Aさんのアフガン支援活動報告2
この報告書は平成14年1月2日Aさんからメールで送られてきたものです。
『イスラムHP』の『アフガン募金』による援助活動の報告
2002年1月2日 A(匿名)
 アッサラーム・アライクム。そして、あけましておめでとうございます。
 遅くなってしまいましたが、管理人さん・ヤセールさんとともにパキスタンに渡った者として、ここに報告を述べていきます。

● イスラマバード到着(12月10日)まで
 まず、今回のパキスタン行きに際し、私の中で大きな「甘え」があったことを反省する。簡単に言えば、「良いことをしに行くのだから、アッラーからのお助けがあって事はうまく運ぶ」という甘い考えでいたのだ。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、人事を尽くしていなかった。管理人さんやヤセールさんとの事前の打ち合わせもほとんどしていない。お二人に初めて会ったのは、パキスタン出発当日の12月9日、待ち合わせの羽田空港である。1人で遊びに行くわけではないのだから、到着してから限られた時間で目的を達すべく、現地の現状についての情報を入手して綿密な打ち合わせをしておくべきであった。
 私は、1993年末から1994年はじめにかけて、パキスタン一人旅の経験がある。であるから、パキスタンでは英語はほとんど通じない(「日本では英語が通じない」こと以上だと思う)ことを知っていた。それなのに、今回のパキスタン行きの前に、ウルドゥー語会話の本を買っておくことすらしなかった。自分が行く場所であるのに、パキスタン・アフガニスタンの地図すら、ろくに見ずに出掛けた。いわゆるガイドブックの類すら、目を通していない。トラベラーズチェックも購入していない。一体、どんな準備をしたというのか。旅券を取り、また、1週間の休暇を得られるようにしたことくらいであって、「事前に準備をした」と言えることは何もしていないのだ。 言い訳をさせていただくと、私は、自分がパキスタンに行くことになるとは、直前まで思っていなかったのである。『アフガン募金』で管理人さんのパキスタン行きに同行するのは「信頼できるムスリム」となっていたのに、管理人さんにお会いしたことも無い私に、「一緒にパキスタンに行きませんか?」というお話が来るとは! それを引き受けたのは、「誘いの話が私にまで回って来るくらいだから、行く人間がいなくて困っているのだろう。」と判断したこと、他の方がお仕事を休んで行くよりも私が行ったほうが経済的な損失が少ないと判断したこと、などによる。 ともあれ、管理人さん・ヤセールさんの手配で、パキスタン入国ビザや航空券が用意された。これらについても、お二人のご苦労は実は大変なものであった。詳しいことは述べないが、それらの準備をお二人に任せていた私は、「旅行代理店に全てを頼んである殿様旅行」の様子であった。
 パキスタン航空の出発は1日遅れた。私は昔、フィリピンに行った(これも一人旅)際、帰りのパキスタン航空が空港で乗客を待たせた挙句、翌日の出発となったという経験をしている。パキスタン航空は安いけれど、そういうことがあるものだと認識している。12月8日が空いたため、私は、東京モスクを訪ね、その後、日本ムスリム協会の事務所に寄り、『アフガン募金』の活動として翌日からパキスタンに行くことを報告した。「寄付しそびれてしまったから。」と、ここで現金を預けてくださったご夫妻もいらっしゃった。
 12月9日に落ち合った管理人さん・ヤセールさん・私の3人は、マニラ経由で翌10日にカラチ入りした。この後、国内線に乗り換えなければならないのだが、ともかく、パキスタン入国である。カラチ空港で無料のインターネットを見つけた管理人さんは、『イスラム掲示板』に英語(日本語入力はできない)で簡単な書き込みをした。特に問題もなく、私たち3人の乗った国内線はイスラマバードに着いた。
● パキスタン到着の日(12月10日) <上>
