イスラムに関するプリントから
『ムスリムに生まれて』
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かなり以前に書かれたイスラムに関するプリントを発見しました。タイプアップして紹介しましょう。短い文章ですが、イスラムを理解する上では、必読の書と言えるでしょう。読んでみた内容から私なりに題をつけてみました。『ムスリムに生まれて』
イスラムのホームページ あぶ管理人

 ムスリム(イスラーム教徒)として生まれた私たちは、『ピスミッ=ラーヒッ=ラフマーニッ=ラヒーム』(仁愛慈悲のアッラーのみ名によって)という句で始まるお祈りを、物心ついた頃の思い出のーつとして、心に残しています。
 母の膝の上で、この言葉の一句、一句を習ったことも覚えています。父がそれをロずさんでいるのを聞き、そして、父はその言葉は、高貴なるクルアーンという聖典の序章であると私たちに語ってくれました。
 その言葉は、今も私たちの中に生き、人生の大事な局面において、有意義な助力となっているのです。

ピスミッ=ラーヒル=ラフマーニル=ラヒーム@
アル=ハムドゥ リッ=ラーヒ ラッビ=ル=アーラミーンA
アッ=ラフマーニル=ラヒームB
マーリキ ヤウミッ=ディーンC
イイヤーカ ナアプドゥ ワ イイヤーカ ナヌタイーンD
イフディナッースィラータールームスタキームE
スィラータッーラズィーナ アンフムタ アライヒム ガイリールーマグドゥービ フライヒ
ム ワラッーダーッリーy F
<意 味.>
 慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において。@
 万有の主、アッラーにこそ凡ての称讃あれ、A
 慈悲あまねく慈愛深き御方、B
 最後の審きの日の主宰者に。C
 わたしたちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを請い願う。D
 わたしたちを正しい道に導きたまえ、E
 あなたが御恵みま下された人々の道に、あなたの怒りを受けし者、また踏み迷える人々の道で
 はなく。F

この祈りは今なお、常に私だちとともにあります。私たちが生まれて、まだ何もわからないほど幼い頃、耳元でささやかれた言葉に次のようなものもありました。

アッラーフ アクバル(四回唱える) @
アシュハドゥ アン ラー イラーハ イッラッーラー(二回) A
ワ シュハドゥ アンナ ムハンマダン ラスール=ッラー(二回) B
ハイヤー アラッ=サラー(二回) C
ハイヤー アラル=ファラー(二回) D
アッラーフ アクバル(二回) E
ラー イラーハ イッラッ=ラー F

<意 味>
 アッラーは偉大である @
 アッラーの他に神はないことを証言する A
 ムハンマドはアッフーのみ使いであることを証言する B
 礼拝のために来たれ C
 成功のために来たれ D
 アッラーは偉大である E
 アッラーの他に神はない F
 私たちは、この響きを数えきれないほど、何度も何度も聞いています。モスク(イスラームの礼拝堂)の近くに住んでいて、日に五回、両親に連れていってもらった礼拝堂では、イマーーム、つまりイスラームの主導者が両手を挙げて、声高らかにとなえる「ビスミッ=ラーヒッ=ラフマーニル=ラヒーム (仁愛慈悲のアッラーのみ名によって)」という言葉を聞いた。私たちは、イマームの言葉に続いて、くちびるを動かし、心を震わせたものです。 イマームがそこにいない時、つまり一緒にいるムスリム達の中に、そのような主導者がいない時は、皆の中で最も学識のある年長者が、礼拝を主導します。なぜならばイスラーームは民主的で、信仰者達の間から主導者を選ぶのです。イスラームは僧侶や牧師などプロフェッショナルな宣教師はおりません。能力のある者を育てるのは、敬虔な信仰心によってのみ可能となります。

