条理学の可能性


 梅園の哲学は条理学とも呼ばれます。すなわち、彼の哲学の根本には「一即一一、一一即一」の原理があるわけですが、この条理がいかに彼の哲学を決定づけているか、そしていかに現実世界に対するものの見方に影響を及ぼし得るかについてはこれまであまり議論がなされていなかったように思われます。特に、梅園哲学が難解と思われているせいもあって、条理学の現実的な意味についてはほとんど目が向けられてこなかったのではないでしょうか。一般に、哲学は浮き世離れした学問と見られています。殊に難解な哲学においてはそうです。しかし、哲学は現実に対する切実な問題意識なしには成り立たないのです。そこで、私(岩田)は今回この条理学の現実世界に対する意味をその可能性として提示したいと思います。
 

1.条理学と二元論

 条理は梅園自身によって「一即一一、一一即一」の形で定式化されています。これは一見、単なる形式的な規則のようにも見えますが、存在の原理としてより以上の意味を含んでいます。まず、それは相即の原理として存在する特定の何か(一)がそれに反する何か(一)を前提として成り立っていること、そしてその両者の対峙そのものがそれらによって成り立つ何か(一)であることを示しています。例えば、「右」は「左」を前提として成り立つのであり、その両者の対峙の上に「左右の方向性(次元)」が成り立ちます。ここでは、「右」も「左」も単独では成り立たないのであり、そのうちのどれか一つを説明するためには常に他を用いる必要があります。また、この条理は「分合」の原理として存在の生成・変化の原理でもあります。存在が「一即一一、一一即一」の原理による以上、一見無秩序に見える世界の変化にもこの原則は当てはまるというわけです。ここにおいて、この条理が相即の原理としてすでに存在している世界のあり様を規定していると同時に、未だ自己を生成し形作っている世界のあり様をも規定しています。梅園自身の表現によるならば、前者が世界の「成」の側面をなし、後者が「為」の側面をなすと言えるでしょう。

 ところで、ここで注目すべきは、この条理が単なる規則として世界(自然)を外から規定しているのではなく、世界そのもののあり方として自律的に世界を規定しているということです。人間社会における普通の規則は、たいてい規則を作り施行する立場の人々とそれを遵守すべき立場の人々とが分かれています。つまり、実際には規則を作る人々が同時にそれを守る人々であったにせよ、規則を与える人とそれを与えられる人とは分離して考えられると言うわけです。この場合は人間社会におけることですけれども、更にこの考えが自然界にまで押し進められるならば、この分離は世界を一定の規則に従うものとして「秩序づけるもの」と「秩序づけられるもの」との二元論へと発展していきます。

 今まで多くの哲学は、梅園の条理の自律的な考えとは違って、このような二元論の立場から世界を説明してきました。(1) 西洋の場合、神が世界を創造したとするキリスト教の影響がこの二元論の背景にあったことは否定できないでしょう。しかし、キリスト教を含んだ一神教はすべてが神に由来するという点で一元論的性格を持っています。哲学的にむしろ問題となるのは、プラトンのイデア論やアリストテレスの「形相」と「質料」の概念に見られるように、普遍的なあり様としての「形」とその形が与えられる個別的な「質」との分離、更にはそのような「形」を与える「精神」とそれが与えられる「物質」との二元論が問題となります。西洋哲学においては、どうしてそれ自身形を持つことがなく、その動きも無秩序に見える「質的なもの」が特定の形を持ちうるのか、そしてどうしてその形を与えようとする「精神」が「物質」である「肉体」を動かすことが出来るのかが問われてきました。一見、キリスト教的な神が西洋哲学の中に登場するのは、このような二元的要素の媒介として要請される場合が多いのです。しかし、一見して明らかなように、これは学問的には二元論の問題に一元論的解答を与えることを放棄したことを意味します。実際、哲学の世界では「神」による問題の解決がなされても、科学のレベルでは依然として謎は残されたままでした。

 このような二元論の問題が科学において問題となった典型的な例として生物学における生気論と機械論との対立が掲げられるでしょう。生物というのは質料的な自然的存在でありながら、自ら自己を形造り運動する自律的存在です。これに対して、生気論は生物の中に自己形成し運動をする「生気のようなもの」が存在すると主張し、一方、機械論は自然的質料の集まりにすぎない生物は機械的仕組みによって自己形成をし運動をするにすぎないのであり、一見「生気」があるように見えるのはその複雑さのためにすぎないと主張しました。この論争は今世紀のはじめまでつづき、実際には決着のつかないまま今日に至っているようですが、最近になってベルタランフィーの一般システム理論やブリゴジンの散逸構造理論などによって徐々に解決の糸口が見えてきているようです。これらの理論は従来の二元論的な立場からではなく、自然の自律的な自己生成を認める立場から問題に取り組んでいる点で注目されるべきでしょう。(2)

