イスラーム神学綱要
2009/3/22 うんむらふま
[はじめに]
 シャイフ・イマーム・フッジャトル・イスラーム・アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザーリー(神よ、その御霊を浄め給え)は以下のように述べる―
神に称えあれ。神こそはその最良の僕のなかから、真理を愛好する正統派の人々(ahl al-sunnah)を選び出し、他の人々と区別して、彼らに特別の恩寵と慈悲を垂れ給い、神の導きの光を注ぎ、それによって彼らに宗教の真実を明らかにし、彼らの口を通して宗教の証しを語らせ、それによって不信仰者の誤謬を抑止し、彼らの内奥をサタンの囁きから浄め、彼らの心が逸脱者たちの誘惑で汚されることのないように、彼らの魂に確信の火を点し給う。それによって彼らは、神の預言者にして真実の友、使徒たちの主ムハンマド(彼とその家族すべてに神の祝福あれ)の口に神が下し給うた啓示の秘密に導かれ、聖法の義務と理性の要請との調和の中に真理を明かす道を知り、啓示された法と、理性が明かす真理のあいだに矛盾のないことを悟る。また、タクリードにとどまり、外的意味(zawahir)に忠実に従わなければならないと考えるハシュウィー派の立場は、理性の弱さと洞察力の不足に起因するにすぎないことを、彼らは知っているのである。他方では、極端に理性に依りかかり、その結果聖法の確定的な規範と対立する哲学者や極端なムータジラ派の立場は、邪まな心にのみ起因することを彼らは知っているのである。前者は[理性の]過少に傾き、後者はその過多に傾いているが、いずれも熟慮と慎重さに欠けるものである。信条において絶対必要なことは、中庸を離れず、真直ぐな道を正しく歩むことである。ものごとの中道を外れた両極端は非難すべきことである。
 では、[使徒や教友たちからの]伝承に隷従することに満足し、探求や議論の方法を否する者に対する導きはいかにして得られるのか。聖法(shar)を支えるものは人類の長[ムハンマド]の言葉だけである、ということが知られていないだろうか。理性による証明は、使徒の伝えることが真実であることを知らしめるものである。理性だけに従って満足し、聖法の光に照明を求めず、深く反省することもない人がどうして正しく導かれうるであろうか。理性には弱さと限界があるのに、どうしてそれにのみ助けを求めるのだろうか、知りたいものだ。そのような人は、理性の誤りは確かに少ないが、その活用範囲は狭く、限定されていることを知らないのだろうか。いや、いや、彼は確実に失敗している。理性と聖法を結び合わせ、このような別々のものを調和させない者は、誤謬の尾に躓いているのである。理性は障害や病気のない健全な肉眼のようなものであり、聖典コーランはあまねく照らす太陽のようなものである。
 真先に導きを求めるべき人とは、大勢の愚者のなかでも、理性とコーランのいずれか一方に満足して他方を無視する者である。コーランの光に満足して理性を退ける者は、目を閉じて太陽の光に向かう人のようなものである。そのような人は盲人と同じである。理性は、聖法をともなって初めて光を増すことになる。特に、両者の一方を欠いて片目でものを見る者は、迷妄の綱にぶら下がるようなものである。
 正統派の基本的信条―これから鋭利な論証によって、その真実性を証明するのであるが―について知ろうと望む者よ。君はやがて、この正統派の人々を除いていかなる集団も、聖法[理性による]証明の調和に成功した、と言えないことが明らかになるであろう。そこで、君が正統派の人々の足跡に従い、彼らの秩序ある歩みに加わって、その仲間に君が入り、彼らと君が交わっていることに対して、至高なる神に感謝せよ。おそらく君は、復活の日に彼らとともに蘇ることであろう。
 至高なる神がわれわれの内奥を誤謬の汚れから浄め、それを真理の光で溢れさせ、誤りはわれわれの口を閉ざして語らないようにし、真実と知恵のみを語らしめるように、私は祈ります。神こそ、寛大にして惜しみなく恩寵を与え給うお方、あまねく慈悲を垂れ給うお方である。
 われわれはまず、本書の標題、序論、章、節の区分についての説明から始めよう。本書の標題は「信条における中道」(al-iqtisad fil-itiqad)である。その構成については、まず四つの章が含まれ、それが序論となり、次に本論が四部に分かれる。
序論
第1章 宗教における神学の重要性
第2章 神学はムスリム[イスラーム教徒]全部に重要なのではなく、そのなかの特殊な人々にのみ重要であること
第3章 神学は集団的義務であって、個人的義務ではない
第4章 本書で用いる論証の方法