 「特に問題もなく」私たち3人がイスラマバードに着いた、と書いた。このことはヤセールさんを驚かせたことである。というのは、カラチで国際線を降りてパキスタンへの入国手続きをし、国内線に乗り換えてイスラマバードに到着した私たち3人のうち誰一人として、空港で賄賂を要求されることも無く、それどころか至極丁寧な対応をされたからである。現地で働く人用にと寄贈されたスポーツウェア類で大きな段ボール箱2つとなっていた管理人さん持参の荷物は、乗り換えの際に荷崩れしないよう職員が手際よく紐で縛ってくれた。警官がじっと立っているのではなく護衛のように寄り添ってくれるということもあった。私がひやりとしたことがある。私のウェストポーチに爪切りが入っていたために金属探知機に反応して中を調べられた時だ。米ドルに替えて日本から運んでいた寄付金のうちの2万ドル(約260万円)が私のウェストポーチの中の封筒に入っていたのである。しかし、封筒の中を見た警備官は一瞥をくれただけであった。以前、パキスタンに帰国する度に賄賂を要求されたり嫌がらせを受けていたというヤセールさんは、「軍政万歳!」と言い出すほどであった。イスラマバード着陸の際に思わず顔を見合わせてうなずいた管理人さんと私は、パキスタンが良くなったという印象を受けたヤセールさんの言葉を聞き、自分たちがこれから果たさなければならないことを、おそらく、楽観していた。
 イスラマバード空港の出口では、管理人さんとヤセールさんとが、それぞれ目的の人たちをすぐに見つけた。ダアワ大学での管理人さんの後輩であるシャムスルハック氏と、ヤセールさんが連絡を取っていたM.D.I.の人たちとである。誰が誰だかわからないうちに私は荷物とともに迎えのバンに乗せられて宿に向かったのだが、少し変だと思ったことがある。管理人さんは、出迎えは2−30人来る、とおっしゃっていたのに、実際にはM.D.I.の数人とシャムス氏だけだったのだ。後になって管理人さんが気づいた。管理人さんのダアワ大学の同級生たちが1人も来ていないのはおかしなことだった。私たちをだまそうとしたシャムスルハック氏は、意図的に連絡を怠っていたのである。自分の先輩が日本で得た寄付金を持ってやって来るということを、シャムス氏は自分の先輩たち(管理人さんの同級生たち)には秘密にしておきたかったのだ。
 私たちはシャムス氏の手配した宿に入った。しかし、シャムス氏は前日に母親が亡くなったということで、M.D.I.の人間と私たち3人とが、部屋でそのまま議論することになる。
 M.D.I.の人たちと話し合ったのはほとんどヤセールさんであった(もちろん、必要だと思われる時にヤセールさんは通訳をした)。このときの私にはわかっていなかったが、ヤセールさんはとても怒っていたのである。ご自分の弟さんがM.D.I.の一員であったため今回の援助活動の協力を依頼していたのに、M.D.I.には具体的行動案ができていなかったためだ。ヤセールさんは、1000ドルも使って国際電話をしていたのに準備ができていないとはどういうことだ、と怒鳴っていたらしい。M.D.I.の人間のうち長老格(と見えた)の2人はアラビア語ができたので、ときおり、管理人さんと会話をしていた。ウルドゥー語もアラビア語もわからない私は、脇に座っていただけである。会議の様子を管理人さんのデジカメで撮ろうとした私は制せられた。M.D.I.の人たちは写真が嫌いだとのことだった。私はやはり、座っているだけであった。イスラマバードには現地の朝に着いたのだから、随分長いこと議論が続いていたことになる。しかし、長かったという記憶は私にはなぜか無い。
● パキスタン到着の日(12月10日)<下>
 M.D.I.は、イスラームの理念を実践すべく組織された団体であると言って良いと思う。しかし、食料を買い付け、それを小分けにして袋詰めし、アフガン難民の中でも特に援助を必要としている人々を選んで手渡す、という作業をするのは今回初めてであった。それも、わずか1週間足らずで済ませなければならないことなのだ。M.D.I.はそれでも、1つの袋に入れる食料の内訳、各袋あたりの値段の見積もり、配るべき地域の候補地の選定までしていた。M.D.I.に任せて何の問題も無いと私は思っていた。その団体の趣旨からして当然なのだろうが、M.D.I.の人々は真摯なムスリムたちと見えた。M.D.I.の人々と私たちが話し合いを持ったのはラマダーンの日中であったから、「ティーブレイク」も無しに話し合いは続いた。そして、礼拝の時刻が来ると、M.D.I.の人々が率先して私たちは礼拝を捧げた。