 実は、梅園の条理学も世界(自然)の自律的自己生成を説明する重要な原理であると考えられるのですが、同時に人間社会がいかにして秩序づけられるべきかという問題においても重要な視点を与えるものだと私は考えています。というのも、自然の自律性の原理は同時に自然の一つである人間やその社会にも適応されるべきでだからであり、哲学としての条理学は自然学と社会学との両者の基礎的学であるべきだと思われるからです。
 

2.秩序のための2つのルール

 すでに述べてきたように、条理とは自然や社会に対して外から与えられる単なる規則ではありません。しかし、このような条理は他の規則とどのように異なっているのでしょうか。そして、そもそも「規則」とか「ルール」とか呼ばれているものは一体どのようなものなのでしょうか。規則には、まず第一に、自然や社会それぞれの秩序を維持するための条件と見ることが出来ます。秩序がなくては自然環境も人間社会も維持されることはありません。もしそれがないならば、自然に何かが存在するにせよ互いにランダムに衝突しながら、無意味な動きを繰り返すだけになるでしょう。人間をはじめ、生物やあらゆるそれ以外の存在者が何らかの意味を持って存在しうるのは、世界(自然)に何らかの秩序が存在し、その下で互いにエネルギーや情報の伝達をすることが出来るからです。このことについては条理学でも他の二元論の立場にあっても変わりはありません。しかし、二元論の場合、その秩序は外から与えられるものであって、自然そのものの中にその原因が見いだされるわけではありません。とすると、この場合、何故このような秩序が外から与えられなくてはならないのかということが問題となります。西洋の場合、ここでも神がその答えを担うことになります。つまり、神が一定の目的へ世界を導くためにそれに秩序を与えているのだというわけです。アリストテレスはキリスト教以前の哲学者ですが、このような考えを最も早くから提示した哲学者として注目されるべきでしょう。しかし、梅園の立場からすれば、人の立場からそのまま世界(自然)のあり様を導き出した「推観」によるものであり、そのまま受け入れられるものではありません。

 これに対して、条理学の場合、秩序は自然や社会を維持するための条件であるにせよ、それは何かの目的のための手段としてあるわけではありません。確かに神様がいて世界を創造したにせよ、それすら自然的事実にすぎないのであり、自然そのもののあり方を考察する条理学にとっては本質的なことではありません。ですから、ここにおいて世界(自然)は「目的」というような人間的な意図とは関係なく、ただ「在りて在る」ものと言うことになります。このような二元論と条理学との立場の違いは全く規則に対して異なった見方を与えることになります。この違いを一言でいえば、二元論の提示する規則は常に自由を制約する方向に働くのに対し、条理学のそれは自由そのもののための規則という事になります。

 二元論の場合、秩序は目的に対する手段ということになります。ですから、その秩序を実現するための規則もその目的を達成するために次々に変更され、複雑になることが考えられます。このことが典型的に見られるのは人間社会の法律の世界だと言えるでしょう。私自身公務員をやっていてつくづく感じるのですが、近代社会の法律はそれまでのものと比べてますますややこしく、複雑なものになっています。それは近代社会が多くの目的を次々に抱え込み、更にその目的を達成しようとして様々な派生的な目的を作り出しているからです。かつて漢の高祖の時代には「法三章」程度であったとも言われる法律の数が、今や無数に膨れ上がっているのが現実です。神様の作った法ならいざ知らず、人の作り出す法にあってはこの傾向は否定できないでしょう。これに対して、条理学の提示する規則とは純粋に一定の秩序が維持されるためのものと見ることが出来ます。これはスポーツや囲碁・将棋などのゲームのルールに見ることが出来るでしょう。このようなルールは何か特定の結果を導き出すための規則ではありません。むしろ、ゲームがいろいろな方向に発展し、面白くなるような条件としての規則です。「野球は筋書きのないドラマ」という言葉があるように、ゲームにおいては決まり切った筋書きは不必要どころか、あってはならないのです。従って、前者が特定の目的のための規則であるのに対して、後者がそのような目的に制約されない規則であるということが出来るでしょう。

