あぶ管理人の一言集2013
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マレーシアの団体ツアー  2013/12/02
昨年いくつかの東南アジアの国に対してノービザ渡航を可能にしたため、多数のムスリムが日本を訪れるようになった。
11月22日金曜日マレーシアからの客人を迎えに行き、神戸マスジドでジュムアに行ったとき、別のマレーシアの団体旅行客と出会った。そのリーダーは知り合いだったので、一緒に写真撮影。合計20名を超えて撮影となった。

神戸マスジドは、彼ら東南アジアから来るムスリムにとって、西日本では必ず寄りたい観光スポットである。
無題 2013/11/27
「一本の綱にしがみついて決して分裂してはならない」
「もともと人間は分裂するように作られている」
これの一見矛盾と思われるふたつの言葉だが、実はイスラムにとって大切なことである。
どう考えましょうか?問題提起
クルアーン読み手の追っかけ 2013/10/05(Sat)
今思えば私はすごい歴史的な読み手の追っ掛けをやっていたことになる。
カイロの主要マスジドでは、有名な読み手が礼拝前にクルアーンを読んでおり、そのスケジュール表が市販されていた。それをたよりに、ファジュルの前に歩いてマスジドに行くことが多かった。
私が好きだったのは、Ali El-banna, El-Husaryなど落ち着いた読み手だった。最も人気があったのはAbdul Basitで、高音と息の長さが驚きに値した。こうした読み手を追っ掛け、傍でクルアーン読みを聞くのである。そのうち、いつも居る変な日本人青年ファンということで、読み手の人たちにも覚えてもらったようだ。私が座ると目で挨拶してくれた。
当時カセットテープ販売が全盛期の時代だった。彼らの声はカセットテープに乗って全世界に広まった。しかし、すごい人たちを追っ掛けていたものだ。
あとで調べればEl-Husary 1980年没、Abdul Basit 1988年没。私が聞いてたのは1977年、1978年であったから、ちょうど彼らの円熟期に、クルアーン読みを堪能したことになる。貴重な体験だったし、私の自慢でもある。
そして彼らのコーラン読みは今でも販売されている。
http://islamjp.com/shop.cgi?class=0&keyword&superkey=1&FF=0&order
イスラムはいつ知ったの? 2013/09/23(Mon)
17才の時世界史の授業で先生が、公平な目で見た世界史というテーマでお話をし、その中で、イスラムの魅力、預言者ムハンマドについて説明してくれました。そして、時間があれば、クルアーンを読んでみたらと薦めてくれました。
その時から、イスラムを好意的に受け取るようになりました。
ただ、その先生の授業を受けた生徒の中で、イスラムになったのは知る限りでは私だけかもしれません。(先生は正しい見方を指導し、正しい情報を与えただけで、イスラムの布教をしたのではありません。)
入信に至るにはそれ以外のきっかけが必要なのです。
クルアーン暗記法:2013/09/23(Mon)
私がムスリムになったのは19歳の時であった。
そしてその後、23才からマレーシアの神学校(マアハド)で子供たちと席を並べて、イスラムを学んだ。日本の中学と同じで、宿題はどっさり出され、同じようにこなさなければならなかった。その中で一番たいへんだったのが、クルアーン(コーラン)の暗記テストだった。
子供たちは、もともと覚えているか、覚えてなくてもすぐに覚えてしまうが、私は、何十回読んでもなかなか覚えきれない。そうこうしていているうちに、いい方法を体得した。
まず、日本語で意味の流れをすこし把握し、アラビア語で数回読み、それからは、毎回礼拝のたびにその章を読み、思い出さなければ、そこでストップし、次の礼拝動作に移 る。2ラカート目も挑戦する。そして、礼拝が終わって、止まったところを確認する。こういう作業をすれば、ほぼ1日か2日で覚えれるようになった。
ところでこの年になると、礼拝で読むクルアーンは確実に覚えているものだけにすることが多くなった。そうするといつも同じ章だけ読んでいる。学生時代に学んだように、いろいろな章を読むように努力しなければと、ふと反省する。
本日、こんなこと書いたきっかけは、昨日の夜の礼拝での出来事であった。某留学生がイマームをやっていて、消息章(ナバア章)の途中から読み始めて、ストップしてしまった。すぐに、私が後ろから続きを読みで教えたが、また、ストップし、章を変更して読んだということがあった。「わかるなあ〜、途中からはじめたからペース狂ったんだね」と後で話した。それと同時に反省したのが、覚えてても今まで間違えるのが怖くて礼拝で全く読んだことがない私のことだ。いろいろな章を読むように努力しなければ。
イスラムネット社会創立16周年...:2013/09/09(Mon)
インターネットが普及しはじめた頃からの知り合い、いわば初期のムスリムネット仲間が、家族で新居浜マスジドに訪問してくれた。以前会った時は、赤ちゃんをだっこしていたムスリマだったが、その子はもう高校生。
話題の中心になったのは、子供たちが日本の社会の中でどのように育っていったか、経験を通して得れた反省点、そして、将来への計画など、主に子育てについてであった。いろいろいいお話を聞かせてもらった。

