天地を師として

マーサーさんによる 梅園資料館開館記念講演より(拙訳)





 まず今回ここに私をお招きくださいました方々、そして多くの他の方々の親切に感謝の意を表します。

 また、私が英語で話すことをお許しくださったことにもお礼を申し上げます。日本語ではとても今日ここで講演を依頼された栄誉を言い表すのはとてもできなかったでしょう。また、この名誉ある場にいられることがいかに私にとって感動的であるかを言い表すこともできません。これらの感動は英語でも簡単には言い表すことのできないものです。

 この資料館では梅園の残した言葉が保存されています。同時に三浦梅園その人の記憶が納められています。

 三浦梅園は多くの難しい問いを問いかけ、彼の全生涯を通じてその答えを見出そうと真剣に努力してきました。しかし、今われわれすべてが考えるべき問題はそのような難しいものではありません。それは、どうして私たちにとって三浦梅園その人を記憶にとどめることが重要であるかということです。

 梅園は学者として、思想家として、そしてまた偉大な教師として高く評価されています。しかし、彼が私たちに望んでいるのは教師としてではなく、友人や同輩とみなすことです。

 梅園はこう書いています。
 
此故に、天地達観の位には、聖人と称し仏陀と号するも、もとより人なれば、畢竟我講求討論の友にして、師とするは天地なり。

洞察力を以って天地を見るようになれば、「聖人」や「仏陀」と呼ばれる人もいるが、人間であることに違いはないのであるから、結局その立場は議論を続ける友人ということになる。天地が師である。 [岩波文庫「三浦梅園集」16P / 同「三浦梅園 自然哲学論集」29P]

 今日、私たちは梅園の業績を議論しています。例えば、私の話の中では短く「多賀墨卿君にこたふる書」のみならず、「玄語」「元煕論」「価原」にも触れるつもりでいます。梅園は私たちがその著作を読むことを喜んでくれるでしょうが、それは私たちがそれを批判的に読む場合に限られます。「多賀書」での梅園の戒めを思い起こしてください。
 
故に三語数十万言、天地に合する処あらば天地に帰し、天地に合ざる処、晋にて可有之候。

 (私の書いた「玄語」「贅語」「敢語」の)三語で私は数百数千の言葉を綴っているが、その自然に合致する部分は自然に帰すべきものであり、そうでない部分は私に帰すべき部分である。 [岩波文庫「三浦梅園集」27P / 同「三浦梅園 自然哲学論集」41P]

 三浦梅園が言ったことの中には正しいこともありますし、間違ったこともあります。私たちが彼を後世に残すのは彼の言ったことがすべて正しいからではありません。梅園の業績の特性によるのであり、彼自身が私たちの習うべき模範であるからです。

 三浦梅園はすばらしい水先案内人です。彼の著作や書き残した原稿は私たちの知的な旅にとってすばらしい旅行マニュアルです。

 梅園は私たちに何を考えるかを語っているのではありません。梅園は私たちに何をなすべきかを語っているのです。彼は私たちにいかに学ぶか、いかに理解に至るか、いかに先見の明を以って物事を見るかを語っているのです。

 次の「麻田剛立への手紙」の内容は私の心に深く響くものがあります。梅園は書いています。
 
首春(春ノ初め)諭ス所数條、巻舒数日ニシテ、其ノ大意ヲ裁領(おさむ)ス。因ツテ撃節シ嘆ジテ曰ク、嗚呼故人(旧友)、殆ド神ニ通ズルカ。我何ノ幸ゾ、此ニ時ヲ同ジクシテ、以テ斯ノ緒言(論説の初めの言葉)ヲ聞くヲ得ントハ。

 この早春、私は君がくださった手紙を読み直してみた。それらを開閉すること数日かけ、ついに君が言わんとすることを理解し、喜びに胸がときめいた。私は君に拍手を送り「ああ、わが友よ、君の理解はまるで神業だ。何というものを君は見てきたんだ」とため息をついた。---- 私がここにいて君の言葉を聞くことができるとは何と幸せなことであろう。 [「梅園全集」 下巻 753P]

 これが私が好きな三浦梅園その人です。

 第一に、梅園は謙虚な人です。彼は書いています。
 
晋ノ惟フニ視ノ短、計ノ拙 ・・・・・書ヲ寄ス毎ニ晋ノ蒙ヲ啓ク有リ。

私は視野が狭い。私は実測をするには不器用だ。(…中略…)君からの手紙のどれもが私の無知を明らかにしてくれる。 [「梅園全集」 下巻 753P]