本論となる部分は四つに分かれる。その全体が至高なる神についての考察に限定される。われわれが世界について議論する場合、それは世界を世界として[つまり]物体、天や地としてではなく、神が造り給うたものとしてである。
 また、われわれが彼の言葉について議論する場合、それは単に言葉として、対話・教えとしてではなく、彼を介しての至高なる神からの教示(tarif)としてである。神以外のものについての議論はなく、求めるものは神のみである。この学問の内容は、その領域としては神の本質、神の属性、神の行為、神の使徒[ムハンマド](その上に神の祝福と平安あれ)、および彼の口を通してわれわれに伝えられた神の啓示に限定される。
 そこで本論は四部に分かれる。
第一部 至高なる神の本質についての議論
そこでわれわれは、神の存在、神が永遠の過去から存在し(qadim)、永遠に存続する(baqin)こと、神は実体(jawhar)ではなく、物体(jism)でもなく、偶有(arad)でもないこと、また限界(hadd)をもって定めることができず、方向によって特定できないこと、神は知られると同時に見られること、そして一であることを明らかにする。至高なる神の意志ならば、以上が第一部でわれわれが明らかにする10の命題である。
第二部 神の属性について 
そこでは、神は生きており(hayy)、全知者(alim)であり、意志する者(murid)であり、聞く者(sami)、見る者(basir)、話者(mutakallim)であること、神には生命、知識、力、意志、聞くこと、見ること、言葉があることをわれわれは明らかにする。また、これらの属性(sifat)、およびそれらの特性(lawa-zim)についての判断、それらについての異なった意見や一致した意見について述べ、さらにこれらの属性は本質(dhat)に付加された(zaidah)ものであり、本質に内在して永遠であること、いずれの属性も生成するもの(hadith)ではないことを明らかにする。
第三部 至高なる神の行為について
これは七つの命題より成る。すなわち、神には[人間への]義務賦課(taklif)の義務[必然性]、創造の義務は一切なく、また義務履行に対応する報奨(thawab)、人間の福利への配慮の義務もない。神には能力以上の義務を[人間に]課すことも不可能ではなく、また罪を罰する義務もなく、預言者の派遣は不可能なことではなく、それは可能的なことである。この[第三]部の序では、義務(wajib)、善(hasan)、悪(qabih)の意味が明らかにされる。
第四部 神の使徒たちと使徒[ムハンマド](その上に神の祝福と平安あれ)の口を通して伝えられた終末と復活、天国と地獄、執り成し(shafaah)、墓中の罰、秤、橋について。
これには四章が設けられる。
(ア) われらが主ムハンマド(その上に神の祝福と平安あれ)の預言者性について
(イ) 使徒の口を通して伝えられた来世に関する事柄
(ウ) イマーム[カリフ]とその条件
(エ) 異端諸派に対するタクフィールの基準

序章
第一章この学問に携わることは宗教にとって重要であること
知るがよい。重要でもないことに関心を向け、なくてもよいことに時間を費やすことは、誤謬の最たるもの、迷妄の極みである。関心を向ける対象が学問であれ実践であれ、同じである。われわれは無益な学問からの救いを神に求める。
すべての人間にとって最も大切なことは、永遠の幸福を獲得し、永遠的な不幸を避けることである。すでに預言者たちが遣わされ、人々に伝えていることであるが、至高なる神は人間に対して権利(huquq)をもち、人間はその行為、言葉、信条において義務をもっており、真実を口にしなかった者、心に真理をもたない者、その身体を実践で飾らなかった者の行く末は地獄であり、行き着く先は破滅である。
さらに、預言者たちは啓示を伝達しただけではなく、[自然の]慣行を破り、人間の力の及ばない不思議な事柄や行為によって自己の真実性を証明したのである。それらを目撃したり、あるいは確実な伝承(al-akhbar al-mutawatirah)によって伝えられたその状況について聞いた者は、預言者たちの真実性が可能であることを理性の判断でただちに知るのである。いや、このことは、奇跡(mujizat)と単なる不思議な出来事との区別について論議を費やさなくても、耳にするだけで確かだと思ってしまうものである。