ここでふと思うに、子育てだけに限らずあらゆる分野について確実にいえることは、これまで蓄積したムスリムたちの経験が、充分共有されていないことである。それはマスジド間の連携の悪さ、ホームページの至らなさ(私も大いに反省)、そして何が重要なのか履き違えている現状などからくるのであろう。
イスラムネット社会ができて16年目。一歩一歩よくなっていってもらいたいものだ。
フロイスの言葉 :2013/08/20(Tue)
フロイスの書簡に、「行きずり者(巡礼者)外国人でもある二人のパードレが、多数の敵(仏僧)の意思に反して、かくも美しく十分に飾り付けられた教会をひとつ建てることは、今、二人のモーロ人(イスラム教徒)がローマおよびリスボンに来て、わざと私たちの教会の傍にひとつのミスキータ(マスジド)を立てようとするのと同じこと。」とある。東京ジャーミイ、岐阜マスジドなどはこれに当たるのかもしれない。日本の風景の中に、異国情緒を漂わせて存在感をアピールすることは、ある意味いい刺激になり、ダアワにもつながるという点は無視できない。

話は変わるが、西日本でもっとも古くから活動しながら、25年もムサッラーのままでいる松山にこそ、本場もののマスジドが建てばいいのではないかという声もあるようだ。フム。
成田空港礼拝室 :2013/08/02(Fri)
 成田空港には各ターミナルにムサッラーがあるというので、やってきた。第1ターミナル5階のsilence roomがそれだ。ところが貼り紙があり、施錠されている。使用するには4階の案内所に申し出、警備員に開けてもらわなければならないそうだ。異常!3分の礼拝のために、とんでもない手続きだ。ここではあきらめ第2ターミナルへ移動した。


Re: 成田空港礼拝室 - a 2013/08/02(Fri) 03:54 No.641
第2ターミナル1階に、silence room( ムサッラー)はあった。救いなのは、案内所がすぐそばにあったことだ。警備の人が鍵を開けにくるのに5分ほどかかった。礼拝と写真をとって出た。3分だった。案内の人とおしゃべりを10分して空港を後にした。これぞ珍百景の礼拝所だった。成田空港に行ったら皆さん礼拝所を使いましょう。

成田空港に礼拝室がターミナルごとに2つあるのはありがたいことだ。でも、礼拝が2分〜10分で終わることをご存知ないようで、使用するまでの手続きで礼拝時間よりかかるのでは、誰も使用しないだろう。開けっぱなしにしていただきたいものだ。さらにSilnce Roomというネーミングは、他の宗教にも配慮したのだろうが、礼拝のイラストやイスラムのマークでもつけていれば、人々はひっきりなしに使用するのに、これでは、誰もわからず、使用しないだろう。私が礼拝室の前で開錠してもらうのを待ってる間にイスラム教徒の人が何組も通っていた。
4人に一人はイスラム教徒という世界の人口比があり、また、イスラムの礼拝は生活の中に生きており、1日5回行われる。ほかの宗教に祈りがこのように生きている宗教はないはずだ。イスラムの看板を出して、使用してもらっても問題はないのではなかろうか。