 第二に、梅園はたえず努力する人です。麻田の書いたものは難解ですが、梅園は分かるまで何度も読み返しています。

 第三に、梅園は学問を楽しむ人です。より多くのことを理解することはそれほどまでに梅園にとって大きな楽しみであったわけです。

 これと同じような知的興奮が学者としての古在由重先生の魅力でした。私は古在先生が梅園と同じ精神で梅園を理解していたと思っています。

 梅園は全宇宙がそれにしたがって動いている原理を理解しようとしましたが、それは彼の友人である麻田剛立が天体を理解したのと同じやり方によるものでした。宇宙のシステムを明かす原理は梅園の主著である「玄語」の課題でした。首
 
しかれば石、物いふといふとも、夫より己が物いふを怪しむべし。

たとえ石が何かを話すことがあっても、それをいぶかしむ前に、私たちは私たち自身が話をすることをいぶかしむべきである。  [岩波文庫「三浦梅園集」13P / 同「三浦梅園 自然哲学論集」26−27P] 

 石は話をしません。光も闇も、恒星も惑星も、水も火も話しません。天地は沈黙の師です。もちろん、もちろん、天地を理解するためには本を読むことも必要なことでしょう。しかし、本は私たちが自らの読むことについて考えをめぐらなさなくては何の役にも立ちません。本に書かれている言葉が真実なのはそれらが私たちの目にするところと一致する場合に限られるのです。

 それというのも天地はこの私たちの目の前にあるからです。それは私たちに従うべき徴(しるし)を与えてくれます。私たちは自らの目、耳、頭を天地に向けなくてはならないのです。

 梅園の時代、日本でも科学的知識は進展しつつありました。科学的関心を持つ日本の学者たちは中国の文献を研究し、またいくらか西洋の知識を持っていました。

 しかし、その一方で日本独自の科学も育ってきていたことを忘れてはなりません。最近の学者や歴史家の中にはこのことを忘れている人たちがいます。例えば、1989年にある天文学者は次のように語っています。
 
 日本における天文学の探求は1880年ごろ、東大の創設の後、外国人の教授によってはじめられた。

これが間違っていることは皆さんもお分かりでしょう。麻田剛立、西川如見などの多くの天文学者がすでにいたからです。

 1992年においても、同様のことを高名な日本の科学者が言っています。
 
 日本人による科学的研究は1858年ごろ、日本が開国し、多国との通商をはじめて以来のことと言って間違いないであろう。

 このような見解は全く誤っています。残念ながら、日本思想を研究する西洋の学者たちもまた同様に日本の科学について誤った見解を述べているのです。

 貝原益軒、西川如見、杉田玄白、平賀源内、そして特に梅園の友人であった天文学者、麻田剛立らはいかに天地、すなわち宇宙を探求すべきかを知っていました。彼らは単に中国やヨーロッパの本に埋もれていたのでは天地を理解することはできないと知っていたのです。彼らは目の前に起こる天地の有り様を研究しました。そしてこれらの学者がすべて科学的方法に思いを寄せていたのですが、三浦梅園がその中でもっとも深くそのことを考えていました。

 梅園自身は科学者ではありませんでしたが、天文学や植物学や医学や地理学などにいかに取り組むべきかを理解していました。梅園は懐徳堂で若者たちの勉学を励ます一方、彼らから熱心に学んでいたのです。

 梅園は私たちのためにもまた「学ぶことをやめてはならない」というメッセージを残してくれています。

 私が梅園に取り組みだしたのは1978年のことです。最初に翻訳をしたのは元煕論ですが、それは玄語の初期の形のものです。言葉そのものは容易でした。それは私には魅力的に思えたのです。しかし、それは私の無知によるものでした。

 私は東アジアの知的思想を勉強し始めたばかりで、まだ元煕論では独創的な考えがそう多くは現れていないことを知りませんでした。それは多くの以前の日本や中国の教説を援用しています。

 しかし、元煕論は始まりでした。それは私にとっても始まりでしたし、梅園にとってもそうだったのです。梅園が始めた旅は単に長い旅というだけではなく、終わりのない旅だったのです。

 元煕論の中で玄語の計画の短い概要を見出すことができます。梅園は私たちを取り巻く錯綜した物事の背後にある何らかの秩序を見つけ出そうとしていました。梅園は人によって見出されるのを待っている秩序があるという確信をもっていました。最初の段階では梅園はいかにその秩序が込み入ったものであるか、それを見出すのがいかに困難であるか知りませんでした。その結果、玄語の最終稿は理解しやすい元煕論とは全く異なるものとなっています。玄語は精巧で込み入った書物です。