  私はこのような2つの規則に対して、二元論的な立場による規則を「ポジティブ・ルール」と呼び、条理学による規則を「ネガティブ・ルール」と呼んで区別したいと思っています。一般的に、「ポジティブ」には「積極的な・肯定的な」という意味があるのに対し、「ネガティブ」には「消極的な・否定的な」という意味があるために、前者の方がよいイメージを持たれることが多いようです。しかし、条理学の立場からすればそれは反対のものとなります。「ポジティブ」の方が「ネガティブ」よりも不自由で息苦しいイメージを持つことになるわけです。そもそも「ポジティブ」とはラテン語の「pono」に由来する言葉で、「置く」とか「立てる」「配置する」等の意味を持つ言葉からきたものです。ですから、特定の場所にたくさんのものを入れると身動きがとれなくなるように、「ポジティブ」でありすぎることは、その場を不自由で息苦しいものにしてしまいます。ちなみに、「実証主義」のことを英語で「positivism」と言いますが、これには対象を実証的データで詰めて特定の結論を出そうとする近代精神をよく言い表しているように思えます。

 ところで、条理学においてはその基本的な原理は相即の原理としての「一即一一、一一即一」ですが、ゲームのルールが一つではないなように、その学の示す規則も「一即一一、一一即一」に限られるものではありません。それは「玄語」において語られている所のものですが、私はそれを一種のカテゴリー・モデルとして捉えられるのではないかと考えています。カテゴリーというと非常に抽象化された基本的概念というイメージがありますが、それは決して個々の具体的なあり様を直接に抽象することによって得られる観念ではなく、そのあり方を反省する事によって導き出される形式的規則というべきものなのです。それはちょうど言葉における文法のようなものであり、具体的な何かがいかに語られようともそれに従ってしか語られ得ない規則のようなものなのです。ですから、条理学にあっては具体的な事物の多様性を保障するために、個々のあり様から独立のものとしてカテゴリーが語られなくてはなりません。条理学とは、図に示されるように、自ら秩序づけ秩序づけられる世界の中から、このようなカテゴリーを導き出し、同時にそれが世界にうまく適合していくかを検証しつつ発展していく普遍的な学問ではないかと考えています。(3)
 

3.条理学における秩序観

 このように条理学と二元論との比較によって自然や社会における規則、そしてその背景にある秩序についての異なった2つの見方が提示されたわけですが、このことは哲学・思想の範囲を超えて直接的に私たちの生活に影響を及ぼし得る問題を含んでいます。人は哲学者でなくてもその内に何らかの行動の規範を持っています。特に、秩序に関しては無意識のものであれ意識的なものであれ、人はそのような規範を持って生きています。それは人間が社会的動物であるために、他者とのコミュニケーションの中で生きてゆかねばならず、そのためにはその前提となる秩序に対する一定の観念を持っていなくてはならないからです。もし人々の行動が不規則で予測のつかないものだったらどうでしょう。社会は当然成り立たず、人間の生活も成り立たなくなってしまいます。また、たとえ社会が成り立っていても、その秩序がある人にとって意味不明でその規則が理解できないとしたらどうでしょう。そうであれば、その人は気が狂ってしまうか、少なくとも神経症になってまともな生活が出来なくなるでしょう。このように人々の生活に秩序や規則が必要なのは、個々の人間がそれに従って他者の行動を予想・期待し(expect)、その上で自己の行動を決定することが出来るからです。ですから、秩序について論じることは、自然学においてはもとより、社会学においてより重要な意味を持つのです。

 実は、先に明らかにした条理学と二元論との秩序観の違いは、すでに学問のレベルを越えて、現実に生きる人間の人生観の違いに根ざしています。というのも、何か社会秩序の崩壊によって問題が起きた時、その解決の姿勢にこの秩序観の違いが端的に現れてくるからです。二元論の立場に立つ人は社会的問題の多くはその規則が個々の人間に徹底されていないからだと考えます。ですから、最近のように青少年の犯罪が目立ってくると、道徳教育や生活指導の強化を通じて子供たちに対する秩序の意識を徹底させなくてはならないと考えます。これに対して、条理学の立場に立つ人は、このような社会的な混乱はむしろ子供たちに対する社会の締め付けがきつすぎるからだと考え、教科の軽減や教育の自由化を必要なものとして掲げます。ここにおいて2つの立場は全く相反するのであり、いずれの立場を取るかによってその解決の方向が全く違うものになってしまうのです。(4)