 M.D.I.の人々が準備したイフタール(1日の断食を解く、日没後の食事)を宿で一緒にとった後、私たちはM.D.I.の人々とその日は別れた。繰り返すが、M.D.I.に任せて何の問題も無いと私は思っていた。しかし、M.D.I.の人々がヤセールさんの弟さん1人を残して帰っていった後の私たち3人(管理人さん・ヤセールさん・私。ヤセールさんの弟さんは日本語が全くわからないし、加わらなかった)の話し合いで、ヤセールさんはそれに難色を示した。ヤセールさんは、自分の弟さんが加わっているM.D.I.に金銭を渡すことはしたくなかったのだ。自分の弟が所属する団体を使って、うまいことピンはねしたのだろう、とか、そうでなくとも利益をあげたのだろう、とか、疑いを持たれたくはなかったからだ。しかし、優先順位は、アフガン難民が1番、そして寄付に応じてくれた人たちの気持ちが2番、私たちの自己満足はそれより下だ、と言って私はヤセールさんを説得した。M.D.I.の人々を信頼したい、と私は主張した。管理人さんも私に同調し、M.D.I.に任せよう、との意見であった。そして、それで決定のはずであった。
 その晩、私たちは地元の新聞記者を名乗る人物の訪問を受ける。実は、私たちのパキスタン入国ビザ取得の際、普通なら審査に1週間くらいかかって予定の日本出国に間に合わないところを、日本のパキスタン人協会会長ライース氏の口利きがあったため、審査が簡略に行われてビザがすぐに取れたのだった。ライース氏は、パキスタン国内で今回のような援助活動をするのならばどうして事前の相談を自分にしてくれなかったのだ、と不満だったそうだが、ともかく、ライース氏は、ある新聞記者と会うようにと指示していた。新聞記者が介在してくれれば、今回の活動を大きく報道をしてもらうことはないまでも、不正行為が入り込まないかどうかの監視役をしてもらうことができると判断し、会うことにしていたのだった。
 その新聞記者との話し合いは、レストランに移ってから活発になった。新聞記者は、日本人である管理人さんと私の意見を聞きたかったため、ヤセールさんには黙ってもらい、主に私との間で英語で議論をした(管理人さんは英語は苦手)。新聞記者は、M.D.I.についてとても否定的な情報をもたらした。ヤセールさんの弟さんも英語はほとんどできないのだが、話されている内容は大体わかっていたはずだ。しかし、M.D.I.の一員である弟さんは、口を挟まなかった。新聞記者は、M.D.I.にお金を渡して頼んでも、多くは横領され、難民にはあまり、ないしほとんど届かないだろう、と言った。新聞記者のもたらしてくれた情報が事実ならば、とてもM.D.I.に協力を頼むわけにはいかない、というほどの内容を私たちは告げられた。「彼(管理人さん)の決定が私たちの決定である。」と私は答えたけれど、新聞記者はなおも、翌朝になったら日本大使館に相談してみることを私たちに勧め、M.D.I.に協力してもらうことを止めさせようと説得した。
 M.D.I.に任せよう、という決定を一度はしていたはずの私たちは混乱した。そこで、夜遅くであったが、管理人さんのダアワ大学での後輩、シャムスルハック氏に相談することにした。母親が前日に亡くなったというシャムス氏に出てきて時間を割いてもらうのは申しわけないと思いながらも、私たちだけでは決めることができなかったのだ。
