条理の実在−条理は実在するのか?
 

  は じ め に

 「条理は実在するのか?」もしこのような問いかけを梅園自身にすることができたなら、梅園は間違いなく実在すると答えたことでしょう。自然を師とする自然哲学者である梅園にとって条理は自然自身のあり方を解く鍵であり、実在するものです。しかし、彼の意に反して、梅園の条理が実在するものではなく、人間の頭の中で造られた一種の論理モデルに過ぎないという考え方がこの近年出てきています。山田慶兒氏の「黒い言葉の空間」にせよ、岩見輝彦氏による「三浦梅園聲主の学」にせよ、梅園の条理モデルは自然に根づいたものではなく、いわば「人の造りしもの」であって、むしろ梅園はそのモデルを自然に強引に当てはめたのではないかという前提のもとで論議が進められています。私は当初、これらの著作を読んだ時、これは単に梅園のみならず哲学一般に対する批判であると感じました。というのも、哲学はある意味で、抽象によって自然そのもののあるいはそれを認識するための有効なモデルを探究してきた学問であり、その説く内容が抽象的なモデルであることは梅園も他の哲学の場合も同じだからです。
 しかし、その一方、私はこれらの梅園哲学に対する批判の中に極めて近代的な問題意識を感じ取りました。自然に対する理論が常に自然に根づきそれを反映するわけではないという考え方は、数学の対象は実在せず、また数学に限らず多くの理論的モデルは実在から離れて人間の頭の中で出来上がったものであるとする近代的学問観の反映でもあるのです。ここに今という時代に梅園哲学が語られることの難しさを感じ、同時に「実在とは何か?」という哲学上の根本問題を突きつけられることになりました。今回はこの実在の問題について、条理学をめぐって初歩的な議論を展開してみたいと思います。
 

1 「実在するもの」とは何か?

 私たちの日常的な言葉づかいの中で「実在する」という言葉はどのような場面で用いられているでしょうか。恐らく歴史上の人物の実在が一番それを良く示してくれていると思います。

   「三浦梅園は実在する」
   「老子は実在しなかったかもしれない」
   「ウルトラマンは実在しない」

 これらの用例を見れば、ここで何が実在の基準になっているかははっきりしています。それは、その対象が単に頭の中で造り出されたものではなく、その外にその存在の由来を持っているかどうかです。三浦梅園は実際に江戸時代に生きていた人ですが、ウルトラマンはフィクションの人物です。また、老子は歴史に登場する人物ですが、実際に老子その人がいたかは議論の別れるところです。これらの場合、すなわち哲学の用語で言う「個物」の場合、実在するかしないかははっきりしています。
 それでは、次の場合はどうでしょう。

   「机は実在する」
   「人間は実在する」
   「ツチノコは実在するか?」

普通名詞である「机」「人間」「ツチノコ」はこの場合、特定の机や人物そしてツチノコを指しているのではなく、種としての「机」「人間」「ツチノコ」を指しています。「ツチノコ」はともかくとして、普通には「机」も「人間」も実在するといえるでしょう。ところが、哲学の世界では少し難しい見方をすることがあります。これらの種は単に人が一定の集合に名前を与えただけであって「机」そのもの、「人間」そのもの、ましてや「ツチノコ」そのものは実在しないとする唯名論の立場がそれです。この立場では、実在するのは先に述べた「個物」だけとなります。この唯名論に対するのが実在論と呼ばれているもので、ヨ−ロッパ中世の普遍論争はこの2つの立場をめぐって展開されました。*1確かに種というものは人間が区分けしたものですから、そこに人間の恣意性が絡むことはあります。それは次のような問題が出てくるのを見れば分かるでしょう。

   スイカは野菜か果物か?
   鯨は何故魚屋さんで売られていたのか?

これらの例は人間の分類が必ずしも自然科学的な客観的分類に従っていないことを示しています。しかし、この場合でも、スイカは野菜とも果物ともいえる性格を持っていますし、鯨は海産物という点でそれなりに客観的事実との関係の中で分類がなされています。哲学上の論議はともかくとして、これらの「種」の分類は自然の実在性とのかかわりを持つものであり、単なる「人の造りしもの」ではないといえるでしょう。少なくとも、「種」の実在性を完全に否定してしまったら物理学も生物学もすべて実在にかかわる学問はその実在性を否定されることになります。
 これらの「個物」や種と呼ばれる「普遍」についてはこのように比較的にその実在性を理解しやすいものといえます。これらは自然のあり様のレベルに属するものであって、それ故に何らかの形でそれを感覚できるからです。しかし、条理や他の哲学的なカテゴリ−はそうではありません。というのも、これらは感覚される対象を通して直接理解されるものではなく、間接的に自らの思惟を反省することによってしか理解されないからです。
 ここに哲学的なモデルが「人の造りしもの」ではないかと思われる理由があるのですが、梅園の場合、その条理語の定義の仕方にも問題があります。普通、定義といえば次のような数学上の定義が思い起こされます。