 それ故、秩序に関わる問題は今までの思想史においてもかなり強い社会的な影響を受け、また逆に社会に対して強い影響を与えてきました。日本の場合、秩序の問題はそのまま社会もしくは人間関係の問題として扱われてきましたが、他の国々では社会を越えた世界(自然)観の問題として扱われてきたと言うことが出来るでしょう。(5)例えば、朱子学について言うならば、何故この学が理気二元論の立場を取り、他の道教や仏教と一線を画さねばならなかったのかは私にとって一つの疑問だったのですが、朱子学の社会的役割を考える時、納得がいくような気がします。一般に、自然の外に創造主である神を認めない中国の思想にあって、自然そのもののあり方は我々の社会の見本であり、完全なものであると見られています。しかし、人間の社会については決してそうではなく、特に儒学の立場においては、支配層によって人民に「理」が与えられなくてはならないという考えがあったのではないかと思われます。ですから、理気一元論の立場をとってしまうと、人民に対して社会的秩序を与え社会を補完するという支配層の存在意義がなくなってしまい、同時に支配者の学としての儒学の存在も危うくなってしまうというわけです。確かに条理学のような一元論の立場にあっても、何らかの支配や管理は必要であろうと考えます。しかし、可能な限りそれはゲームの審判のような中立的なものに限られるべきであり、社会保障や危機管理以外の分野では、個々の社会的事情に立ち入るべきではないと考えます。儒学の立場も本来そのようなものではないかと思うのですが、支配者の学となった以上、二元論的性格を帯びるようになったのかもしれません。

 ところで、このような秩序観の背景には広い意味での性善説・性悪説の問題が絡んでいるのではないかと私は考えています。「広い意味」というのは、普通「人の性は・・・」という形で性善説・性悪説が論じられるのですが、ここでは「世界(自然)の性は・・・」と読み替えているからです。これを正確に言い換えると次のようになります。すなわち、「人間を含めた自然的存在者は本来、自ら秩序を創り出す能力を持っているか?」というのがそれです。これに対して、条理学の立場は肯定的であり、朱子学のように理気二元論を取るものがあるにせよ、概ね儒学の立場もそうではないかと思います。更に、キリスト教やイスラム教、仏教の立場においてもそれは肯定的に考えられているのではないかと思います。確かにこれらの宗教は「罪」や「業」などの人間の否定的な面にも目を向けますが、むしろそれを通じて人間の救済が可能であると説いているからです。少なくとも「・・・能力を持っているか?」という可能性の面においてそれらは否定的ではありません。

 これに対して、近代社会は性悪説の立場に立って人々を支配してきたのではないかと思います。その典型が社会主義国家(6)であり、個々の人民には新しい時代を理解するだけの能力がなく、国家や党の指導がなくては生きてゆけないという前提のもとで政治がなされてきました。ここでは一部の指導者だけが「善」であり、他は「悪」でもあるかのように社会が運営されてきたのです。その結果がいかなるものであるかについては、二十世紀も終わりにさしかかっている今となっては明白なことです。けれども、その誤りが完全に理解されていないのも確かなようです。カルトと呼ばれる最近の宗教団体においては、かつてのこの誤りがより激しい形で繰り返されているように思えます。つまり、一人の教祖もしくはその教祖の作った宗教団体のみが善であり、個々の信者は本来救われる能力がなく、それ故に彼らは教祖に絶対服従しなくてはならないという考えの下で組織が運営されています。このような考えが後を絶たないのは、性悪説の論理的矛盾に多くの人が気づいていないからと言えるでしょう。このような独断的組織の人々は人間を救われない悪と断じておきながら、その一方その同じ人間である教祖やその組織を善であると矛盾した主張をしています。(7)恐らく彼らにとっては教祖やその組織は例外であるということになるのでしょうが、このように安易に例外を認めてしまうという態度こそ本来戒められるべきものなのかもしれません。あのオウム事件が起きた時、多くの人々がオウムの信者はマインド・コントロールされていると考え、彼らは特別の人々、つまり例外であると考えました。しかし、より理性的な立場に立つならば、オウムにおいてマインド・コントロールが存在し、それが危険な行動に結びつくならば、まず自分たちがマインド・コントロールされているのではないか、すでにそのような社会に生きているのではないかを疑い、そもそもマインド・コントロールとは何か、マインド・コントロールされているか否かを自分で検証することは可能なのかという問いを立ててみるべきでしょう。条理学はこのような理性の使い方にまで踏み行っている点において注目に値するものだと私は思います。習気を廃し、反観合一によって真理を検証しつつ明らかにしようとする梅園の哲学的態度は条理学の原則を以て条理学の方法を規定しています。