 シャムス氏は、書き記したものを私たちに示しながら、M.D.I.が提示したよりも安くしかも早く、援助食料の袋を用意できると言った。また、M.D.I.の協力を得ることに問題は無いとも教えてくれた。母親が前日に亡くなったということでシャムス氏を煩わせることを遠慮してた私たちは、「始めからシャムス氏に相談すれば良かった。」と喜んだ。食料の調達をシャムス氏に、難民への配布をM.D.I.にしてもらう、という決定となった。私たちは満足した。シャムス氏が来たことをヤーセルさんは「救世主が現れた。」とはしゃいだ程であった。そこで私は言った。「ジブリールが降りた。」(パキスタン到着前、『イスラム掲示板』にあった「ジブリールが降りた」という投稿が一体何だったのだろう、と私たちの間で話題になっていたため)
● ペシャワール(12月11日〜12日)
 パキスタンに着いた10日に私たち3人が泊まった宿は、イスラマバードの隣町であるラーワルピンディにあった(その2つの市の区別を私は意識していなかったが)。翌11日には私たちはそこからペシャワールへと移動する(途中、宗教学校前で管理人さんの記念撮影もあった)。そして私たちはペシャワールの難民地区の様子を実際に見た。
 その後、ペシャワールでM.D.I.の物資置き場となっているところを視察し、物資の調達・配布について管理人さんは指示を出した。シャムス氏の紹介する業者に食料を注文し、運ばれたものをM.D.I.の人々が配ると(この時点で、ペシャワールの難民の中で困っている人々が食料を配る相手に決定したものだと私は理解した)。
 この日、M.D.I.の人々と一緒にイフタールを取るという話があった。しかし、管理人さんは発注のためにラーワルピンディへと取って返すことにし、ヤセールさんはご家族に会いにアボッタバードへと帰郷した。私は寄付金を預かり、M.D.I.の用意してくれたペシャワールの宿に一人残った。そして、イフタールの時刻にM.D.I.の人々は現れなかったため、管理人さん・ヤセールさんの二人がペシャワールを離れたことはM.D.I.の人々に伝わってその日のイフタールの集まりは無くなったのだと思い、一人でベッドに横になっていた。ところが遅くになって、突然、M.D.I.の数人が部屋を訪れた。そして、「あなたの警護のために、彼がここに泊まる。」と言って、一人を残していった。そんなことを聞いていなかった私は緊張した。一人で寄付金を預かっていたのだから。
 私の警護のために残った人は、私たちが会ったM..D.I.の人々の中では比較的若い人だったが、英語が流暢なだけでなく、アラビア語にも通じているようだった。彼はコーランの一節について語った後、すぐに眠りについた。そして翌朝早くには帰っていった。私の心配は杞憂だった。
 ところが12日、管理人さん・ヤセールさんの二人が、なかなか戻ってこない。ヤセールさんは自宅で風邪の症状がひどく出たためにすぐにアボッタバードを離れることができず、また、管理人さんは必要なことを済ませた後、イスラマバード市内観光をしていたのだった。結局、大きな事故があったわけではなかった。


● アフガン難民事務所、そして別行動へ(12月13日)
 前日、管理人さんはイスラマバード市内観光だけをしてきたわけではなかった。難民への食料支援はどのようにしたら良いかについて情報収集をすべく、リビア大使館に寄ってきていた。そこで得た助言に従い、この日、私たちは『アフガン難民事務所』を訪れ、私たちの計画を係官に話した。係官の対応は淡々としたもので、私たちが食料を配ろうと考えていたペシャワールにはつい最近も配給がありもう必要ない、という。結局、私たちの誰もが知らない「コハート」という地名を挙げ、そこへ援助するなら許可を出す、ということになった。私たちは二手に分かれることになる。管理人さんはヤセールさんとコハートの視察に、私はイスラマバードでの食料の袋詰め作業に対する支払いと作業の進捗状況の確認をしにいくことに。
 イスラマバードでの食料の発注はシャムスルハック氏を通してなされていたため、私はシャムス氏とイスラマバードに向かった。管理人さんは、シャムス氏と私とは英語で会話ができるから大丈夫だと判断していた。