 このような幼少時代の記憶によって、私たちはより広大な世界、つまり絶対的真理の世界に触れることが出来ました。それは私たちにすべての人間が心得えるべきことや、敬わねばならないことを教えてくれました。子供心に何度も、父や母の言葉づかいについて考えました。そして、いくらか神秘的でより高度なもの、つまり感じることはできるが、すべてを理解することができない高尚なもの、自然の美しさ、生きることの喜び、そして両親、兄弟姉妹、親類、友人の愛に、かれらの言葉を結びつけました。しかし、それらは最後には、私たちの気持ちを礼拝の場、すなわちモスクに立ち戻らせるのでした。そして、それらにより繰り返されたアッラーの名と、その特質が心にいつも浮かんでくるのでした。 集団礼拝の時の雰囲気は.世の中の他のできごととはどこか違っていました。両親もその時はいつもと違っていたのです。かれらは心を正し、身体を浄めて準備をしました。礼拝所には金色の丸屋根や、高くそびえ立つ尖塔や、人々が礼拝し冥想する涼しい丸天井の部屋や廊下があり、それらの美しさによって、いつもとは違う雰囲気が感ぜられたものです。絨毯の柔らかな感触、その上にすわっただけで私たちは、落付いた気分になったものでした。
  カサブランカ、アルジェ、ダマスカス、カイロ、イスタンプール、イスファハン、ラホール、ジャカルタなどイスラーム教徒が、かつては支配し、今もそこに数多く住む街々の中のモスクの美しさは筆舌に尽すことは出来ません。メッカのカアバ神殿の聖域において、特別な方法で神にまみえることができるように、それらのモスクで、アッラーにまみえることができるという話を聞いたことがあります。アッラーは天国とこの世を作った唯一の神であり、モスクはかれに感謝の礼拝を捧げる場所なのです。そこで入々は神にまみえることができるたいせつな場所ということから、モスクは美しく浄くあるべきであり、安息できる所であるべきなのです。
 年若い頃、すでに私たちはモスクを愛することを知り、そこに入る時はいつでも身を清めて敬虔な気持になります。
 モスクでは、靴は脱いで入口に置くか、または手に持ち、自分の側の通路に置いておくように教えられた。それは礼拝の時に、ひたいを床につけるため、そこは土足で入ることを許されず常に清潔に保っておかねばならないのです。我身をしっかりと清潔にしていなければ、その礼拝はアッラーに受入れられず、またモスクに入ることすらできないのです。心と身体を浄めてこそアッラーと交信することも、可能になるのです。また、礼拝の準備が整えば、不潔なこと、不誠実な考えや行いを慎しみ、ひたすらアッラーに祈るのがモスクなのです。

 あなたに啓示された啓典を読誦し、礼拝の務めを守れ。本当に礼拝は、(人を)醜行と悪事から遠ざける。(第二九章 第四五節)

とクルアーンで述べられています。もし、モスクのそばまで来て、礼拝の準備ができていなかったなら、入口のわきの泉へ行って、礼拝のための準備をします。

 それから、あなたは入礼拝堂に入って、メッカの方向を示す壁のくぼみ(ミヒラブ)に正しく向って立ち、礼拝をすればよいのです。金曜日正午すぎの共同礼拝には主導者イマームが来て、壇上(ミンバル)で説教(ホトバ)をするのを待ちます。そしてその後集団の礼拝が終ると、知人や友人と握手を交し、すべての人々は満ちたりた気持ちになって、モスクを後にします。
 アッラーは、そのような人々のことを「交易や商品に惑わされることなく、アッラーを念じ、礼拝の務めを守り、定めの喜捨(ザカーート)をなすことに怠りない人間たち」であるとクルアーン第二四み光り章第三七節で記されています。

 イスラーム暦第九月(ラマダーン月)には、人々は断食をするが、多くのムスリムたちがそうしているように、私たちもモスクの静かな廊下で、しばしの休息をとることがあります。モスクはラマダーン月の間、満員になります。絨毯の上にひざまづいたり、座ったりしている商人や、労働者、学者、役人たちで溢れます。壁の美しい模様に目をやりながら、私たちの心は高貴な聖クルアーンの一節一節を探し求めます。そして、アッラーを偲びジクル(想念)します。それらば私たちの両親が、聖典から教えてくれたものと同じ言葉であり、今私たちに深い安らぎを与えてくれます。子供時代から、このようにイスラームは私たちに切っても切れない影響を与えてきたのです。
 しかし、いま大人に成長した私たちは、イスラームが単に道徳を教える宗教ではなく、完全な日常生活の指針をも説いていることを知りました。そしてイスラームは私たちを助け、真理をもって人生に直面させる大きな役目を果しているのです。
 私たちの友人の中で最も立派な人とは、金曜日の集団礼拝のためモスクヘ行き、アッラーにまみえる人々であります。私たちは日に五回の礼拝や、その他の行いの中に、活力の源泉を見い出したのです。そして礼拝や、諸々の行いは、以前にも増して意味あるものとなりました。定められた時に礼拝できなかった場合は、できるだけ早い機会に代りの礼拝を行うよう努めます。たまたまモスクから遠く離れた所に住んでいて、モスクで日々の礼拝ができないときは、家か仕事場のどこか清潔な場所を選んで礼拝をささげます。
 もし、仕事や旅行で世界各地を訪ねるなら、行く先々のモスクで、礼拝の方角を示すモスクの壁のくぼみ(ミヒラブ)が、どのように異なっているか見られるでしょう。例えばインドやパキペタンでは、それは西南の方向にあり、北アフリカや欧州では大体東方に向い、シリア、イラン、トルコなどでは南方に向いています。このように地球上のどこにいても、日に五回メ″カの方角をむいて礼拝することによって、すべてのイスラーム教徒は同胞心と団結心を培うことが出来るのです。

