イスラムとは
イスラミクセンター
 イスラームとは、アラピア語で、平和、従順、純粋、服従などの意味を持ちますが、宗教的には唯一神“アッラーヘの帰依”を表わします。
 そしてアッラーに帰依した者、すなわちイスラームの信徒を、ムスリムといいます。
 イスラームは、西暦7世紀初めのアラピア半島で、最後の預言者ムハンマドによって、宗教として確立されました。以来千四百年を経た今日、公正で普遍的なこの教えは、世界に十億の信徒を擁し、今なお活力をもって増大し続けています。
 イスラームの教えは、ムハンマドが創始したものではありません。太古アダムから、ノア、アプラハム、モーセ、イエスなどの諸預言者に啓示された教えと基本的に同じもので、それが最終的に完成され、最後の預言者ムハンマドを通して全人類に与えられたのです。
唯一の神アッラー
 イスラームにおけるアッラーの概念は、多神教での神々の概念と異なり、通俗的に言われる山の神とか海運の神などのような限られた性質のものではありません。
 アッラーはアラピア語で唯一絶対の神を意味します。彼は創造者、万物の存在の聖髄であり、英明・公正にして慈悲心あふれ、宇宙に偏在し、全知全能で森羅万象を決定し、生、死、復活等を司る、絶対的・超越的な存在なのです。
 私たち人間の生命はもちろん、極微世界から極大の世界の一切は、アッラーの定められた法則に従っています。今日人類が月に到達することができるのも、この一貫した宇宙の法則が厳存するからで、もし宇宙に二つも三つもの神が存在して、各々異なった原則をもって宇宙を支配しているとしたら、化学も宗教も全く異なったものとなり、人類の存在さえも想像を超えたものとなるでしょう。
 アッラーを身近に意識することによって、人類は宇宙とその中の人間に意義を理解することができます。そしてあらゆる迷信と怖れから解放ざれ、アッラーヘの義務を認識し、全人類がアッラーの庇護を受ける一家族であることを確認します。
人間
 人間はアッラーの創造されたものの中の一つで、その意味では他の被造物である木とか石などと少しも変わりません。
 しかし人問は、地上におけるアッラーの代権者としての地位と責任を与えられています。それゆえ人間は、欲望や虚構にとらわれず、現世でのアッラーの代権者にぶさわしい、知恵と権威を身につけて、調和ある生き方と、理想的な世界の実現への努力をしなければいけません。
 この信仰の中では、人間はすべて平等です。王も臣民も、官者も貧者も、男性も女性も、大人も子供もすべて平等で、違いがあるとすれば、それは敬心の念の差だけです。またイスラームでは、キリスト教における原罪や、仏教における輪廻のような考えはありません。人間は白紙の状態でこの世に生を受け、アッラーの導きを得ながら生きています。そして彼の行為の責任は彼にのみあり、過去であれ未来であれ、他人のやった行為についての責任が問われることはありません。また人間とアッラーとの関係は直接的・個人的なもので、そこに聖職者などの介在する余地もないのです。
聖クルアーンとハディース
 クルアーンとハディースは、イスラームの思想と実践の基本的源泉です。
 クルアーンは、預言者ムハンマドを通して全人類に啓示されたアッラーの言葉で、彼以前に遺わされた預言者たちに与えられた諸啓典の最後のもの、最も完成されたものです。そこには、唯一神アッラーヘの信仰を基底に、人間の従うべき道について、精神面のみならず実生活面においても、また個人・集団を問わず、正しい指針が示ざれています。
 クルアーンは預言者ムハンマドの存命中から、信徒たちによって一語一句たがわず書きとめられていたものを、彼の死後、厳密な考証のもとにまとめられ、現行の形となりました。
 以来、千四百年たった今日でも、世界十億のムスリムたちが日々接しているのは、原典と寸分変らないクルアーンなのです。
 またハディースは、預言者ムハンマドが言ったり、実行したこと等を、集大成した伝承集です。
 ムスリムたちは、ハディースに記録ざれている、アッラーの教えを体現する預言者の慣行(スンナ)の中に、より良きムスリムとしての行動の規範を求めるのです。
信仰の基盤と宗教儀礼
 イスラームの基本的諸概念はクルアーンに示されていますが、その内容は単なる信仰の精神的説話に止まるものではなく、信者のこの世における生活規範から、共同体の法規にまで及んでいます。クルアーンでは、イスラームの信仰の基盤と、ムスリムとして守るべき宗教儀札を規定しています。それは、今日もなお敬虔な信徒によって実行されています。
「信仰の基盤」とは
1.アッラー 
2.天使 
3.諸啓典 
4.その預言者たち 
5.審判の日 
6.定命 
7.来世の7つです。
次に守るべき「宗教儀礼」とは次の5つです。
1.信仰の告白 “アッラーのほかに神はなく、ムハンマドほその使徒である”との信仰を表明すること。
2.拝札 拝礼はアッラーとムスリムとの主要な精神的交流の場で、1日に5回の拝礼が義務づけられています。特に金曜日の昼の拝札は集団でなされます。
3.断食 夜明けから日没までの間、一切の飲食を断ち、心身を清めること、ラマダーン(イスラーム暦9月)の義務の断食と、その他の任意の断食があります。
4.喜捨 “ザカート”といい、信徒間の相互扶助の目的を持った一種の救貧税。毎年、各信徒の得た収穫物、金銭、その他の総計に応じて算出されます。
