過ぎた。老人の健康はかなり回復し、少しは前のように島の中を歩き回ることができるようになった。だが、その日はたまたま体調が悪く、太陽が南の空に昇るまで彼は寝台を離れることができなかった。
 ちょうどそんな時、老人の寝ている所に一匹のてんとう虫が入ってきた。それは老人の指に止まり、しばらくの間その手の上をぐるぐると回っていたが、老人が指を立てるとそのてっぺんに上り、再び飛び立ち、窓の外へと消えていった。
「私はたった一匹の虫の命にも抗うことができない。」そう老人はひとりつぶやいた。
その声を聞いて心配したのか、老人の朝食の後片づけをしていたマリアさんが老人の所へ近づいてきた。
「ドウカシマシタカ?」
「いえいえ、ちょっと独り言です。昔、私は自分の国を信じて、お国のために働いて、人殺しという罪まで犯してしまったのに、結局国というものは今の小さな虫一匹の命さえ創り出すことができない。そう思ったんです。お国は命を奪うことがあっても、それを生き返らせることはできない。それなのにあの時はお国のことがすべてだった。」
「村上サン、マタ自分ヲ責メテル・モウ必要ナイデスヨ。」
「そうですね。もう私には何もできんのだから。だが、ここに来て最近考えるんですよ。私は何に導かれてこの島まで来たのかとね。それは先生やマリヤさんに流れる永遠の命の力じゃないか。その力は恐らくこの島の自然にも海にも、さっき飛んできた虫にも、そして私の命の中にも等しく流れているんでしょう。私はそんな力に導かれた。そんな何かが私をここまで導いた。しかし、私はその導きに答えることができるんだろうか? 今さら悩んでも仕方がないが、やはり気になるんです。」
老人はしばらく黙り込んだ。マリアさんはやさしく「ダイジョウブ」と言うと再び朝食の片づけを始めた。
「きっと私は裁かれるためにここまで来たんだ。」老人は小さな声でそうつぶやいた。
「モウ、イイデスカラ。」向こうからマリアさんの声が返って来た。
「そうですね。もう過ぎたことは変えられない。お国のためとはいいながら私はここで多くの命を奪い傷つけたに違いないのだから。でも、実は私はこの島でたった一度、人の命を救ったことがあるんです。」
マリアさんはあいわらず仕事を続けていた。老人はガチャガチャと鳴る食器の音と一緒に話を続けた。
「ある時ね、わたしらは一人の娘を捕まえようとしたことがあるんですよ。その娘は原住民のゲリラのスパイでね、わしらも気が立っとったから、捕まえて殺そうとしたんだが、なかなか見つからなくてね。もし逃がして、ゲリラにわしらの居場所を知られたらどうしようかと焦ったですよ。そんな時小さな壊れかけた小屋が私のとこにあってね、たまたまその戸を開けたんだが、驚いた。その娘が中にいて、私を睨みつけておったんです。私は思わずその戸を閉めてしもうたんだが、ちょうどそこにその娘を追ってきた私の仲間がやって来たんで、私はとっさに『あっちへ逃げたぞ』と叫んでしまった。結局、私はゲリラに捕まることもなく、何とか日本に帰ることができたんだが、これを人助けと言えるかどうかはわからない。けれども、この前マリアさんに叱られた時には本当に驚いた。その娘がマリアさんにそっくりなんですよ。一瞬のことだったんで、その娘の顔をずっと忘れとったんだが、この前マリアさんに睨まれて初めて思い出した。」
「ウ、フフフフ・・・」
その時、マリアさんの笑い声が老人の話をさえぎった。彼女が老人の前で声を出して笑ったのはこれが初めてだった。
 彼女は老人の所に近づくと、そばにあったタオルケットを横になっている老人の肩に掛けながらこう言った。
「やっぱりあの時の私のこと、覚えていてくれてたんですね。」
白い輝きが老人の驚く顔を世界と共に優しく包み込む。
 その時、天国の扉は開かれた。

   ラストテーマ:谷山浩子「お昼寝宮・お散歩宮」より「ただ風のために」

 波の音だけがそこに残った。
 
 

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