 それまでシャムス氏がウルドゥー語とアラビア語を話すのしか聞いていなかったのだが、シャムス氏は意思疎通に必要な程度には英語が話せた。シャムス氏いわく、「英語を聞くのは問題ない、けれど言葉が出てこない。」私は、英語で返答するのに苦労するシャムス氏を見て、できれば質問をしないでおこうと決めた。――これが誤った判断だった。
 シャムス氏は、両替――私が預かって持ってきた、寄付金のほぼ半分に相当する3万米ドルを、パキスタンルピ―に替える作業――を、ラーワルピンディのシャムス氏の家で行うか、外で行うかと尋ねてきた。私は、前者のほうが安全だと考え、その旨を伝えた。私たちがシャムス氏の家に着いた後、両替商が訪ねてくるのだろうと私は思った。実際、1人の男がやってきた。その男は紙に計算を書いて私に示した。示された金額に私が納得して米ドル札を男に渡すと、なぜか、シャムス氏が管理人さん宛てへの受け取りを書いた。それでも、シャムス氏が仕切って進めてもらっている作業なので、問題はないか、と私はその受取証を預かった(この受取証は、後日、重要な証拠として管理人さんが保管することになる)。
 私はお金を両替商に渡したと思ったのだが、食料の内金の支払いが済んだ、ということになったようなので、両替商だと思っていたのは食料の調達・袋詰めをしている業者だったのか、と考えた。つまり、私は相手が誰だかわからずに大金を渡したのである。私には警戒心が欠けていた。実際には、私がお金を渡した相手はシャムス氏の弟のイスラールル・ハック氏だった(あまり似ていなかったので兄弟とも気付かなかった)。
 断食を解く時刻となって、シャムス氏と私は軽く飲み食いをした。その後、本格的な夕食が用意されるのだが、その時までに私の体は変調をきたしていた。頭はがんがん痛い。吐き気がする(実際吐いたが、断食していたので吐いたものの中に固形物は無かった)。悪寒がする。おなかが突っ張るように痛い。下痢もした(でも腹痛は治まらない)。私はソファで毛布に包まり、動けなかった。夕食も手を付けられず、そのまま下げてもらった。持参した薬を何種類か服用し、水をもらうだけで、そのまま休んでいた。シャムス氏は何度か、「医者を呼ぶか?」と尋ねたが、ここで医者にかかると管理人さんたちに迷惑がかかることを心配し、断った。良くなるだろうと祈念して。翌未明も、断食開始前の食事を取ることができなかったが、アルハムドリッ
ラー、動けるまでに回復した。

● だまされ、それに気付かずペシャワールへ戻る(12月14日)
 準備した食料はコハートではなく当初の予定通りペシャワールで配る、との最終決定が管理人さんから伝えられたのがいつだったかはっきり覚えていない。ただ、朝10時を過ぎても私はまだシャムス氏の家で休んでいた。そこへシャムス氏が報告に来た。ペシャワール行きのトラックが5台出たが、警察に停められ、鍵を抜かれてしまった。警察は午後4時にならないと鍵を返さない。――大型車だから、交通渋滞緩和のために、そういう規制もあるんだろうな――私はそう考え、管理人さんたちに伝えた。トラックの第1便は5台、もう出たんですけれど、こういう事情です、と(その日、食料等を配る予定でいたペシャワールの現場では、M.D.I.のマージド氏の的確な判断のお陰で、難民が暴徒と化す事態を避けられたそうだ)。 その後、シャムス氏は金曜礼拝のイマーム(導師・説教師)に出かけ(この時がシャムス氏と別れた最後となった)、入れ違いにイスラールル・ハック氏(シャムス氏の弟――しかし、この時もまだ、業者だと私は思っていた――)が私を迎えに来た。食料袋詰めの作業の視察である。そう、作業がきちんとなされているかどうかを私は見極めなければならなかったのだ。しかし私はあっさりだまされた。連れて行かれたのは、工場なんてものではなく、小さな作業場だった。しかも偽の。「このような作業を専門にしている工場なんて無いし、イスラマバードでは大きな作業場も準備できないので、こういう小さい規模の作業場をあちこちに用意したんだな。1つ1つがこれくらいの規模でも、トラック5台分の食料はもう準備できたのか。すばらしい。」何とおめでたいやつだ、私は! もっとも、ステッカーや横断幕はしっかりしたものを用意してあったり、記録用にと頼んであったビデオカメラによる撮影も行われていたり、私をだます工作はしてあったのだ。