   円は一点から等距離にある点の集合である。

この定義は定義される対象を実体として他のものから独立に定義しています。けれども、条理語の場合、その定義は常にその階層構造のもとで一対の他の条理語と共に定義されます。これは「性」なら「性」、「気」なら「気」が直接的に定義されていないので非常に分かりにくく、単に自然を恣意的に二分法に従って分割したに過ぎないのではないかという見方の原因になっています。
 それでは次のような語はどうでしょう。数学上の定義のように実体として単独に定義できるでしょうか?

   「右」「左」「上」「下」

これらは空間を表す基本的な言葉です。このようなあまりにも基本的な概念は数学のように実体的に定義できず、それぞれ他との関わりの中で、しかも具体的な例示を通してしか定義できません。これらは空間のあり方である方向性を示すものですが、それ故に直接対象としては認識できないのです。
 それでも方向性を与えるのは人の方であって、これらの語はやはり「人の造りしもの」だという主張もできないわけではありません。例えば、「左右」の方向性についていえば、民族によってはこのような相対的な方向性の規定を用いず、「東西南北」の絶対的方向規定を用いる場合があるそうです。更には、京都のような斜面に住む種族では、「上下」が方向の指標になっていることさえあるということです。しかし、これらのことを考慮しても、私たちが空間もしくは平面を一定の方向性によって規定せざるを得ないという事実には変わりありません。「左右」も「上下」もその限りで実在しているのです。
 

2 自然と人間との連続性

 このようにあり方としての方向の実在性を以て条理の実在の可能性を示してみましたが、恐らく、西洋近代哲学を学んだ人からはこのようなあり方は自然の存在のあり方ではなく、認識のあり方に過ぎないのではないかという意見が出ることと思います。すなわち、客観は主観の枠組みに従って認識されるのであって、それ故にあり方としての条理や哲学的カテゴリ−は主観の側にあっても、客観の側にはないというわけです。このような考えを最も鮮明に打ち出しているのがカントのコペルニクス的転換の考えです。カントは今までの存在のあり方に従って客体が認識されていたのだという主張をひっくり返して、客体を認識するものの認識のあり方に従ってそれはなされるのであり、客体そのものはそのあり方とは独立に物自体として存在すると主張しました。カントに限らないのですが、西洋近代哲学はまず主観のあり方の探究が存在のあり方の探究に優先するという立場を取ることがあります。それは自然的存在が私たちの認識を通してはじめて語られる以上、まず認識の枠組みを把握することが必要だという考えに基づいています。この考え自体は間違ってはいないのですが、問題は存在のあり方と認識のあり方とをそのように明確に区切ることができるのかということです。認識と存在とが独立に成立するならともかく、この二つは梅園の「一即一一」の図式のように相即の関係にあると考えるのが自然でしょう。さもなければ、独在論のような極端な主観主義を立場を取らざるを得ません。カントの場合も、客体として物自体を認めている以上、その物自体が私たち人間の認識形式と独立してあると主張するには無理があるように思われます。*2少なくとも、先の方向性のところで示したように、それは「左右」「上下」などの枠組みによって認識され、同時にそれに基づいて人間の働きかけを受けるものだということはできます。
 この近代的思考を考えるために「コペルニクス的転換」の考えのもととなった天動説と地動説との関係を見てみましょう。コペルニクスは今まで地球の周りを他の天体が回っているとする常識(天動説)をひっくり返して地球が太陽の周りを太陽以外の天体と共に回っている(地動説)と考えました。一方、カントは私たちの認識は自然的客体のあり方に従う(地動説)のではなく、私たち自身の認識の枠組みに従っている(天動説)と考えます。ここではどちらか一方の位置もしくは枠組みが固定され、他方がそれに従って移動もしくは認識されるという前提で物事が語られています。それでは次の場合はどうでしょう。

 広い宇宙の中に二つの同じ大きさの天体だけが存在し、互いにぐるぐる回っている。さて、どちらがどちらの周りを回っているのか?