このようなことは直観的に想像され、あるいは可能であることが不可避的に想定される。それが心の平安を奪い、心を[不吉な]予感と恐怖で満たし、探求と思索に駆り立て、心の平静と落ち着きを奪い、無思慮と安逸の生活に警告を与え、死がかならずやって来ること、死後のことは人々の思量の及ばないこと、これら預言者たちが伝えることは可能な範囲のものであることが心の中に定まる。そこで賢明なことは、ためらわずにこのような事柄の真実を明らかにしようとすることである。その言葉が真実であることが明らかになる前では、預言者たちはたとえ不思議なことを行っても、その真実性の点では、われわれが自分の憩いの場所から出たとき、「一頭の猛獣がその家に入ったので用心をし、気をつけよ」と言う一人の人間と同じである。われわれはそれを聞いただけで、その人の伝えたことが可能なことだと考えれば、あえて[家の中に]入ろうとはしないし、用心に用心を重ねる。
死とは、永遠の住まいであることに間違いはない。だとすれば、その後に来ることに対しても用心することがどうして重要でないだろうか。そこで最も重要なことは、一見して理性的に可能とわかるその人の言葉を調べ、よくよく探求してみて、それがそれ自体で不可能なことなのか、それとも疑問の余地のない真理であるのかを明らかにあることである。
その人[預言者]の主張には次のようなことがある。君たちは義務を賦課する主があり、それを放棄した者を罰し、実行した者には報奨を与える。主は君たちにそのことを明らかにするために、自分を使徒として君たちに遣わしたのである、と。そこでわれわれに確実に必要なことは、われわれに主があるのか否かを知ることである。もしあるとすれば、主は命令したり禁止したりして語りかけるお方であり、[義務を]賦課し、使徒たちを遣わすことが可能なのか。またもし[そのような]話者であれば、われわれが主に背いたり、あるいは服従したりしたとき、主は罰を与えたり、報奨を与えたりできるのか。もしできるとすれば、この人が「私は君たちに遣わされた使徒である」と言うとき、それは真実であるのか。
もしこれらのことが明らかになれば、そしてわれわれに分別があれば、われわれに確実に必要なことは、警告を受け入れ、自己を振り返り、永遠の来世に比してやがて滅びゆくこの世を軽視することである。理性ある者(aqil)とは、結果を見透し、当面のことに惑わされない人のことである。
この学問の目的は、われわれが目次に関して詳しく述べたように、至高なる存在、その属性と行為、使徒の真実性について証明することである。すべてこれらは、理性ある人には避けることのできない重要事である。人は次のように尋ねるかもしれない。私は[そのような]探求をしようという欲求が自分自身の中に湧き起こってくることを否定するものではないが、それが人間の本性の結果であるのか、それとも理性の要請であるのか、あるいは聖法の要請によるものであるのか、わからない。というのは、義務性の根拠について、人々のあいだでいろいろな議論がなされているからである、と。これについては、人は本書の最後の部分で、われわれが義務性の根拠について述べる際に知ることができるであろう。今、それについて議論することは無用である。むしろ、欲求が起こったからには、救われる方法を探究する以外に道はない。そのような[無用な]ことに関わり合う人を譬えれば、蛇か蠍に噛まれ、それが再び噛みつこうとしているとき、そこから逃げることができるのに、そこに立ち止まってその蛇が右側から来たのか、左側から来たのか知ろうとしている人のようなものである。これこそ、愚かで無知な人のすることである。神よ、無用のことにわれわれが関わり合い、重要なことや基本的なことを失ってしまうことのないようになし給え。
第一章この学問に携わることは重要であるが、それはある人にとっては重要ではなく、関与しないことのほうが重要である
知るがよい。この学問についてわれわれが提示する証明は、心の病を癒す薬のようなものである。それを用いる医師が有能であり、透徹した理性の持ち主であり、真摯な考えの人でなければ、その薬によって病を癒すよりも、それを悪化させるほうが多いであろう。そこで、本書の内容を理解し、これらの知識を利用しようとする者は、人間は四つの種類に分けられることを知るがよい。
(一)神を信じ、その使徒を真実とし、神を真理と信じ、それを心に抱き、常に神への奉仕に、あるいは仕事に従事している人。こういう人たちは、彼らが現在いる状態のままにしておくことが必要であり、このような学問を究めるように煽動して、その信仰をかき乱してはならない。まことに、立法者[ムハンマド](その上に神の祝福あれ)は、アラブ遊牧民への説教では、[教えを]受け入れること以上のことを求めず、それが単なる信仰や盲従によるものか、あるいは証明の上に立った確信によるものかを区別しなかったのである。このことは、かつて粗野な遊牧民たちのうち、探求や証明によってではなく、彼らの心に浮かんだ周囲の状況判断や想像によって真理に服し、真実なることに従うようになった人たちの信仰を正しいとした、預言者の状況から必然的に知られることである。