写真は礼拝室内部。何も置いてなかった。
関空礼拝所は常時開いてて、キブラの方向表示、クルアーンまで置いていたのとは、大違いであった。
松山マスジドプロジェクト:2013/06/22
松山MICCの執行部のメンバーが新居浜マスジドに集まり、松山マスジド建設計画について話し合った。
松山MICCは、神戸以西の中国・四国・九州ではもっともはやく活動を始めたイスラム団体の一つで(注:徳島がより早く活動していた)、1981年にさかのぼる。また、1994年からは拠点となる礼拝所も有している。
 しかし、2000年に入ってからのマスジド建設ラッシュで、新居浜、徳島、別府、岡山、福岡、熊本とライバル都市に次々と抜かれ続けている。本来、松山にこそ最も早くからマスジドがあって当然の歴史を持ちながらである。
 やっと、今本腰を入れてマスジド建設に動き出したと言える。
 ただ、マスジド運営はたいへんであることを知らなければならない。
マスジドの盛り上がり :2013/06/19
夜道を自転車でのんびりと歩いていると、閉店後のゴルフ屋さんが静かにたたずんでいた。たくさんのゴルフセットが並んでいた。近くにもう一つ大きなゴルフ用品販売店がある。この町に(人口12万)に大きなゴルフ用品店が少なくとも二つはあり、それぞれの店舗に数十、数百の在庫を抱えているようだ。この町にそんなにゴルフ愛好者がいるとは思えない。
 そういえば昔、当店にも数百本のテニスガットを展示していたが、市内のテニス選手が数十人の状態では、テニスガットが回転するはずがないのに気が付いたことがあった。
 種目ごとの選手数が、増えるかどうかは、お店にどれだけ商品を陳列してるかではなく、いかにその種目の指導者陣が普及努力をし、成果を出したかどうかなのである。その指導陣を引っ張るのはわずか一人のカリスマ性のあるリーダーの存在であることが多い。限定された地域を見れば、そのように言えるのではないだろうか。
 ところで、マスジドを見てみよう。同じようなことが言えそうだ。一人のカリスマ性のある指導者がいるかどうかが、その地域の盛り上がりに繋がっているように思える。
先輩ファドル氏:2013/06/19
東京ジャミイの金曜礼拝ではいろいろな人とであう。礼拝終わって次々と世間話に花をさかせることになる。
私のイスラムダアワ大学の先輩に、ファドル師がいる。ファドル師は北京大学を出た元中国人インテリであり、その後イスラムダアワ大学に留学していた。つまり、私の大学の先輩だ。そして、帰化して中道さんという。
http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/photo/indons.htm
このサイトの国際会議のときにジャカルタで中国系の人たちのパーティで講演をして、観客は、スタンディングオベーション、感動の涙を流したほどの、イスラム弁士でもある。
最近健康状態がよくなくマスジドにもあまり顔をみせられなくなっていると聞いていたところ、昨日は、偶然にもファドル氏がやってこられた。
 東京での感動的な出会いの一つだった。お会いできたのがとても嬉しかった。「お元気ですか?」という言葉が今回は重い。そして、今回は次男を紹介した。「幼児だったのに大きくなったね。」いつも私を暖かく見守っている。いつまでたっても、私にとって大学の唯一の先輩だ。お元気であってほしい。昔のように叱咤してもらいたい。
 元気よく次々と話す私を後に、氏は静かに去っていった
先輩ファドル氏:2013/06/19(Wed)
東京ジャミイの金曜礼拝ではいろいろな人とであう。礼拝終わって次々と世間話に花をさかせることになる。
私のイスラムダアワ大学の先輩に、ファドル師がいる。ファドル師は北京大学を出た元中国人インテリであり、その後イスラムダアワ大学に留学していた。つまり、私の大学の先輩だ。そして、日本に帰化して中道さんという。
http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/photo/indons.htm
このサイトの国際会議のときにジャカルタで中国系の人たちのパーティで講演をして、観客は、スタンディングオベーション、感動の涙を流したほどの、イスラム弁士でもある。
最近健康状態がよくなくマスジドにもあまり顔をみせられなくなっていると聞いていたところ、昨日は、偶然にもファドル氏がやってこられた。
 東京での感動的な出会いの一つだった。お会いできたのがとても嬉しかった。「お元気ですか?」という言葉が今回は重い。そして、今回は次男を紹介した。「幼児だったのに大きくなったね。」いつも私を暖かく見守っている。いつまでたっても、私にとって大学の唯一の先輩だ。お元気であってほしい。昔のように叱咤してもらいたい。
 元気よく次々と話す私を後に、氏は静かに去っていった
 ビラを配る人 :2013/06/14
東京ジャミイのジュムアの礼拝では、いろんな名物さんを発見する。
この方は、ボランティアでビラ配りをしている。実は代々木上原駅から荷物を持って足早にジャミイに向かってたので、私も礼拝に遅れたらいけないと追った人だった。
礼拝後出口でビラを配っていた。日本人だと思ってたら、インドネシア人に突然流暢なインドネシア語でしゃべった。興味を持ち声をかけてみた。
元はカトリックだったインドネシア人ということだ。コンバートした外国人はダアワに熱心なのか。とてもいいキャラクターの方で、誰でも親しみが持てるだろう。日本語がうまく、日本人でとおりそうだ。日本人女性と結婚し苗字は日本の苗字。なまえはリチャードさんだったかな?よくある西洋風の名前だった。
都知事の問題発言 :2013/04/30(Tue)
"But Islamic countries, the only thing they share in common is Allah and they are fighting with each other, and they have classes."
そして、
“I’m sure people in Turkey want to live long,” he added. “And if they want to live long, they should create a culture like what we have in Japan. There might be a lot of young people, but if they die young, it doesn’t mean much.”
都知事の発言内容。たとえ、そうであったとしても、イスラム諸国の状況を批判的に話したり、トルコの文化を日本以下であるように言えば、当然トルコやイスラム諸国の人たちはおもしろくはない。
 単に不注意な発言なのではなく、ついつい都知事が持っているイスラムへのイメージが口をついて出てしまったのだろうか。
 都知事だけにはじまったことではない、マスコミをチェックしているとイスラムに対する偏見がふとしたことで発言されていることがある。
 上に立つ人、人に影響を与える立場にある人は、言葉を選んでしゃべってもらいたい。
 私がとくに残念に思ったのは、後者の文面だ。トルコに対する余計なお世話と思える文面である。
 日本をもっとも愛してくれる国民・トルコ人は、これを聞いたらどう感じるだろうか?