5.巡礼 “ハッジ”といい、定められた日時にマッカのカアバ神殿に巡礼し、所定の巡礼行事を行うこと。すべてを捨ててアッラーに帰依するという精神を具現するのです。また世界中のムスリムが同じ目的を持って一同に会し、同じ行事を行うことによって、信徒間の同胞意識も生まれます。
イスラームの生き方
 イスラームは、人生のあらゆる面で具体的な生き方をしています。そこには社会、経済、政治、道徳、精神などの問題に対する明確な答えがあります。クルアーンは人間に、その存在の意義、家族と社会に対する義務、全人類に対する義務、アッラーヘの義務などを教えています。そこには極端を排し、中庸をすすめ、豊かで落ちつきのある人生への青写真があるのです。
イスラームと日本
 イスラームは、明治7年から9年にかけてのヨーロッパや中国の文献の翻訳によって日本に紹介されたのがおそらく最初でしょう。23年にはトルコ政府派遣のイスラーム使節団が来訪した記録も残っています。明治の後期には日本人ムスリムによる初めてのマッカ巡礼もあり、ようやくイスラームのことが一般に知られるようになりました。その後、満州事変や日華事変、さらに太平洋戦争という軍国主義日本の時代になって、アジアの諸民族に対する関心が高まり、そのなかに多数のイスラームを奉ずる民族のあることがわかって、にわかに国策としてもイスラームの研究ということが急務となり、多くの研究機関や団体、協会などが設立され、各種の雑誌や単行本も出版されて異常なプームを呼び起こす結果となりました。
 これに伴って昭和10年に神戸に、また同13年には東京に本格的マスジド(回教寺院)が建立され、常時正式なイスラームの礼拝や儀式が日本国内で行われることになりました。しかしアッラーを唯一絶対神とする考えは当時のわが国の軍国思想と相容れず、イスラームの布教活動は全く許されませんでした。その間、イスラーム圏のほとんどが西欧列強諸国の植民地あるいは被支配国として外交、軍事、経済の表面に出なかったため、イスラームの真の姿は日本に紹介されず、欧米の偏見に満ちたイスラーム観が定着するに至りました。
 しかし、近年、わが国の歴史学も欧米中心の直訳的なものではなく、新しい東洋の、またアジアの立場に立って近隣諸国との歴史を見直すようになり、さらに、戦後長年にわたって植民地として支配していたアジア、アフリカ諸国が独立するにいたって、多くのイスラーム国が世界の桧舞台に登場することになりました。そのためわが国の学者や芸術家また政治家事業家の間にも新しい目をもって、アジア、アフリカ諸民族のなかに、動かしがたい伝統と文化をもつイスラームヘの研究が盛んになりました。それに加えて世界のエネルギー革命の結果、アラプ、アフリカの石油資源はわが国の産業経済と密接な関係をもつようになり、インドネシア、マレーシアなどのイスラーム国との貿易事業もあわせて、外交、経済の面でこれらムスリム諸園との国交を重視しなければならなくなりました。
 事実イスラーム圏諸国では、宗教がほとんど日常の生活に浸透していて、貿易や商業の面でも独特の伝統をもち、これらの生活環境への理解なくしては円滑な商業取引も個人的な親交も困難なことであります。そしてイスラームのなかに、西欧の文明に欠けているアジア人の心に通じる生命を見出すことが、今後の日本人にとって重要な課題でありましょう。

 以上述べてきたように、わが国のイスラームとの関係は、極めて近年のことであり、学問的にも他国にくらべて誠に初歩的段階にあるといえましょう。しかし全くの無関心であったということではなく、イスラームの啓典クルアーンの翻訳も大正9年以来数種の単行本が出版されており、ムハンマドの伝記にいたっては、明治9年以来10指に余る著書カが刊行され、最近ことにイスラームの歴史や美術に関する出版が年とともに盛んとなってきております。しかし宗教としての研究、イスラームの本質についての探究ということは極めて少ないので、今後に期待ざれることが大きいといえましょう。
ムスリムの基本的社会行為
◎謙虚で高慢でない
◎イスラームに従って彼の行動をするのに真実があり、信頼される
◎慈愛と優しさを、他の人にも示す(ムスリムにもノン・ムスリムにも)
◎苦悩にある者を、彼よりたのまれなくても助ける
◎他の人をゆるす、それは彼が悪く扱われた者にでもそれを行う
◎いつも、忍耐を示す
◎おうへいでなく、誰も中傷しない
◎たとえ意見のちがいがあっても、三日以上他のムスリムを遠ざけぬ
◎他の人に邪推深くなく、彼らの背後で悪いことを話さない
◎声高でどならず、きぴしすぎる苛酷な言い方をせず、又不作法に言わない
◎他の人の信仰を悪しざまに言ったり異義をとなえて争ったりせず、又他人の人の性格を直接或いは間接にでも悪しざまに言ったりしない
◎罪を犯さしめるような、或いは罪に進ましめるような、或いはまちがって引用されるようなことは、何もいわないように気を付ける
◎当惑するような話題は、さけるようにする
◎自分自身をはずかしめない、もしくは自分
自身を悪しざまにいわない
◎誰か第三者について悪いことを言うのをゆるざない。何故かというと、悪い感情なしに会ったり、交わったりするほうがよいからである。もし他の人について不公正な話を聞くときは、その悪く言われている人物を弁護しなくてはならない
◎他の人の私的会話を盗み聞きしたりしない