シンポジウム原稿──── 2000.10.25 於 大分県安岐町三浦梅園資料館

 以下は、大分県安岐町に三浦梅園資料館の建設を記念して行われた行事の一つ、シンポジウム「電脳梅園学」
において、発表した原稿である。ただし、これには長い元原稿があり、それを短くしたものである。
 与えられた時間が短かったために、少々はしょった部分もあるが、基本的には、ほぼ、このとおりに話した。
 本原稿は、最初から、html文書で作成した。元原稿の方は、いずれ発表したいと考えている。
                                    (11月4日追記/五郎丸 延)







◎江戸出版文化史上における梅園──写本と刊本  江戸時代は、一体どんな時代あるいは社会であったのか。これは、大学での講義や 市民講座などで最初に話す題目である。その理由は、江戸時代に対する誤解が大きい からである。  常識的な江戸時代像を全面的に否定するつもりはないが、意外な側面があるもので ある。  江戸時代は、現代とは情報量が絶対的に違うから単純な比較はできないけれど、当 時の世界水準からみてトップクラスの出版社会であったと言える。  16世紀終わりの1590年代に、日本に新しい印刷技術が伝来した。第1は、イエズス 会によって伝えられた西洋式活字印刷である。第2は、豊臣秀吉の李氏朝鮮侵略によ って朝鮮から我が国へ持ち帰った銅活字印刷である。  イエズス会は、30種を越えるキリシタン版書籍を印刷発行した。さらに、後陽成天 皇の『古文孝経』『日本書紀』などの慶長勅版、後水尾天皇の『皇朝類苑』元和勅版、 徳川家康の『孔子家語』『貞観政要』などの伏見版・駿河版などの銅活字版が出版さ れている。しかし、これらの欠点は、100部程度の小部数しか印刷できなかったことで ある。当時の活字印刷技術はまだ初期の段階であり、需要が少なかったのでこの程度 で間に合った。だが、知識人の増加、すなわち字をよむことが出来る人々の増加は、 次第に書籍の需要増へとつながった。  およそ50年続いた活字版は、1600年代中頃に衰え、次第に整版印刷へ変化する。時 代劇の瓦版屋が使っている1枚の板に彫って印刷するやり方である。これを版木とい う。整版印刷は活字と違い、1刷で300部は印刷可能で、さらに保存もたやすく、2刷、 3刷も必要に応じて行えた。また、版木が部分的に摩耗したり、誤字があっても、埋 め木して彫り直せば修正も楽である。    ★注「埋め木」★現在でも、柱材などを再利用する時に同様の作業を行なって            いる。版木の摩耗した部分を削り取り、そこに別の木を埋め            込む。周囲の高さと合わせてカンナで削り、ノミで元の字を            彫りだす。 ★  版木そのものも商品として売買可能で、後に同分野の版木を買い集める出版元があ らわれた。  元禄9年(1696)、河内屋利兵衛なる書籍商が『増益書籍目録大全』を出版した。 これは、当時、日本で売られていた本の出版目録である。全6分冊総674頁の大冊で、 7800点ほどの書名が載せられている。現在の出版年鑑のようなものである。  整版印刷が主流になって40年ほどで、これだけの点数の書籍が販売されている事実 は、驚異であろう。当時の多くの日本人が字を読めるということを、証明しているし、 現に読んでいることを示しているのである。  では、どのような書籍に需要があったのか。まず仏書や儒書、国文関係である。鈴 木正三(1579〜1655)によると、「仏書の類、殊の外うれ申し候」。また、川瀬一馬 氏の『古活字版之研究』によれば、国文学関係では、『徒然草』19種、『平家物語』 18種、『太平記』18種、『源氏物語』4種、『伊勢物語』11種などが出版されている。 そのほかにも国文学書は数多く刊行されており、研究書・解説書の類も多い。つまり、 現代の国文学研究の直接の出発点は江戸時代にあるわけである。  江戸時代は、寺子屋でちゃんと学んでおかなければ、大工の棟梁にはなれないし、 店員になっても手代・番頭にはなれない。社会全体が、ある程度の教育水準を要求し ていたのである。  ところで、庶民に限らず、裕福な階層の人たちでも、書籍を購入することは少なか った。なぜなら、書籍代金が非常に高価だったからである。もっぱら、貸し本屋を利 用した。  江戸に限っていえば、およそ600軒ないし800軒ほどの貸し本屋があったと言 われている。店を構えているもの、風呂敷きに包んで商家、旗本屋敷、大名屋敷や庶 民が住む裏長屋を巡るものなど、江戸の町は至るところに貸し本屋がいた。  この話はどこにつながるかというと、出版物とは、実は印刷されたものだけでは無 いということである。もっとわかりやすく言えば、貸し本屋がかついで持って来るの が、出版物なのである。印刷されていない写本でも、貸し本屋から借りることが出来 るのである。  梅園の著作について言えば、かなりの写本が残っていることから、十分に出版物の 役割を果たしていると考えられる。  梅園の著作の写本・刊本は、今のところ判明しているだけで、北は仙台にまで及ん でいる。  第1図は、主著『玄語』の写本一覧表である。(旧宅所蔵分を除く)