かなり意地悪な設定ですが、この場合、天動説も地動説もあまり意味がありません。もし双方の天体に人が住んでいて、互いに自分たちの大地が固定しているのだと主張していたところで結論は出ないでしょう。実は、現象面だけ見ると天動説と地動説のどちらかを取らなければならないという決定的な決め手は出てこないのです。コペルニクス以前の天文学ではプトレマイオスの天動説が信じられていましたが、これでも当時知られていた惑星の動きは的確に予測できましたし、理論的には惑星の衛星も含めてその動きを予測することができるのです。むしろ、ケプラ−以前の天文学にあっては惑星軌道が楕円であることが知られていなかったため、プトレマイオスの天動説の方が正確に惑星の位置を予測することができました。
 それでは何故、今日、天動説は地動説に取って代わられたのでしょうか。コペルニクスやガリレオの時代に地動説が支持されたのはその理論の単純さにありました。プトレマイオスの理論では惑星の軌道を割り出すために同心円を複雑に組み合わせなくてはなりませんでした。すなわち、この理論では惑星の不規則な動きをその惑星が何か見えない中心の周りを回りながら、同時に地球の周りを回っているとすることによって説明していたのです。これでは惑星の軌道計算が複雑になるのも当然です。その後、ケプラ−によって地動説も正確なものとなりましたが、それをより決定的なものとしたのが他の恒星に対する視差の確認でした。地球が太陽の周りを回っているとすれば、太陽系外の他の天体の見える角度が季節によって変わるはずです。確かにこの視差は現在では観測できるのですが、何せ地球と他の恒星との距離は光の速さを以てしても最低数年かかるのですからこの確認はかなり後のことになります。しかし、いずれにせよこれでも地動説の決定的な決め手にはなりません。というのも、懲りない天動説の支持者がいるなら、この視差も地球との距離に従って恒星が動いているのだと主張するだろうからです。
 それでは、現代地動説が支持されている最大の理由は何でしょうか。それは一言でいえば、ニュ−トンの万有引力の法則によるということができるでしょう。確かにプトレマイオス流の天動説でも惑星の動きを予測することはできます。しかし、何故それぞれの惑星がそれぞれの同心円を持っているかを説明することができません。現象の観察によって同心円を特定できても、その惑星の質量からその動きを導くことはできないのです。この法則から直接的に導かれる太陽系のモデルは地動説の方であり、たとえ天動説が説かれるにしてもそれは間接的なもの、二次的に導かれるものに過ぎないのです。
 ここで重要なのはこの万有引力の法則が地球にも太陽にも、更には他の天体にも当てはまるということです。ここには太陽は恒星であるから動かないとか、地球には人が住んでいるから動かないという考えはありません。問題は質量の大きさとある速度で変化するそれらの位置関係であって、それ以外の特別の要素はないのです。これに対して、カントのコペルニクス転換は主観と客観との分離を前提とし、特に主観に特別な意味合いを与えています。ニュ−トン以後もマッハのように物理学の法則の有効性は主観的な「思惟の経済」によるとする立場(すなわち、より単純に説明し理解される法則がより真理である)もありますが、主観は客観を前提とし、客観は主観を前提としつつ私たちの認識はそれらを包含する法則に従っていると考えるのが妥当でしょう。とするならば、先に見た条理や哲学的カテゴリ−も、そのような法則と同じように実在するといえるのではないでしょうか。
 これは自然と認識主体である人間との連続性を前提とする立場です。これに対して、カントのように主観と客観とを分離するのは自然と人間との連続性を否定する立場といえるでしょう。前者においては人間が自然のひとつとしてその内に包摂されているのに対し、後者では自然と人間とは分離し対立したままとなります。ですから、あり方としての条理は前者の立場では自然も人間も何らかの形で規定している普遍的なものとされますが、後者ではたとえ理性を持つ認識者にとって普遍妥当的であっても、客体まで含めた妥当性を持たないことになります。当然、梅園の立場は前者に属し、カントの立場は後者に属することになります。
 このように見てみると、条理に何らかの実在性を認める梅園の立場の方がカントよりも優位にあるように見えますが、次の点に気をつけておく必要があります。まず、今まで見たカントの立場は「純粋理性批判」の立場であって、必ずしも彼の哲学全体の主張とは言えないということです。今まで述べてきたように、この二つの立場は純理論的にはどちらが正しくてどちらが誤っていると決定づけることはできません。カントは純粋理性の立場では哲学的カテゴリ−の客観への適用を控えていますが、「判断力批判」などでは必ずしもそれを否定していません。また、梅園の場合、あり方とあり様との峻別が十分でなかったために、具体的あり様のレベルであり方としての条理を当てはめてしまっている場合があります。これはカント流に言えば理性の僣越な使用に当たるでしょう。
 山田氏や岩見氏が梅園哲学に対して批判的であるのも、このような背景があるからだと考えられます。まず、主観と客観とを分ける近代的思考が梅園の条理モデルを単なる「人の造りしもの」としての論理モデルではないかと思わせていますし、更には梅園自身の条理モデルの自然界への過剰適用がその思いを強くしているようです。地道に実証的な研究をされている方にはこの点が梅園理解のネックになって当然かもしれません。しかし、純粋にモデルの学としての数学の場合でも本当にそれは単に「人の造りしもの」なのでしょうか。山田氏は中央公論社・日本の名著「三浦梅園」の解説のなかで次のように述べています。

