イスラーム神学綱要
2009/3/31 うんむらふま
イスラーム神学綱要
p459:
問い―もし神が「上」の方に特定されないとすれば、いったい法的に、また自然的に、祈りのときに顔や手を上に向けるのはなぜか。また、預言者が解放してやろうと思って、信仰を確認するために、「神はどこにおられるか」と女奴隷に尋ねたとき、彼女が天を指すと、預言者は彼女は信者である、としたのはなぜか。
答え―前者については、それは、次のように言う人の言葉と同じである。もし神がカーバ神殿におられないならば[それが神の家でありながら]、われわれがそこに巡礼し、訪問するのはなぜか。また、礼拝において、その方向をキブラ[礼拝の際に向かう方向]とするのはなぜか。もし神が地上におられないのなら、礼拝のときわれわれが身を低くし、顔を地面につけるのはなぜか。こう答えることができよう。礼拝のとき、カーバの方を向いてお勤めをするようにとの聖法の意図は、一つの方向に固定しようという必然的要請だということである。なぜなら、そのほうが方向を求めてあちこち迷うよりも、恭順と精神の集中により効果的だからである。次に、どの方向に向かおうと、その可能性の点では皆同じであるために、至高なる神は特定の一地点を選んで、それに高貴さと偉大さを与え、自己と関係づけてそれを高貴なものとし、神への敬意から心をそこに引きつけ、そのように心を向けることに報奨を与えようというのである。[神の]館が礼拝の方向であるように、天が祈りの方向であるのも同様である。だが、礼拝によって崇拝され、祈りが向けられるお方[神]は館や天に局在されることをはるかに超越しておられる。祈りにおいて天の方を向くことの中には、霊妙な秘密があり、それに類することに気づいている人は、それを高く評価する。それは来世における人間の救いと勝利は、神に対して己れを低くし、主の栄光を確認することによるということである。
[己れを]低くし、主の栄光を称えることは心(qalb)の行為である。その道具が理性であり、肢体は心を浄め、浄化するために利用されるものにすぎない。そもそも心は、持続的に肢体を動かすことから影響を受けるように造られているが、肢体も心の信念によって影響を受けるように造られている。もし自らの理性と心とで己れを低くすることが目的であれば、まず己れを知ること、それには至高なる神の偉大さと至高性に比して、存在における己れの卑小さを知ることである。謙虚さを必然的に生み出す己れの卑しさを証明する最大のものは、自分が土から造られたということであれば、最も卑しいものである土に、体の最も大切な部分である頭をつけることである。そうすれば、心は地面に額をつける行為によって卑下を感じ、体は一個の肉体としての大きさや形において、可能な限りの恭順となる。それは、卑しい低級な土に接することである。また、理性はそれにふさわしい仕方で、その主に己れを低くする。それは他の被造物を見渡したときの[己れの]卑しさ、価値のなさ、地位の低劣さである。
同様に、至高なる神の偉大さを称えることは心の義務であり、そこにその救いがある。そしてまた、肢体にとっても、可能な限りそうすることが義務である。心による[神の]称讃は、知識と信仰(itiqad)における[神の]地位の高さに思いを致すことによってなされ、肢体による[神の]称讃は、方向のなかでも最も高い所であり、また信条において最も高い所を表示することによってなされる。肢体による称讃の極は、方向の表示でされる。日常の会話の中でも、ある人の地位の高さとその権力の大きさを明白に表わすときに、彼の権威は第七天にある、という言い方をする。しかし、その場合、人はただ地位の高さに言及しているのであり、そのために人は場所の高さを借用しているのである。その権威を称えたいと思う人をそうする場合、しばしば頭で天を指すことがある。彼の権威は天にある、つまり高くあるということで、天は高さの表現なのである。
