哲学に対する2つの偏見から

by

岩 田 憲 明



 今日、梅園を評価する声がようやく高まってきましたが、それでも三浦梅園という思想家については難解なイメージが払拭されていません。それは、恐らく梅園自身が今までの日本の知的伝統を越えた哲学者としての側面があるからだといえるでしょう。ですから、今回の私のお話では梅園の思想そのものよりも、まず梅園を理解するために哲学とは何かというテーマで、一般の方にも分かる哲学案内という形でお話をしたいと思います。

 哲学は他の学問とは違って、すでに考え出され見出された内容を学ぶ学問というよりも、考えることそのもの、つまり考えるプロセスを学ぶ学問だということができます。確かに大学には哲学という学問分野があり、先人の哲学書を学んでいるわけですが、哲学の本来の姿としては自ら学び考えることの一連のプロセスが哲学そのものであるわけです。その意味で梅園の思考態度には哲学者として大いに学ぶべきものがあります。ここでは、まず梅園の思考態度を問いかけることを通じて哲学のあり方を明らかにし、また同時にそれに対する常識的態度を示すことを通じて哲学の必要性を説いていくことにしましょう。

 梅園哲学は条理の哲学と呼ばれていますが、この条理とはどのようなものでしょう。一般には「一即一一、一一即一」という形で示されますが、この条理は何か特定の事柄について語られたものではありません。それは自然として存在するすべてのもののあり方として語られているものです。梅園の場合典型的ですが、哲学者は人を含めた天地自然には共通する秩序(あり方)があるという確信を持っています。忙しい日常の中ではその場限りの知識さえあれば何とか切り抜けられると考えるのが常識的な人の常です。しかし、その一方で誰かがその「その場限り」を越える問題意識をもたなくては世の中が立ち行かなくなるのも確かですし、今日のように世の中そのものが大きく変化している時代にあっては、普通の人々も時にはそのような問題意識を持つことが必要だといえるでしょう。しかし、ここ数年の日本の状況を見ていると必ずしもそのような方向に動いているようには思われません。むしろ、生活が逼迫するにつれて哲学などますます考えられない状況に陥っているのではないでしょうか。

 このような常識的態度の背景には、まず、次のような偏見があるように思えます。

哲学なしでもその場に必要な知識があれば困らないし、
忙しい日常ではそのようなことにかまっている暇もない。
いずれにしても哲学は無用の長物である。

このような考えを意識的に持っている人はそう多くはないと思いますが、無意識のうちにそのように考えている人はかなりいるのではないでしょうか。この偏見が表に現れるのはこの偏見を持つ人が自らのあり方そのものを問いかける質問に出会った時です。

 梅園は幼いころから物事の根本にかかわる問いを発していました。その梅園の問いに対して一般の人たちがどのように反応したかについては「多賀墨卿君にこたふる書」に詳しく書かれています。

「かく物に不審の念をさしはさまば、月日のゆきかえり、造化の推し遷るは更にして、己が有と占め置ける目のみえ耳のきこゆるも、態をなす手足も、物をおもう心も、ひとつとして合点ゆきたる事はあるまじく候。それを世の人いかがすますとなれば、「筈」というものをこしらえて、これにかけてしまう也。其の「筈」とは、目は見ゆる筈、耳は聞こゆる筈、重きものは沈む筈、かろき物は浮かぶ筈、是れはしれたる事也とすますなり。然れば其の次手に、雷は鳴る筈にて鳴り、地震は動く筈にて動き、枯れ木に華さかんもさけばさく筈、石のものいわんもいえばいう筈と、すまし度るものなり。(岩波文庫「三浦梅園集」13-14p / 同「三浦梅園自然哲学論集」27P)

ここでは当たり前のこととして人々が無条件で受け入れていることが「筈」という言葉で表現されているのですが、この「筈」には自分たちが生きている前提に対して無関心になっている生活態度が見て取れます。私はこのような考え方を「懐疑論」と呼びますが、これは人々がこのような自然の諸事象の背後にある秩序の存在に何ら確信を持たないまま、ただそれらを「そのようなもの」と受けとめ、より深く考えようとしないからです。梅園の「不審の念」は、一見すると、すべてのものに懐疑の眼を向けているようにも思われますが、むしろそのような天地の根本的なあり方を見出すためのものだと言うことが出来るでしょう。