 結婚の適齢に達すると、私たちはより大きな責任感を感じました。人生の他の厳粛な一時と同じ様に、私たちば家族と相談し、人生の伴侶を持ちたいと願い出ます。私たちの家族も、彼女の家族もイスラームの教えを実践しているならば、ムスリムである私たちの妻も、私たちの母が私たちを育てたように、妻ば子供を育て、神を畏れ、自らそう心がけることを教えるでしょう。結婚によって、私たちば家を持ち、交際や交遊の必要性を感じ、妻や子や社会に対ずる責任を遂行する義務を担います。結婚も一種の契約であります。つまりアッラーとその世界の前において、そして自分自身の中で、尊重されるべき約束事なのであります。
 ムスリム (イスラーム教徒)でない人々が、イスラームの結婚について批判することがあります。それはひとつにはイスラームを理解していないからでもあります。例えば彼らはムスリムはいつも四人の妻を持てるものと考え、討論の場でのムスリムに対する最初の質問はこのことについてのケースが多いのです。女友達を身近におき、プロスティチュートに通うという形の隠された一夫多婦制は、西洋の考え方であるかもしれないが、イスラームは、未婚の母や未婚の父というような不法な関係に賛成出来ないのです。『これは人生の責任を負う』ということからの逃避なのです。ムスリムは結婚を、神聖で重大な義務と考え、子供達のすべてを認め、かれらに対して、その養育、教育や、道徳的しつけや、人生への手引きに対して、責任を遂行します。このようにムスリムは、結婚を厳粛なものとして尊重します。なぜなら、結婚は社会の基本的構成単位だからなのです。

 同じように局外者は、イスラームのいう天国について興味を持つようです。そして、そこに女性がいて欲しいなどと言い出しかねないのです。しかしながら、天国には河が流れていて、善良な男女が、永遠に休息することができる緑豊かな場所であるとムスリムたちに考えられています。

(善行を積んだ魂に言われるであろう。) おお、安心、大悟している魂よ
あなたの主に返れ、歓喜し御満悦にあずかって。
あなたは、わがしもべの中に入れ。
あなたは、わが楽園に入れ。
        (第八九章 第二七節−三〇節)

 そこは、この世の人生が終る時、われわれが行きたいと望む場所であり、そこではすべての人が神の公正な報酬を受ける。われわれ自身慈悲深くあるべきであるように、神は慈悲深い。神はわれわれに不可能なことを要求しない。

アッラーは誰にも、その能力以上のものを負わせられない。
(第二章 第二八六節)

善いことを行う者は、それと同じようなものを十倍にして頂ける。
だが悪いことを行う者には、
それと等しい応報だけで、
かれらは不当に扱われることはないであろう。
        (第六章 第一六〇節)

 「ムスリムは宿命論者で何事も神のせいにしたがる」と非難する人があります。たしかに、われわれはアッラーの天命を信じています。しかし、すべてを神まかせで、自らの努力を怠ることは許されません。かつて預言者は「ラクダは先づつないでから、その後をアッラーにおまかせなさい」と戒められたと伝えられています。アッラーの御加護に関して誇張した見解を持つ人に対する警告だったのです。すなわち『人事をつくして天命を待つ』こそイスラームの精神なのです。又、われわれは敵に対しても親切であるように教えられました。聖典クルアーンに述べられている「善行によって、悪を撃退せよ」 (第二三章 第九六節)
、これは悪に対し悪をもって報復することなく、善いことを行なって悪を追い払え、ということであります。

 またジハード(聖戦)に従軍することも教えられています。ジハードとは、アッラーの道において努力し、戦うことです。それはアッラーのことばを至高のものとするためになされる、精神的及び肉体的な努力であり、悪への誘惑との戦いから、アッラーのための戦いに従事することまで、広範囲にわたる行動を指しています。
 アッラーは聖典クルアーンを通して、われわれにこのことを思い起こさせます。

それはあなたがたがアッラーとその使徒を信じ、
あなたがたの財産と生命をもって
アッラーの道に奮闘努力することである。
もし分るならば、
それはあなたがたのために最も善い。
        (第六一章 第一一節)

われわれはまた、忍耐を教えられた。
かれらは、非常に厳かにアッラーにかけて誓い、
「もし印がかれらに下るならば、必ずそれを信仰するのに。」と言う。
         (第六章 第一〇九節)