 元煕論は和文ですが、玄語は漢文で書かれています。私は最終版の玄語を和文で書くのは不可能ではなかったかと考えています。梅園の思索はあまりにも深く独創的なものであり、数百もの新しい語を必要とし、そのためにほとんど新しい言語体系が必要だったとさえいえるでしょう。それほどまで梅園は漢字を使って自らの用語を考え出していたのです。彼は2つの異なる字を結合し新しい言葉を形成することによってこの課題に取り組みました。このようにしてできた言葉の意味を理解するための鍵は梅園が条理と呼んだ対の原理です。

 玄語は万人にとって難解な書物であるように思えます。一見、それは私たちには歯が立たないようにも見えます。私が1979年の末、日本を訪れたとき、多くの人たちが玄語は君には難しすぎると言い、多賀墨卿君にこたふる書の中にある玄語の解説からはじめることを勧めました。

 しかし、私には多賀書の解説は難しすぎるように思えました。梅園旗が書を友人からの問いかけに答える形で書きました。梅園は多賀墨卿についても、また彼の背後の事情についても知っており、そのことを踏まえてこの書を書いたわけです。18世紀の九州の医師である多賀に対して難しい考えを説明するのと、20世紀にニュージーランドで西洋哲学の教育を受けた女性にそれを説明するのとでは自ずと事情が違ってきます。

 数年の間、私はもがきながら、元煕論や多賀書と取り組み、梅園の思想について日本の研究者たちが書いたものを読んでいました。私は一人ニュージーランドで研究を続けていましたが、遅々として進まない研究に落ち込むようになりました。

 なぜ私が梅園研究を続けられたのか。それは梅園が23年にもわたって玄語に取り組み、それを23回も改稿したことを私が知っていたからです。これは梅園が本当の意味での哲学者であったことの明確な証です。

 ついに私に解決策が思い浮かびました。私が玄語を訳さなくてはならないというのがそれです。

 玄語は確かに難解ですが、私が恐れていたほどではありませんでした。玄語は独自の言語体系を持っており、それは日本語とも、中国語とも、英語とも異なっています。しかし、その言語体系は梅園が天地に教えられたことを明らかにするように作られています。

 私たちがこの言語体系を理解できるのはそれが整然と条理の原理に従っているからです。(玄語の)第一章で天地は錦の織物にたとえられているのが見出せます。私はこれを(梅園を理解するための)「ロゼッタ・ストーン」と呼んでいます。ロゼッタ・ストーンとは、ギリシャ語、彫られた当時の口語体のエジプト語、ヒエログリフのエジプト語による3つの言語で彫られた石盤のことです。これは1799年に発見されましたが、このおかげでエジプトのヒエログリフが学者たちによって判読できるようになりました。梅園のすばらしい錦織の比喩は玄語の言語体系を判読するための鍵を私たちに与えてくれています。

 最近、私は価原の英訳に取り組んでいます。小川晴久先生をはじめとした研究者の方々は梅園が価原で明らかにした経済理論に関心を寄せています。経済学は奥の深い問題を含んでおりますので、私は経済理論を語ることについては適任ではありません。しかし、価原において彼がお金について語っていることは真実であると承知しております。それはお金自体には価値はないと言うことです。それは純粋に手段であるというわけです。お金はそれ自体目的としては何ものでもありません。今日ではそれは主に紙や、書かれたりコンピューターに打ち込まれたりした数字になっています。梅園はこう書いています。
 
金銀の用は、唯諸貨運輸の用ばかりなれば、楮鈔にても、飛銭にてもすむ者なり。余貨の如きは、寒を凌ぐことは布帛にあらざれば能はず。飢を愈すことは、米粟に非ざれば能ざるして、金銀本来の面目を知るべし。

 お金の用は品物が流れることによるのであって、それ自体は紙幣としても為替としても持ち運ぶことのできるものである。お金は他のものとは違って、それ自体、寒さをしのぐための服でもないし、飢えをしのぐ穀物でもない。 [岩波文庫「三浦梅園集」47P]

 価原で語られている多くのことが、異なった時代の異なった国々でも真実です。

 そのうちのいくつかは私の国、今日のニュージーランドにも当てはまります。例えば、梅園は昔の侍が都市の生活の中で怠惰になっていくのを見て、武士に対して不安をあらわにしています。私は価原のある文章を次のように訳してみました。
 
むかし乱世武猛の俗 も、今は昇平游惰の民となれリ

かつてのつわものたちがこの平和な時代には怠け者になっている。 [岩波文庫「三浦梅園集」53P]

「かつてはつわものであった者たち」とは最近国際映画祭で賞をとったニュージーランドの映画の題名です。

 それはマオリの家族の悲しい物語です。その家族は田舎の故郷から追い出され都会に住んでいます。一家の人たちは教育において不利な立場におかれ、結果的に物質的にも不利な立場に置かれています。それで彼らは暴力やアルコールに溺れる生活をしています。けれども、梅園も含めて、私たちの中には侍やマオリの人たちがつわものであった時代に戻ることを望むものはいないでしょう。