 今回は条理学を一元論と二元論との対比を通して秩序観の問題から論じてきました。この2つの秩序に対する考えの違いは、条理学が自由と秩序とを一元的に捉え自由のために秩序を求めるのに対し、二元論は両者を相反する同列のものとして捉え、秩序のためには自由を犠牲にしなくてはならないと考えているところにあります。条理学にあって個々の自由は他の自由と相反しない限り制約を受けません。それは世界がより自由で多様であるべきだという世界観を提示するものだと言えるでしょう。にもかかわらず、梅園の条理学が静的で痩せこけた形式的秩序のみを提示していると一部で見られているのは残念です。(8)いずれにせよ、条理学をはじめとした哲学・思想が本来、机上の空論ではなく、常に現実に対する問題意識を背景に持ち、それと関わっていることが理解されたならば幸いです。
 

(1)哲学が言葉によって成り立つ以上、二元論への傾向は不可避のものと言えるでしょう。というのも、「精神」であれ「物質」であれ、そこに言葉がある以上、それに対応する何かが目の前にある机や椅子のように単独で実在するように人間は考えてしまうからです。「秩序づけるもの」と「秩序づけられるもの」との対立は本来、作用するもの(能動的なもの)」と「作用を受けるもの(受動的なもの)」との相即の関係にあり、両者が不可分であることは直観的にも明らかなのですが、それぞれに別々の言葉が与えられることによって、両者が単独に実在するかのような錯覚が生じるのです。このことは西洋哲学のみならず、理気二元論のように中国哲学においても、また古典サーンキヤ哲学の二元論や部派仏教における「法体恒有」の思想のようにインド哲学にも見ることが出来ると思います。

(2)最近話題になっている「複雑系」の考え方はこのような科学の流れから出てきています。今のところ「複雑系」という言葉だけがひとり歩きしている観がありますが、これらの科学は従来のもののように単に部分をつなぎ合わせて全体を理解しようとするのではなく、実証的方法に依拠しながらも、全体をその部分との有機的な連関に基づいて理解しようとする新しい科学の方向性を提示しています。

(3)このように言うとカテゴリーは具体的な経験的実在から離れた形式的なものと見られるかも知れません。事実、カントのカテゴリー表は論理学の判断表から取られてきたものであり、その意味で直接経験から導かれたものではありません。しかし、それは経験される世界に適応されることによって初めて実効性を持ちうるのであり、広い意味で経験を通して見い出され検証されるものだと考えます。このことはただ一つのカテゴリー・モデルのみが可能なのではなく、複数のカテゴリー・モデルが可能であり、それらが相互に補完し合う可能性があることを示しています。梅園にあっては、「自然を師とせよ」という立場にそのことが示されていると言えるでしょう。

(4)日本の教育について考えるとき、私は荘子・応帝王篇・第七の渾沌の話を思い起こします。哀れな渾沌はお節介な友人のために七つの穴をあけられ、死んでしまいます。過剰な秩序は結局、自由と共に秩序そのものを否定します。道家の思想は「無為」という言葉を以てこの秩序の過剰を戒めていると思います。

(5)梅園の思想に関して言えば、その地球球体説がいかに社会的インパクトを持ち得たかについてはすでに高橋氏が論じたところです。高橋正和著「三浦梅園 叢書 日本の思想家23」174p以下を参照してください。

(6)ここで「社会主義国家」としているのは、マルクス=レーニン主義等による左翼イデオロギーの国家のみではなく、ナチスのような国家社会主義をも含めてのことです。

(7)カルトの信者たちは、更に次のような論理的矛盾もおかしています。まず、彼らは教祖に対して不完全で無力な人間として服従し、その教えを無条件で他人に押しつけています。しかし、教祖もしくはその教団を絶対的に正しいと判断しているのは信者自身です。その意味で彼らは自分たちが不完全で無力な人間であると知りながら、あたかも完全で絶対的な判断力を持つ神のように振る舞っています。彼らがもし知的良心を以て理性を働かすのであれば、このような独断論に伴う矛盾を回避し、少なくとも教条的な服従行為に至ることはないと私は考えます。

(8)梅園の思想がこのような誤解を受けるのは、彼の自然学に起因するところが大きいように思います。彼はカテゴリーとしての条理学の原理の多くをそのまま自然学に持ち込んだために、自然について牽強付会とも言える解釈をしているようです。しかし、この場合、次の点に注意しなくてはなりません。それは当時意識されていた宇宙の広さは太陽系の外には出なかったこと、そして生物の種は進化によって変化するものであるという事実がまだ認められていなかったことです。ヘーゲルも惑星の数は5つでなくてはならないとする誤った論文を書いていますが、これは太陽系や生物の種が限定された特殊なものであり、偶然的な要素によって決定されるものであることが認識されていなかったためと言えます。当時の哲学者達において、これらは何らかの形で自然のあり方を直接的に反映しているはずだという考えが支配的であったことを我々は考慮しなくてはならないでしょう。

 

[三浦梅園のこと]