第1図







 さて、貸し本屋では、刊本のほかに、「書本 かきほん」という書籍が貸し出しさ れていた。われわれの言い方では、「写本」のことである。いわゆる「自筆本」で あっても、刊本ではないという意味で、「書本」「写本」である。  貸し本屋の書籍は、何人もの読者が借りる。気に入れば、写す。その写本は、ま た個人的に貸され、写本が作られる。  つまり、一冊の本でも、何人もの読者によって写本から写本が作られ、一冊の書 籍ではなくなるわけである。  江戸時代を代表する儒学者に荻生徂徠という人物がいる。徂徠の著作は、多くの 学者が写本を作り、そのために逆に刊行されたほどである。  貸し本屋というのを考慮すれば、写本1冊でも、十分に出版物の役割を果たせる わけである。
 梅園の著作も、写本という形式であるが、これらの写本の来歴の解明が必要であ るけれども、立派な出版物であると考えた方が良い。写本の多さから考えれば、梅 園の著作、特に『玄語』について言えば、出版物である。  各写本については、拙稿「『玄語』写本の研究」(『梅園学会報』第5号)を参 照していただきたい。
 梅園著作の写本を考える時、実は佐野家が重要な役割を果たしていたようである。 その役割とは、梅園・万里の著作が書き上げられるたびに寄贈され、そこから写本 が作られていた、というものである。  昭和63年に、ぺりかん社から『増補 帆足万里全集』を出版したとき、第3巻の 編集解説を担当した。そこで、佐野家について小論を書いているので、興味のある 方は参照してほしい。
 私は、20年ほど前、『玄語』の自筆草稿本及び写本について調査したとき、梅園 文庫939写本にある次のような書き込みに気づいた。



第2図




 第2図は、左が『梅園全集』62ページ上段「天地為成図一合」、右が939写本 の該当個所である。『梅園全集』では、「此図、地冊ノ篇目也。今本ノ華液篇、旧 稿冬夏ニツクル。疑ワクハ、改竄ノ及バザ(ベ→誤植)ル処カ。本書は、安永中ノ 浄本トミエタリ」とある。


第3図



 第3図は、左が『梅園全集』231ページ上段の欄外注、右が939写本の該当 個所である。『梅園全集』では、字が小さくて読みづらいが、「弘 案ずるに」で始 まる、矢野弘の附箋である。これは、安永本・浄書本『玄語』にある附箋と一連の ものである。ぺりかん社版『三浦梅園資料集』に、集められる限りの附箋を掲載し たので参照されたい。
 この2つの資料から、『梅園全集』の底本と梅園文庫939写本とが、極めて密 接な関連があると考える。  梅園旧宅所蔵の自筆草稿本『玄語』が、過去に於いて、何丁か破り取られている 現状では、これらの写本は貴重である。重要な資料を閲覧させるという、三浦家の 好意を無にする愚挙である。  図については、自筆本で破り取られている分を写本で補った「安永本時代初期の 玄語図」を友人のホームページ(http://homepage1.nifty.com/jshoda)で復元して いるので、興味がある方はご覧になっていただきたい。
 『玄語』以外の写本では、幕末の東海地方の音韻学者の蔵書の中に、『梅園読法』 がある。これは、現在調査中であるので詳細は避けることにする。  刊行されたものでは、『敢語』の異版の存在が注目される。現在、大阪大学懐徳堂 文庫所蔵の『敢語』刊本(猪飼敬所批語)と旧宅所蔵の『敢語』刊本は、基本的に同 じものであるが、何個所か文字の形がわずかに違っていて、埋め木による修正が施さ れている。私は、懐徳堂文庫所蔵の『敢語』の方が修正本であると考えている。  問題は、この埋め木による修正が、何故に行われたか、ということである。一般的 に言って、この時代の刊行物は100部とか300部とかの小部数出版である。何刷 かすると、版木の一部が擦り減ったり欠けたりする。  『敢語』の場合、それほど印刷部数が多かったのかどうかわからない。謎である。
 結局、新たな謎も生まれたが、正確な資料本文及び図の作成という点では、いささ かの前進があったと考えている。




 以下は、本シンポジウムのテーマ「電脳梅園学」の一つのサンプルである。  NEXTをクリックすると、画像と原漢文と訓読文が、html形式で結合させて 表示できるようにしている。  資料は、『玄語』草稿本の一部である。  今後の資料収集および公開のスタイルの一形式であると自負している。


【寉渓書院・画像資料室】
 
 

[三浦梅園のこと]