 自然に対する問いかけではこのことから生じる問題はあまり目につきませんが、人間が自ら作り出した社会においてこれはより深刻な状況を引き起こしています。社会常識に対して「筈」という態度で臨んでいる人たちには、それがいかに理不尽なものであっても「し方がない」という形で受け入れることになります。例えば、バブル崩壊後、多くの企業は粉飾決算を繰り返してその場をしのいできましたが、もうそのような先送りは限界にきています。むしろ粉飾決算によって事態は悪化したのですが、それに従事してきた社員の人たちはそれによって給料をもらってきたという現実があります。給料をもらっているのだから問題ないだろうという見方もありますが、結局、企業の業績を悪化させたその場限りの先送りが自らの首を締めているともいえるわけです。不況という現実を目の前にして、多くの人は今までの常識を変えようと試みていますが、それは今までの会社の掟を単にグローバル・スタンダードというアメリカの常識に切り替えようとする動きに過ぎないようにも思われます。無意識のうちに受け入れていた自らの根本的な生き方を変更するには、以前からより広い視野で物事を考える必要があるのであり、たとえ社会のことに問題が限定されるように見えても、時として梅園のように天地自然のあり方から問い直しをしなくてはならないこともあるのです。

 ところで、世の中には哲学に対するもうひとつの偏見があります。それは懐疑論とは逆に、次のように人間が見出す世界の秩序への過剰な期待によって成り立っています。

哲学は人間の叡智による究極の万能薬である。
人々はこの万能薬に従って生きるべきである。

私はこのような偏見を独断論と呼びます。独断論では常に真理が人間によって間違いなく見出されるという前提にたっていますが、人間が誤りうる有限な存在である以上、このような考えは傲慢以外の何ものでもありません。しかし、現実には他人の説を無条件で受け入れることによってこのような独断論が横行しているのも確かです。かつてこれは特定のイデオロギーを絶対視する立場に良く見られましたが、今日ではカルトに見られるように特定の教祖を崇拝する人々に見られる傾向です。独断論の立場をとる人たちに共通しているのは「すでにどこかに答えが用意されている」という感覚です。この感覚は、画一的な教育のためか、かなり現代の若者に見られますが、不幸にも懐疑論は独断論に対抗するための世界の秩序に対する信頼を持っていないために、独断論の暴走を食い止めることができません。むしろ、日常生活の中でそれを助長することすらあります。それはアメリカのやり方をグローバル・スタンダードとして無条件に受け入れることにも見出されますが、「世の中は競争社会で、弱肉強食だ!」とか「世の中、金だ!」という懐疑論特有の一種の諦めから来る通俗的な思いにも見出すことが出来ます。

 このことを考えると梅園が「自然を師とせよ」と説いたことはきわめて重要な意味があると言えるでしょう。梅園は仏陀も孔子も学問的探求の友と見なしましたが、未だに特定の学説や人々を師として、それに盲目的に付き従っている人々は絶えません。独断論でも懐疑論でも、人々は自らの小さな思いの世界に安住しています。しかし、世界が人間の身勝手な思いによって成り立っているのではなく、逆に私たちが天地自然によって生かされていることを考えれば、私たちが自然に即して常に謙虚に自らの考えの是非をただすべきとも言えるでしょう。しかし、現実にそうなっていることはまれです。それというのも、私たちは自らの作った言葉を現実に押し付けることによって、現実を理解したと錯覚する場合が良くあるからです。梅園は先に引用した部分の後で次のように書いています。

「又、少し書読などいう人は、雷は陰陽の闘いなどいいて、人をさとすなり。其の人に陰陽というものをとえばしらず。爰において、我、其の智と愚とを弁ずる事能わず。この故に、智を天地に達せんとならば、雷をあやしみ、地震をいぶかる心を手がかりとして、此の天地をくるめて一大疑団となしたき物に候。(岩波文庫「三浦梅園集」14p / 同「三浦梅園自然哲学論集」27P)

ここに出てくる「陰陽」という言葉には中身がありません。確かに天地のあり方を暗示しているような文句ではあります。しかし、その言葉によって「分かったつもり」になっても、具体的に天地がどうなっているかを知ることはできません。それは梅園流に言えば、天地をいかに師としてその是非をはっきりさせるかの基準を欠いた言葉ということができるでしょう。独断論はある意味で、私たちが持つ言葉に対する過剰な期待が引き起こした混乱とも言えるのです。

 実は、今までの梅園研究においてもこのような言葉の混乱がありました。それは梅園哲学が「弁証法」だという立場です。戦後一時期まではこのような見方が主流でしたが、この弁証法説には重大な欠陥があります。というのも、先の「陰陽」同様「弁証法とは何か」ということがいまだはっきりしていないからです。弁証法にはヘーゲルのもの、マルクスのものなどいろいろなものがありますが、未だ「弁証法的」なものと「弁証法的でないもの」とを判明に区別する基準がありません。確かに明らかに弁証法的ではないものはあります。それは一般に形式論理学的と呼ばれるもので、これは「AならばB、BならばC、ゆえにAならばCである」というように、自動的に確定的なことから確定的なことを推論するような論理のことをいいます。しかし、弁証法そのものについてはそれが弁証法的であると決定できる積極的な基準はありません。もしそのようなものがあったなら、すでに学問の方法論として「弁証法的方法」というのが確立されていることでしょう。