 われわれの高貴の書クルアーンは、預言者ムハンマドが、人々の品行について悩んでいた時に、神から啓示された文書なのです。それによって、かれは人々を偶像崇拝から遠ざけ、唯一の神にのみ、かれらの信仰をささげるよう教えたのでした。

言ってやるがいい。
「本当に主は、わたしを正しい道、真実の教え、純正なイブラーヒームの信仰に導かれる。
かれは多神教徒の仲間ではなかった。」
        (第六章 第一六一節)

 その本は生き生きとした文章で満ちています。それは広大な範囲に及ぶ真理を含んでいます。あなたは、暗黒の時代から、勝利と歓喜の日々を得たムハンマドの精神的、政治的闘争を見ることができます。これは人生の大切な瞬間に、心を充実させ、また困難を乗りきる力を与えます。そして、そのような時には次のように祈ります。

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。

1 言ってやるがいい。「御加護を求め願う、人間の主、
2 人間の王、
3 人間の神に。
4 こっそりと忍び込み、囁く者の悪から。
5 それは人間の胸に囁きかける、
6 ジン(幽精)であろうと、人間であろうと。」
        (第一一四章 第一〜六節)

 人生は時として困難なものであるが、また壮麗に美しくもあるのです。”悪”を人間の遭遇する「状況の一部」と考えれば、人生は必ずしも耐えられぬものではなく、”善”や美徳はその意味を失うことなく、幸福は達成可能なものとなります。男も女も、困難に打ち勝ち喜びをもって人生の成功にむかうことができるのです。ちょうど旅人が寒い夜、暖い灯のある宿にたどり着くように、また、水夫が荒々しい嵐の海から、おだやかな海へと運ばれるように。われわれは生きていて、幸運であったことを知り、心配や不安から解放されるのです。そして勇気を得て、ともに笑い、善い行いを実践するのです。人生を通して、われわれの道案内をしてくれるアッラーの存在を感じ取ることが出来るのです。聖クルアーンのように述べられています。

アッラー、かれの外に神はなく、永生に自存される御方。
仮眠も熟睡も、かれをとらえることは出来ない。
天にあり地にある凡てのものは、かれの有(もの)である。
かれの許しなくして、誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか。
かれは(人びとの)、以前のことも以後のことをも知っておられる。
かれの御意に適ったことの外、かれらはかれの御知識に就いて、何も会得するところはない
のである。
かれの玉座は、凡ての天と地を覆って広がり、この二つを守って、疲れも覚えられない。
かれは至高にして至大であられる。
        (第二章 第二五五節)

又、他の箇所では偉大なる尊厳について次のように述べられています。


仮令え地上の凡ての木がぺンであって、
また海(が墨で)、その外に七つの海をそれに差し添えても、
アッラーの御言葉は(書き)尽くすことは出来ない。
本当にアッラーは、偉力ならびなく英明であられる。
       (第三一章 第二七節)

 アラビア語のDinという語は、普通宗教を意味するものとされているが、宗教という言葉はDinが含むすべての意味を表わしてはいません。Dinはいろいろな角度から人生を見、そのあらゆる局面に対応するための態度と方法なのです。このように、Dinには立体的な深みと力があります。
 イスラームとは人生に、”サラーム”つまり「平和」をもたらすものであり、ムスリムとは文字通り、アッラーの平和を達成する人々のことであります。イスラームによって、われわれは深く精神的な人間となり、敬虔な気持で宇宙の未知なるものを知り、さまざまな人々と出合うことを学びます。そして感謝と堅忍な心で、われわれの運命を受け入れ、宇宙のすべてのことを支配する唯一の神アッラーを信じます。聖クルアーンにはアッラーについて次のように述べられています。

  仁愛慈悲のアッラーのみ名によって
  言え、かれはアッラー、唯一者であられる。
  アッラーは、自存者であられ、
  かれは産みたまわず、また産れたまわぬ、
  かれに比べ得る、何ものもない。

 さらに、世界のほとんど特にヨーロッパにおいては、中世の暗黒時代、つまり混沌が社会を支配していた頃、イスラーム世界は素晴しい文明を生み出していました。当時イスラームは、文化を創造し、また他の諸文化を統合する力を有し、東は中国の国境から西はピレネー山脈に至るまでの広大な世界の交流を成し遂げました。
 そして、今私たちはイスラームの偉大な信仰を誇り、ムスリムとしてその文化をも誇りに思っています。私たちは死後の世界を信じ、未来に大きな希望を持っています。私たちはムスリムであることに大きな喜びを覚えます。それはアッラーが、至高最大の存在であられるからです。アッラーが望むなら、私たちは、この二十世紀末の混沌とした世界に、再び強力な精神的支柱として、光を投げかけるでしょう。