さてトルコと日本の関係について絵本『エルトールル号の遭難』の文をここに紹介しておこう。
絵物語『エルトールル号の遭難』より

イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。
  そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人215名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの1時間15分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。
 前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供たちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
 シンガポール時代にお世話になった人々の相次ぐ訃報 :2013/04/13(Sat)
日本の初期のムスリムはさまざまな経路で入信にたどり着いているようだ。
そして、どこかのイスラム国との係わりがあるようだ。
もしも日本人ムスリムを係わりの国ごとに分類するのであれば、私はシンガポールだということになるのかもしれない。
シンガポールのイスラム家族Komeng家と知り合いイスラムに入信した。そして家族の一員としてイスラムを学んだ時期があった。私のムスリムとしての人生はシンガポールから始まったのである。
お世話になったKomengさんが最近亡くなった。次の年は後を追うように母親Hendonさんが。そして、昨日、Kallang Baruというアパート群のあるブロックで作り上げていたムスリムコミニティーの子供たちにイスラム法を教えていたジャファル先生が亡くなった。ニュースはfacebookを通してKomengさんの息子から伝えられてた。
シンガポール時代にお世話になった人たちが次々と亡くなっていった。
インナ リッラー ワ インナ イライヒ ラージルーン
イスラム活動に対して :2013/02/12
ムスリムとは、アッラーを信仰し、ムハンマドを最後の預言者として信じる者のことである。
イスラム活動には、さまざまな活動があり、さまざまな考え方を持った人がいても、この二つさえしっかり握っている活動はどれもイスラムであり、批判をしたり、敵対視をするべきではないと思う。ムスリム同士、常に兄弟として幅広く受け入れてあげる気持ちを持たなければならない。