というわけですが、その言葉の現実性を考えるために少し下の文章を考えてみてください。

 「現代フランス国王はハゲである」

この文章は現代においてはナンセンスです。というのも、現代フランスは共和国で王様はいないからです。「梅園哲学は弁証法である」という言明もこれに近いものがあります。ただ、「弁証法」の言葉の下で多くの哲学的思索がなされたのも確かです。現代科学は先に述べた形式論理に従って推論することによって成り立っています。それは物事を分析的に把握し、観察や実験を通して確証された事柄をつなぎ合わせ、積み重ねることによって真理を見出そうとするやり方で、今まで多くの成果をあげてきました。しかし、その一方で、多くの問題を含んでいます。対象を限定できる自然科学の分野ではこの方法は有効ですが、さまざまな要因が絡まる社会を探究するには必ずしも有効な方法ではありません。また、同じ自然科学の分野でも、医学や生物学のように複雑な有機的対象を探究するには不十分です。弁証法はこのような現代の自然科学に見られる分析的方法を乗り越えるために考えられた論理であり、多くの学者がこれまでに思索を続けてきた課題でもあったのです。とはいうものの、「弁証法」という言葉は、あまりに多くの思想家によってさまざまに語られてきた上、社会主義のイデオロギーの下に独断的に使われてきたということもあり、私としては梅園を理解する際に用いるべきものではないと考えています。「弁証法」という言葉を明確な基準なしに何かを説明するために用いることは、「現代フランス王」を主語にして何かを語ることと大差がない、というのが私の立場です。幸いにも、今日、自然科学の発達により、フラクタルやカオスの理論、複雑系やオートポイエーシスの考えを通じて今までよりも複雑で多様な対象を自然科学の厳密さを以って探究できるようになってきています。これからの梅園研究はこのような分野を参考とするべきともいえるでしょう。

 このように「天地を師とする」態度は学問において決定的に重要なものですが、私たちの生きる現実の社会においてはより深刻な意味を持つことがあります。「言」が「成」ると書いて「誠(まこと)」と言いますが、人の言葉は天地、すなわち現実と合致することによってはじめて「真実(まこと)」と見なされます。学問の説いたことが「真実(まこと)」であるのは、それが天地と合致している限りのことですし、他人に対する約束が「誠実(まこと)」であるのも、それが現実において守られる限りのことです。このことは一見自明のことのように思われますが、この「真実(まこと)」を決定するのが天地である現実の側ではなく、人間の都合にあることもまれではありません。「白を黒と言いくるめる」ような詭弁だけではなく、私たちの偏見や思い込みが現実を歪めてしまうことが良くあります。先程、多賀書の引用の中で「陰陽」には中身がないと言いましたが、本来は中身のない言葉が歪んだ形で現実のものとなってしまうことがあります。その典型が差別の問題です。今日、冷戦が終結したにもかかわらず、多くの内戦が世界中で繰り返されていますが、その背景には歪んだ言葉の実体化があるのではないかと私は考えています。例えば、よく民族紛争で「××人」と「○○人」との、もしくは「××教徒」と「○○教徒」との争いを耳にしますが、本来このような区別は絶対的なものではありませんでした。民族の間では長い歴史の中で混血が進んでいましたし、異なった宗教どうしでも本来は共存するのが普通でした。このように民族や宗教の対立が激化した要因の背景には、一部の人間たちが自分たちの行為を正当化するために、それらの言葉を悪用したことがあるのではないかと思います。一度、言葉が対立抗争の中で固定化されてしまうと、本来は実体のない言葉が実体のあるもののように一人歩きしてゆき、対立が激化していきます。差別にはこのような歪んだ言葉の現実世界での固定化の部分もあるかと思います。

 ここではまず哲学に対する偏見として懐疑論と独断論とを取り上げましたが、これらの偏見は、今までにも述べてきたように、単に哲学という学問の範囲にとどまらず実際の私たちの生活に大きな影響を及ぼしています。それは哲学が、実践的な意味で、自らの行為の基準となる信念を形成する学問であるからなのです。懐疑論と独断論とはそれぞれ哲学に対する偏見でしたが、自らの行為を決定する偏見であるという点ですでに哲学そのものということができます。しかし、本来の哲学が自ら考えることによって成り立つのに対し、この2つの立場はそうではありません。懐疑論は現実に対する諦めから考えることを放棄し、独断論は他人の言葉に対する過剰な信頼からそれを放棄します。仏教では快楽主義と苦行主義とを両極として否定しますが、哲学においても懐疑論と独断論とはそれぞれ両極をなしています。この両極がいかに危険であるかは私たちが常に無意識のうちにも「信念」を持たずには行動できないことを考えれば、分かっていただけるのではないかと思います。今日のように忙しい時代にあっては、先行きがいかに不透明であっても、より広い立場から物事を掘り下げて考えることを避ける傾向があるのも確かです。しかし、その考えることを避けようとする思いもすでにひとつの行動を規定する信念なのであって、その信念がもたらす先送りの責任を取るのも私たち自身なのです。