かれ(梅園)の概念を数学の記号に置き換えれば、あるいは群論が生まれるかもしれぬ。言語と記号にかんする理論としてならば、疑いもなく特異な業績となっていたであろう。しかし、それをいわゆる天地に、実在する物の世界に適用しても、ほとんどなにも出てこないだろう、とわたしは思う。(中央公論社・日本の名著「三浦梅園」261P)

恐らくこの部分こそ山田氏と私との哲学的立場の違いを最も端的に示しているように思います。私は言語と記号に関する理論は「あり方」という形で実在と深く結びついていると考えています。私は数学の諸体系にしても、先に述べた円の定義のようになんらかの形で実在と結びついていると考えます。というのも、数学的に定義されるものは現実に経験する実在の形状の反映であり、数学はそれを言い表す適切な定義によってそれを捉え直したと考えるからです。しかし、数学の場合、極めて現実との接点が限られているのも確かです。それでは言語と記号についての一般的理論はどうでしょうか。私はそこに条理の実在性を明らかにする鍵があると考えています。
 

3 コミュニケ−ションの前提としての条理

 数学が一度、定義や公理が設定されるとその内部で展開される学問であるのに対し、言語学や記号学は常にそれぞれの言語や記号と実在との関わりを問う学です。特に、言語は常に何らかの意味内容を伝えるものであり、言語学はそのしくみを音声・単語・構文などのあらゆる方面から探究する学といえるでしょう。条理学との比較においては、この中でも言語の枠組みに関する部分、昔流に言えば、文法学の部分が問題となります。
 さて、そもそもどうして言語を通して人間はコミュニケ−ションをすることができるのでしょうか。また、どうして異なった言語どうしの間で、完全とは言わないまでも、翻訳が可能なのでしょうか。それはまず、発声は異なっても同一の対象を指し示す言葉があること、また細かい仕組みが違っても、互いに大枠において変換可能な言語の枠組みを持っていることによります。私はいま中途半端なまま英語やドイツ語、スペイン語などの勉強をした挙げ句、いま日本語教育の勉強をしているのですが、そこで気づくのは、その仕組みの多様性にもかかわらず、言語には普遍的なル−ルがあるということです。例えば、日本語と英語などの印欧語との間には主格としての主語が明示されるかされないか、人称による変化があるかないか、複数形と単数形の違いに敏感であるかないかなどの多くの違いがありますが、いくつか共通な基本的枠組みの上に成り立っています。取りあえず、文法構造のうちいくつかポイントになるものを下に列挙してみましょう。

 @行為者としての主格−その行為の対象となる目的格
 A能動態−受動態
 B語られる対象(主語)−その語られる内容(述語)
 C単数−複数
 D人称:一人称−二人称−三人称
 E時制:現在−過去−未来  など