 梅園は私たちにこのジレンマの現実的解決策を与えているわけではありません。そしてニュージーランドにおいても私たちはそれをまだ見出してはいないのです。

 ところで、梅園が社会の階級差について考える態度も私には興味深いところです。今の人たちの多くは生まれながらにして社会的地位が決められていることを快く思わないでしょう。しかし、梅園の場合は士農工商のヒエラルヒーに分ける当時の一般的見解に組するものではありません。彼にしてみれば、すべての人間が平等であることは必然であり、何ものも他に優越はしないのです。階級も性差もともに自然の区分によるものです。

 私は梅園が価原を書いた動機は玄語を書いた動機とは全く異なったものではなかったかと考えています。玄語で彼は宇宙の入り組んだシステムを解き明かすという非常に大きな課題に着手しました。ですから、それはすべての時代のすべての人々に当てはまるものです。

しかし、価原は梅園と同じ地域と時代に生きた人々のために書かれたものです。ですから、その中のすべてが他の場所、他の時代でも真であるわけではありません。

 とはいうものの、梅園の時代の日本に特有のものであった士農工商の階級などを考えてみても、彼の視野はそれを越えています。梅園はそれぞれの人々がそれぞれ異なっていることを見て取り、いかなる人間も生まれながらにして他に優越したり劣ったりしないことを見て取っています。彼はまたある人種が他のある人種に優越することなどないことを認めることでありましょう。

 男性と女性の場合も同様で、それら平等であり互いに対するものです。梅園は先見の明を以って両性の平等を見て取っています。しかし、梅園は将来の社会を目にすることはありませんでしたし、男性と女性とがともに手をたずさえてこれらの課題に取り組み、その解決を達成している場面を目にすることもありませんでした。

 けれども、梅園のより一般的な原理からすれば、彼は男性と女性との間の対照は純粋に生物学的なものと言うのではないかと思います。例えば、彼が未来を目の当たりにすることができても、今このお話が女性によってなされていることに驚いたりはしないでしょう。このことに梅園は何ら違和感を覚えないと思います。

 梅園がその地元の人たちから尊敬されるのがもっともふさわしいことです。梅園はここに生まれたというだけではなく、彼はその全生涯を通じてここに住み、彼の多くの著作の動機はこの村の人々と彼に学んだ生徒たちの幸せを願ってのためでした。

 私自身は、外国人として200年の後に生まれ、玄語の試みから最も多くのインスピレーションを得てきました。梅園は何を玄語によって意図していたのでしょうか。梅園が自然界のこまごまとした事象について、新しくより意義のある考え方を捜し求めていたことは確かです。その試みの本性からして、それには決して終点はないものの、それが栄光ある旅であることを梅園は知っていました。

 私たちの問いかけに対する答えを捜し求める方法として、梅園は自然を師とせよと私たちに教えています。

 梅園が陰陽理論や、宇宙が「気」と呼ばれる単純なものによって成り立っているという古い伝統的な思想に疑問を投げかけたのもこのような考えによるものです。彼の理論において自然を成り立たせているものは、現代物理学のように込み入ったものになっています。私はまた梅園なら(現代科学における)フラクタルや「カオス理論」も受け入れるのではないかとも思っています。カオス理論というのは名前の付け方に問題があって、カオス(混沌)のように見えるものの中に秩序を見出す学問分野です。梅園はまさにカオスの中に秩序を求めていたのです。

結論として、梅園はその偉大な叡智にもかかわらず、その叡智はさきほど麻田剛立への手紙で示された3つの特徴がなかったならば無意味だったでしょう。これら3つの特徴は彼の全業績に及んでいます。

第一に、梅園の勤勉さがありました。梅園の子供のころの好奇心、また少年時代における充実した勉学のエピソードは面白い話ではありますが、私たちが梅園に敬意を払うのは彼が頭のいい少年だったからではありません。私たちが彼を尊敬するのはその好奇心が決して尽きなかった点にあります。しばしば落胆することがあったにせよ、彼の知的情熱はその全生涯を通じて彼をきびしい学問の道へと導きました。

 第二は、彼の謙虚さでした。梅園が自らの誤りを認めているが故に、私たちは常に彼の誠実さを信頼することができます。

 第三に梅園が私たちに示してくれるのは、私たちが忘れてはいけないもの、つまり彼の熱情的ともいえる知的な関心です。これから保存されるこれらの本や資料は私たちや未来の世代に厳密な知的探求は大いなる喜びを以って報いられることを教えてくれるものとなるでしょう。
 

 [英語の原文@ロバートさんのHP]   
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