このような人たちは真に信仰者である。彼らの信条を混乱させてはならない。もし彼らに、これらについての証明や、そこに潜む困難な問題とその解決方法を読み聞かせてやれば、かならず困難な事柄が彼らの頭に取りつき、彼らを支配し、しかも彼らに述べられた解決方法でそれらを解消することができないのである。このような事情から、教友たちについて、彼らが探求や教導や著述によって、このような問題に関わり合ったという伝承は何もないのである。彼らが関心をもっていたのは[神への]奉仕であり、その勤めであり、人々を救いへと導くことであり、彼らの状態、行為、生活での福利へと彼らを導くことだけであった。
(二)正しい信条から逸脱した不信仰者や異端者たち。このような人々のなかでも粗野で無学の者、知性が弱く、教えられたことに従うだけの人で、生まれてから成人するまで誤謬に慣れきっている者―こういう人には鞭と剣だけが有効である。そしてたいていの不信仰者は剣による威嚇でよく改宗したものである。なぜなら、神は証明によってできないことを剣と槍でなし給うからである。このことから、記録された伝承を詳しく調べてみれば、ムスリムと不信仰者のあいだに殺戮があると、かならず誤謬の徒の一団が帰依したということが明らかになるし、また論争や議論の集まりがあれば、かならず自己主張と頑固さが増加していることが明らかになる。しかし、われわれが述べたこのようなことは、理性やそれによる証明の価値を低くするのだと考えてはならない。理性の光は、神がその個々の聖者(awliya)にのみ特に与えた恩寵(karamah)である。一般の人々を支配しているのは、欠陥と無知である。彼らはその欠陥ゆえに、理性の証明を確認できないでいる。それはあたかも、コウモリの目が太陽の光を知覚できないのと同じである。このような人々は、ヒジリコガネが薔薇の香にやられるのと同様、知識にやられて被害を受けるのである。この点について、シャーフィイーは次のように言っている―愚者に知識を与える者はそれを捨てるようなものである。それに値する者にそれを拒む者は不正をなす。
(三)真理について聞き、それに何の疑念もなく信従している人であるが、知性と聡明さを生得的にもっていて、しかも自ら困難な問題に目覚め、それによって信じていることに疑問を覚え、心の安らぎが失われたり、あるいは懐疑的な言辞を耳にして、それに心を悩ましている人々。このような人々に対しては、彼らの安らぎを回復し、疑念を払拭するための取り扱いにおいて、親切でなければならない。それには、誤りや不正を指摘するだけであっても、またコーランやハディースを読んでやる場合であっても、あるいはその人徳によって人々のあいだで名の知れた人の言葉を伝えるにせよ、かれらが受け入れて満足するような言葉をもってしなければならない。もしこの程度のことで疑念が除かれるなら、弁証の手続きに従って構成された論証を口にしてはいけない。なぜなら、そのようなことをすれば、かえって新たな困難な問題に門を開くことになるからである。だが、もし彼が聡明で知的であれば、証明の基準に耐えるような言葉にしか満足しないであろう。その場合には、真の証明を伝えることができる。ただそれも、必要な限度内で、しかも特に困難な問題についてのみなされなければならない。
(四)誤謬の徒であるが、そこには知性と聡明さが認められ、その信条について生じた疑問、あるいは本性的に懐疑を受け入れるような心の柔軟さから判断して、真理を受け入れることが期待できる人。このような人々を真理に誘い、正しい信条に導くには、親切であらねばならず、論争や党派意識を剥き出しにしてはいけない。なぜなら、そのようなことをすれば、それはただ誤った主張をよりいっそう強固にし、頑迷さと自己主張の衝動をかき立てるだけだからである。一般の人々の心の中に根を降ろした愚かな事柄の大部分は、ただ正統派の人々のなかの無知な者たちの党派意識にのみよるものである。それは彼らが挑発的かつ高慢な態度で真理を明示し、弱い対者を軽蔑の目で見るからであり、その結果、相手の心に反抗と対立の衝動をかき立て、その心に誤った信条が根を降ろしてしまうからである。このようにして誤謬が露わになると、親切な学者でもそれを除去することは困難となり、集団への党派意識からついには、一生口にしたことがないのに、たった今語った言葉が永遠の昔からあったかのように信じるまでになる。欲望による頑迷さと党派意識を通してのサタンの支配がなければ、理性ある人の心は言うまでもなく、狂人の心さえ、このような信仰が取りつくことはないであろう。論争と頑迷さは癒しようのない純粋な病気である。そうであれば、信心深い者は、可能な限りそれに注意し、妬みや怨みを捨て、神の被造物のすべてを自愛の目で見、この共同体の中に迷える者を導くにあたって友愛と親切を旨とし、迷える者の迷いの原因となった問題点に注意すべきである。頑迷と党派意識によって自説を押しつける者は、異端説への固執を助ける者であり、復活のときにその助長の責任を取らねばならないことを自覚するがよい。