このうち、@とAは人間の言語が動詞によって示される「働きかけ」を軸に成り立っていること表し、Bは「○○が××である」というように特定の対象がある性質を有していることを表しています。この点はどの言語にも共通で、日本語のように主語(主格としての)を明示しない言語でも基本的には変わりません。一方、C以下はそれぞれの言語でまちまちで、単数・複数の区別は印欧語では重視されますが、日本語ではほとんど区別されません。また、一番下の時制については、その分け方はさまざまで、スペイン語などのラテン系の諸言語は日本語よりも細かく時制を区分しています。ただ、いずれにしても言えるのは、私たちが言語を学習する時、これらの区分を実在のあり方に従って理解できるということです。日本語では複数・単数あるいは人称による区別はあまりしませんが、そのように区別することが可能であると理解することができます。文法の中には名詞の男性形・女性形の区別のように、その民族の特殊な世界観を反映したものもありますが、その多くは実在のあり方に由来するものであり、どの部分に重点を置くか置かないかの違いはあっても、いくつかの部分は言語の普遍的枠組みとして取り出すことができます。
 ここで注目すべきは、これらの文法構造を示す用語の多くが対構造になっていることです。「主格−目的格」「能動態−受動態」「複数−単数」はその典型です。これらは互いを前提とし、数学の定義で用いられたような単独での実体的定義は不可能です。更に、人称については「私−あなた」の対構造そのものに「−それ以外の第三者」が対をなし、時制の場合も、「前後」の対関係を示す「過去−未来」に「今」としての「−現在」が対をなしていると見ることもできます。これらの場合も条理と同じように実体的定義はできません。
 この言語の基本的構造は人が人とコミュニケ−ションをし、自然を言語によって理解する基本となるものですが、先に述べた万有引力の法則のように、語る人間と語られる対象の両者に関わり、それらを媒介するものです。言語によって人と人とがコミュニケ−ションできることは、人間の間に普遍的理性があることを示していますし、またそれによって自然が分析され解明されることは自然もそれによって語られる素地があるということです。私たちはコミュニケ−ションというと人と人とのコミュニケ−ションに限定しがちですが、一定の秩序の中での物質やエネルギ−、そして情報のやり取りそのものをコミュニケ−ションと考えるならば、言語によるコミュニケ−ションも自然界のコミュニケ−ションの一つの形ということができるでしょう。そして条理や哲学的なカテゴリ−がその前提となる秩序を語るものである限り、それは実在するといえるのではないでしょうか。
 このような哲学的モデルは決して単なる「人の造りしもの」ではありません。少なくとも、人の頭の中だけで出来上がるものではなく、経験的事実を考慮することが必要です。実際、言語学の分野においては多くの言語の観察によって言語の多様性と同時にその共通性も明らかにされつつあります。また、その一方、その成果は現代の認知科学に多くの貢献をしています。あり方としての条理モデルは、普遍的なカテゴリ−モデルとも言えるのですが、このモデルは決して一様なものではありません。言語が多様であるように、それも多様であり得ます。ある言語ではある部分が詳しくて、他の部分が意識されていないことがありましたが、カテゴリ−モデルにもそのような偏りがあり得ます。結局、哲学も、自然を解釈する普遍的モデルを探究する点においては、他の経験科学と同じように自然(この場合は言語も含む)を師としながら発展していく実在を探究する学の一つだといえるでしょう。
 

   お わ り に

 三浦梅園は江戸時代の日本の哲学者です。正確に言えば、当時哲学という概念は日本になかったわけですから、現代の目から見て「哲学」したと思われる思想家です。しかし、いずれにせよ、このような古典ともいえる著作を残した思想家は常に新たな時代に問題を投げかけるものです。歴史的制約がありますから、かつてのように無条件にカントやヘ−ゲルと比較するのは無理にしても、それは何らかの形で現代の思想にも影響を及ぼすものです。今回は梅園哲学の理解のし方を通じて実在論の問題を扱って見ました。梅園研究については北林氏も指摘しているようにいまだテキストクリティークが不十分で、研究の前提もまだ整っていないのが現状です。しかし、その一方、梅園哲学の独自性のために思想レベルの混乱が続いてきたのも確かです。私がここで扱った実在論の問題は決して文献学のレベルでは答えを出すことができません。私自身の梅園の文献研究はこれからですが、梅園研究の混乱の中で少なくとも何が思想上の問題であるかは理解していただけたのではないかと思います。
 

*1 この論争の背景には、プラトニズムの影響の下で、当時の実在論が「普遍」そのものがその原型として「個物」に先立って在るとする立場を取っていたことが考慮されねばなりません。このように哲学的実在論にもいくつかのタイプがあります。

*2 カントの物自体(Ding an sich selbst)は人間の感官を触発し、現象を生じさせるものですが、それ自体は認識されないものとされています。カントはこの物自体の世界である叡智界と人間が認識する現象界とを分け、倫理的な事柄は前者に属し、科学的因果性は後者に属するとしています。これは後にヘ−ゲルによって、私たちには認識され得ず、単に感官を触発するものが存在するのは矛盾していると批判されることになりますが、自然と人間との連続性を考慮する限り、論理的にはヘ−ゲルの批判は当たっているといえるでしょう。ただし、カントの真意が人間の自由意志を叡智界において保持しようとしたことを考えると、この考えにもそれなりの意味があるといえます。私はこの物自体の考えを自然や人間の自発性を問うものとしてデカルトの精神、スピノザの自己原因の考えと共に論じることができると考えています。
 

 参考文献:もし「右」や「左」がなかったら   井上京子著 大修館書店

 

[三浦梅園のこと]