(注:ただし、この二つのどちらかでも外したイスラムを名乗る活動は間違った活動である。アハマディーヤなどがこれに当たる)
日本語クルアーンサイト「kw版」:2013/01/28(Mon)
 イスラムのホームページの中に、「あぶ版」、「文化版」、そして、本日まで「kw版」というクルアーンページを置いていた。ずっと以前からあったサイトで、日本人のためにと、長くクルアーン、ハディースなどを提供してくれたサイトだ。日本ムスリム協会版クルアーン日本語訳の50箇所に及ぶ訂正が完了した時もすでにあり、そのサイトオーナーとメールでやり取りして、訂正についてお願いしたことがあった。その人はクウェート人だった。だから「kw版」と名付けた。すでに10年以上前の話である。
ネット上には、いまいろいろな日本語のクルアーンサイトが登場するようになった。もちろん、その全ては、ネットの原本となった私が作成した「文化版」のコピーであることは間違いないだろうが、とにかく日本語訳クルアーンがネット上にたくさん載るのは嬉しい次第だ。
ところが、最近になり「KW版」がネット上から消えていた。日本人のために貢献してくれたページに感謝とともに、イスラムのホームページのリンクから外した。
 アラビア語フォント:2013/01/28(Mon)
facebookを見てもお分かりのように、アラビア語フォントは普通に使われるようになった。
イスラム関係の過去のページでは、アラビア語部分をgifにしているところもあるが、それはもう古い。これからは、すべてアラビア語フォントにしなければならない。win8になって、入力も楽になった感じがする。ただ、私はアラビア語ブラインドタッチには程遠く、「60の手習い」といって60になっても手習いしても大丈夫だよと勇気付けてくれるが、そんなに60を強調するところにこのことわざの深い意味があり、「60からは無理だよ」といわれているようで、私は実は60目前なのである。
余計なことを書いたが、とにかく、ウェブページは、アラビア語フォントを使っていかなければ、利用価値がなくなってくる。
あぶ版クルアーンサイトが、最初に手がけたアラビア語フォントページだった。2008年1月のことだった。
 裏からの神戸マスジドの写真:2013/01/07(Mon)
神戸マスジドの隣に住んでいる方が、facebookに掲載した写真。実はこの作成者は学生時代のバドミントン部の先輩古谷さんである。神戸マスジドの裏に住んでいるというのを聞いていたので、撮影をお願いしていたものだ。
先輩は、次のようなコメントも付いていた。コメントもとても味がある。
このアングルで撮った神戸マスジドの写真はない。裏からの写真である。

古谷先輩のコメント
「おはようございます。自宅マンションの隣に建つムスリムモスクです。
1935年に建てられた日本で最初のモスクで、現在では歴史的建造物に指定されています。
「三日月の地」すなわち「月出る国」に預言者ムハンマドが最初に建てたモスクがメディナの「Koba(Quba')」クバー・モスク。「日出る国」に最初に建てられたモスクが「Kobe」コウベ・モスク。音が似通っていますね。それだけ縁があったんでしょう。
昨年、銅葺きの屋根を補修したばかりなのでまだらになっています。夜になると三日月が妖しい光を放っています。」
 
 
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