 その後、イスラールル・ハック氏とその従兄弟にあたる人物と私とは、自動車でペシャワールに戻る。出てすぐ、高速の入り口で、イスラールル・ハック氏が停まっていたトラックを指差して説明した。「あれが停められているトラックだ。」と。トラックは1台しか見えなかったが、私はまたしても彼らの言い訳を自分で用意してあげてしまった。「ははあ、1か所にまとめて停めると邪魔になるから、警察は少し離れたところに1台ずつ停めさせているんだな。」そしてここでも質問すらしなかった。 高速道路を走り続けたが、途中、道路脇のモスクで礼拝をしたり、速度違反で捕まったり、自動車が壊れて修理したり、イフタールを取るためにホテルに寄ったりと、ペシャワールに着いたのは遅くなってからだった。
 ホテルからイスラールル・ハック氏らは帰っていったが、相変わらず、もう出たはずのトラックも着かないし、シャムス氏と連絡が取れない。「ああ、今日はラマダーン最後の金曜日だから、タラウィ―(夜間のコーラン読誦・礼拝)でなかなか帰ってこないんじゃない?」と、またしても、私はシャムス氏と連絡がつかないことの言い訳を作り上げてしまった。
 しかし、その夜、ついに私たちも気が付く。シャムス氏らにだまされていたことを。

● ペシャワールの業者に食料を再発注(12月15日)
 だまされたという現実を受け入れるのに時間がかかった。しかし、待っているアフガン難民のためにどうにか食料を準備しなければならない。ヤセールさんはM.D.I.のマージド氏とともにイスラマバードにとんだ。シャムス氏らをとっ捕まえて善後策を講じるためだ。私は残金で新たに食料を調達すべく、M.D.I.の紹介する、ペシャワールの信頼できる業者と会って「できれば明日までに。」という無理な注文をした。管理人さんは配給所でとにかく荷物が配れる状態になるのを待っていた。
 この日の私の記憶はだいぶ欠落している。
 配給所での対応も、難民に納得してもらえたようだ。私が新たに食料の袋を注文した業者は、仕事を請け負う時に、こちらが要求していないのに誓約書を作って署名して寄越してくれた。米ドルでの支払いで良いといい、しかも、何軒か回った両替商では示されなかった良い交換レートで計算してくれた。
 ヤセールさんがペシャワールのホテルに戻ってきたのが何時だったか、覚えていない。夜明け前だった。午前3時ごろだったのではないかと思う。ヤセールさんはもっと遅かったのでは、と言う。管理人さんとM.D.I.の一員でもあるヤセールさんの弟さんは眠っており、部屋の明かりも暗くしていたので、私たち2人は部屋の外に出て話をした。ヤセールさんは大きな声を出すことは無かったが、興奮していた。「錯乱していた」という表現のほうが正しいと思う。それでも、マージド氏とともにイスラマバードに駆けつけ、イスラールル・ハック氏を捕まえたこと、彼らがしてきたことを白状させたこと、弁償させる手はずを整えたことなどを報告してくれた。インシャーアッラー、全てうまくいきます、と言った。

● 食料の袋詰め・発送の確認、イードを迎える(12月16日)
 後から知らされたのだが、私が新たに食料の調達を頼みに行ったペシャワールの業者は、M.D.I.の一員でもあったのだ。家具屋を営み、倉庫を持っていたので、そこで食料の量り取り・詰め込み・封の作業を、頼まれた日の内に始め、徹夜の作業をしてくれた。それを翌16日の朝、管理人さんと私とが見に行くことになる(イスラマバードから戻ってきたばかりのヤセールさんにはホテルで休んでもらった)。任意に取り出した袋からは、要求した重さを満たす食料が出てきた。量り取りでは少しずつ多めになるように作業したと言う。見ている間にも、新しい袋が次々とできていく。アフガニスタンでは、昨夜の内にラマダーン明けを告げる新月が観測されたとのことで、アフガン難民はイードを迎える。パキスタンでは確認がされていなかったため、日が昇ってもラマダーンは明けていなかった。それが幸いした面もある。まだイードでなかったために、働き手が確保できたのだそうだから。実際には、私たちが作業場