第三章この学問に従事することは集団的義務である
 知るがよい。この学問に傾注し、そのすべての分野に関わりをもつことは、個人的義務ではなく、集団的義務である。それが個人的義務ではないということについては、すでに第二章の説明で君には明らかである。そこで自明のことであるが、すべての人に義務とされていることは、ただ揺るぎなき信仰であり、信仰における迷いや懐疑を心から払拭することである。疑念に襲われた者にとってだけ、それを除去することが個人的義務となるのである。問い―大多数の人々にとってそれは有害であり、無益であると君は言っているのに、どうしてそれが集団的義務となるのか。答え―知るがよい。前述のように、基本的信条に対する疑念を払拭することは義務であり、しかも疑念に襲われることは、たとえ少数の人にしか起こらないにしても、不可能ではない。したがって、謬説に固執し、しかも証明を理解する知性に恵まれている人に対して、証明によって真理に導くことは宗教において重要なことである。異端の徒が興り、いかがわしい説を注入することによって正統派の人々を惑わすことに努めることはありえないことではない。その場合には、[真理を]明らかにして邪説に抵抗し、彼の誘惑を悪としてそれに立ち向かう人が不可欠である。そして、それが可能なのは、この学問によってのみである。どの地方もこの種の出来事から免れえず、どのような地方や地域においても、真理を保持し、この学問に従事する者が異端の宣伝者に立ち向かい、真理から離れた者を導き、正統派の人々の心が邪説に汚染されることのないようにする人がいなければならないのである。仮にそのような人をある地方が欠くとすれば、その住民はすべてそのことで困窮する。それは、医師や聖法学者を欠くのと同じである。確かに、自ら聖法学(fiqh)、あるいは神学(kalam)の勉学に親しんでいる人がいて、ある地方にその両者に堪能な人が欠けている場合、しかも両者を同時に兼務することができるような時代ではないとして、両学問のいずれに従事すべきかの選択を求められたとき、われわれは彼が聖法学に従事することを彼の義務とするであろう。なぜなら、それに対する需要はより一般的であり、そこで扱われる現実の問題はより多いからである。昼夜を分かたず、人は聖法学に助けを求めないではいられない。これに比べれば、神学を必要とするような懐疑に陥ることは稀である。同様に、ある町に医師も聖法学者もいない場合、聖法学に従事するほうがより重要である。なぜなら、それを必要とすることにおいては、民衆は皆共通しているからである。ところが、医学については、健康人はそれを必要とせず、健康人に比べれば病者の数は少ないのに対して、病者でも聖法学が不要になることはないからである。同様に、病者は医学を不要としえないが、彼が医学を必要とするのは限りあるこの世のためであり、聖法学を必要とするのは、永続的な来世のためである。両世界の差異のなんと大きいことか。医学の成果を聖法学のそれに比較してみれば、成果を生むもの[医学と聖法学]の違いは、成果そのものの違いであることを知り、それによって、聖法学は諸学のなかで最も重要な学問であることがわかる。その理由は、教友たちがお互いに相談したり話し合ったりして、この学問の探求に従事したことにある。それゆえ、神学という学問を誇大視する人たちが大袈裟に言い触らすように、神学が根幹であり、聖法学はその枝葉にすぎないという言い方に惑わされてはならない。確かに、それ[神学]は真実の言葉ではあるが、それはこの[通常の]段階では有用ではないからである。というのは、根幹を成すのは正しい信条(itiqad)[そのもの]であり、確かな信仰[そのもの]だからであり、これはタクリードによって生まれるものであり、証明や精妙な論証術を必要とすることは稀だかである。医師もときに同様の詭弁を弄し、こう言うことがある。「君の存在、君の寛大さも、君の肉体の存在も、私の技術に懸かっており、君の生命も私次第である。生命と健康が第一であり、宗教に関わるのはその次である」と。だが、このような言葉の背後にある欺瞞は見えすいている。それについては、すでに論じた通りである。

























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