 このように私たちは何らかの形で生きるための信念を持って生きているのであり、その意味で哲学は万人が関心を持つべきものですが、幸運にも、ここにいらっしゃる方々には三浦梅園という良い手本があります。たとえ梅園哲学が分からなくても、彼の生き方から考えることを学ぶことはできるでしょう。ただ、私は、正直、この記念行事で「梅園先生」という言葉が出てくるのに違和感を覚えています。それは私が学問としての哲学を学んだ者として「カント先生」とか「プラトン先生」とか言う表現を聞いたことがないからでもありますが、哲学をする一人として梅園を常に同等な人間と見なしているからだともいえます。すでにマーサーさんが記念講演で「彼が私たちに望んでいるのは教師としてではなく、友人や同輩とみなすことです」とおっしゃっていましたが、私も同感です。梅園自身、自らと同じ立場、同じ視線で哲学することを私たちに求めているのではないでしょうか。哲学という学問は自ら哲学する意思を持たない人々には無縁の学問です。哲学は一般の科学・技術のように特定の知識や技能を必要とする学問ではありません。専門的知識を要する工学のように複雑な数式が分からなければ理解できないというわけではないのです。しかし、哲学には独特のセンスが必要なことも確かです。それは哲学することを通じてしか学び取れないものですが、その根本には、私たちが目にしているどんな些細な事柄にも何らかの普遍的な秩序、あり方が背景にあるという確信があります。世の中には深遠な哲学は日常生活と無関係と考えている人たちも多いですが、必ずしもそうでないことは梅園自身の問題意識を見ても分かるでしょう。すでにマーサーさんも指摘されたように梅園の「価原」は彼の目にした現実をきっかけに書かれています。経済の問題は、一見、哲学とは無縁とも思われますが必ずしもそうではありません。私は自然哲学者として条理を探究した梅園の眼がこの本の中にも生きていると思っています。

 哲学は一方的に本を読むだけでは身に付かない学問です。しかし、これは別に哲学に限ったことではありません。数学などの理科系の学問では練習問題を解くことが必要ですし、英語などの外国語の学習でも自ら文章を書くことがその言語を学ぶために必要なプロセスです。そこで私は自分なりに玄語図を書くことができたらといつも考えています。私はテキサスで日本語教師をしていましたが、初級の日本語学習者には代入練習がかなり効果を上げています。

わたし  おおいた  いきます。
あなた   あきまち   いきました。

この「わたし」の部分に人の名前などの固有名詞を入れることもできますし、「おおいた」の部分に「学校」や「会社」などの普通名詞を入れることもできます。また、「いきます/いきました」の部分を使い分けることによって日本語の時制を理解することもできます。日本語は助詞による構文がはっきりしているので、このような代入練習によって文法のみならず単語も覚えることができます。確かにこれだけでは機械的な練習なのですが、この練習が基礎となって日本語の会話ができるようになるのも確かです。

上の例は日本語教育のことですが、玄語図について言えば、世の中には対の形でなければ理解されない多くの事柄があります。例えば、経済学では<需要―供給><生産(者)―消費(者)>などの多くの概念が対として理解されます。取りあえず、簡単な玄語図を書いてみることによって学問がその対象をバランスよく捉えているかを考えてみるのも決して無意味なことではありません。経済学についても、今までそのうち一方だけが重視されてきたことが多々ありました。学問がその対象に均等に目を配っているかどうかはこの対関係を意識的に考慮しなくては分からないところがあるのです。

玄語が示しているのは人間や人間社会をも含めた自然そのものの基本的なあり方、論理です。しかし、それは単に私たちによって理解されることによって終わるものではありません。すでに弁証法に関して述べたように、何らかの論理は何らかの方法論として私たちに自然と実践的に向き合うあり方を明らかにしてくれるものです。私としては、方法論としても有効な論理を玄語の中から見出そうとしていますが、すでに梅園自身がそれを「反観合一」という形で示しています。私は梅園を真の意味での哲学者だと考えていますが、それは彼が哲学者として常に現実と向き合う姿勢を保っていたからだと言うことができるでしょう。

最後になりましたが、私は哲学を知ることによってもっと皆さんに三浦梅園を知っていただくことを願うと同時に、梅園を通じて哲学そのものをもっと理解していただければと切に思う次第です。

 

[三浦梅園のこと]