を見ているうちに、パキスタンでも新月が確認されてイードを迎えたという知らせが入ってきた。私たちはなつめやしや果物をそこでいただき、イードを祝った。私はM.D.I.の人たちに伝えた。「今日、私はアッラーからイードの大きな贈り物をいただきました。ムスリムに対してのというだけでなく、人間に対しての信頼を失いかけていたのに、あなたたちはそれを取り戻してくれたのです。」
 食料の袋を配給所へと運ぶトラックが入ってきた。私たちは、その積み込みと、第1便の出発を確認すると、いったんホテルに戻った。もう安心である。
 その後、配給所に行き、食料の袋が渡されていくさまを見た。そしてその場を去ろうとした時、私は、M.D.I.の人たちへの感謝の気持ちが溢れて感涙に咽ぶことになる。いきなり自分が嗚咽して、それにびっくりして泣き止んだ。後で考えると、いきなり咽んだために呼吸が苦しくなって泣き止んだのかもしれない。私は自分の感情の揺れの大きさを実感した。でも、こういうことは書いても伝わらないと思う。
 この晩、私たちは「打ち上げ」をする。

● ペシャワールを離れてから(12月17日以降)
 管理人さんにはぜひ帰ってください、と言った。管理人さんには、募金に応じてくださった方々に報告する義務がありますから、と。しかし私は残った。遣り残した大きなことがあったわけではない。詐欺師どもをとっちめるという大役を果たしたヤセールさんが、自分が落ち着くために私に残ってほしいと希望したからだ。管理人さんが当初の予定通り17日にイスラマバードから日本に帰国すべく、前の晩、私たちはイスラマバードの宿に移って来た。
 この日、私はまたしても大失敗をしでかした。それまで冷静に対応してきた管理人さんが、「帰国するのを止める。」と言い出すほどのことであった。でも、これはまたの機会に報告したい。アフガン難民への援助の成功とは別の話だから。
 管理人さんがイスラマバードを発ち、私たちはヤセールさんのいなかであるアボッタバードへと移動した。私はヤセールさんの家が、新しいのに質素と言うよりはむしろ粗末なのに驚いた。ヤセールさんの説明はこうだった。自分は敷地内にアフガン難民25家族を住まわせている、自分たちの家だけが贅沢はできない、と。ペシャワールで配った食料の袋のうちの25袋は、こちらにも届くように手配されていた。
 アボッタバードにいる間にも、ヤセールさんはイスラールル・ハック氏と連絡を取り合っていた。「お前、ちゃんとやってるのか?」といった電話だろう。そして、私たちがパキスタンを発つ23日、イスラールル・ハック氏はイスラマバードに戻ってきていた私たちのところを訪ねてきた。そして私たちに弁済の詳細を報告した。私はイスラールル・ハック氏に言った。「アッラーはあなたに大きな機会をくださいました。その機会を生かしてください。あなたは頭が良いから、私の言うことがわかると思います。あなたのためにも祈っています。」――シャムスルハック氏はついに姿を現さなかった。私はイスラールル・ハック氏から、シャムスルハック氏が管理人さんに宛てた手紙を預かった。

付記 
 シャムスルハック氏らが私たちをだましたことがわかった時、私は激怒した。しかし、少し時間が経ってみると、自分がそういうことをしでかしてもおかしくは無いことに気付き、ぞっとした。「アッラーよ、私をあのようなムナーフィク(偽信者)にするくらいならば、その前に私の心臓を止めてください。罪を犯した者にはタウバ(悔悟)の機会が与えられ、罪を犯したものがその機会を十分生かせますように。」私はパキスタンでそうドゥアー(祈願)した。今もする。でも、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」だなあ、と反省しなければならない日々である。