聖法が人間の心と肢体について、至高なる神を称えるようにそれらを導くうえで、いかに行き届いたものであったか、また心眼に欠け、肢体や物体の外側だけしか見ず、心の秘密の事柄に気づかず、[神の]称讃のためには心はなんら方向の特定を必要としないことを忘れている者のなんと愚かであることか。そして彼は、大事なことは肢体によって示されるものであると考え、まず思慮すべきことは心による神の称讃であり、[神の]地位の高さの信念にもとづく称讃であって、場所が高いことの信念によるものではないこと、その際肢体は、心が行う称讃に可能な限り同調して仕える従者であり、それに可能なことは、ただ方向を示すことだということを知らないのである。ところが、これこそが、神を称えようとする際に顔を天に向けることの秘密なのである。祈り(dua)に際しては、別の要素が加わる。それは、祈りは至高なる神の恩恵を求めることと不可分であり、神の恵みの貯蔵庫は天であり、その監視人が天使であり、彼らの居場所が天の天国(malakut al-samawat)であり、彼らが恩恵の執行人(al-muwakkaluna)だということである。すでに至高なる神は言っておられる、「天にこそ汝らの糧も、汝らに約束されたものもある」[51:22]と。人は本性的に、求める恵みがある貯蔵庫の方に顔を向けるものである。王たちから恵みを求める人びとは、蔵の入口で恵みが分配されると告げられると、彼らの顔と心は、たとえ王がその蔵にいると信じていなくても、蔵の方に向く。以上が、信心者の顔を天に向けさせる、自然的かつ聖法的な理由である。ところで民衆は、彼らの崇拝の対象(mabud)は天にあると信じているようであり、これが彼らが天を指す理由の一つである。主のなかの主よ、誤れる人たちの信念をはるかに超え給わんことを。女奴隷に対して信仰を認めたのは、彼女が天を示したとき、それによって信仰もまた明かされたからである。なぜなら、もの言えぬ者が[神の]地位の高さを理解させる方法としては、高い方向を指す以外にないことが明らかだからである。前述のように、彼女は口が利けず、伝えられるところでは、偶像崇拝者であり、その神々は偶像の家にいると信じられていたという。ところが、その信念を語るように求められると、天を指して、彼女の崇拝するものは、これらの人々が考えたように、偶像の家にはないことを教えたのである。
p472:
第一[の方法]として、至高なる創造主は存在者(muwjud)であり、本質(dhat)であり、それには恒常性(thubut)と真実性(haqiqah)がある、とわれわれは言う。それが他の存在者と異なるのは、ただそれが生成するものであったり、生成性を示すような性質を[彼に]帰したり、全知・全能その他の神性の属性に矛盾する属性を帰すことが不可能だということだけである。存在するものに妥当することは、生成性を示すもの、[神の]いずれかの属性に矛盾するものを除いて、すべて神に対しても妥当する。そのことを示すのが、知と神の関係である。というのは、それは神の本質の中に変化を生むことはなく、またその属性に矛盾することもなく、また生成性を示すこともないとき、知が[神の]本質とその諸属性に関する可能性は、神と物体や偶有とのあいだの関係の可能性と何の違いもないからである。見ることは一種の知であり、見られるものに知が関係することには、属性の変化を必然的にするものはないし、またそれが生成性を示すこともない。すべて存在するものは見られる、との判断が必然的に定立する。
問い―神は見られるということは、神は特定の方向を必然的にとるということであり、特定の方向をとるということは、神が偶有であるか実体であるかであるが、それは不可能である。推論の形式としては、もし神が見られるなら、神は見る者の方向にある、となる。この帰結は不可能である。したがって、見ることを肯定する命題は不可能である。
答え―われわれが問いたいのは、なぜ君たちはそのことを直観的に(bil-darurah)知るのか、それとも論証(nazar)によって知るのか。直観的に知ると言うことはできない。そこで論証によると言うことになるが、それには証明がなければならない。彼らがせいぜい言えることは、今に至るまで見る者の方向に限定されたものしか見たことがない、ということである。そこで彼らに言うべきことは、今まで見たこともないものに対して、その[存在は]不可能であるとの判断を下すことはできない、ということである。もしそのような判断が可能なら、唯物論者(jismi)のように、至高なる神は物体である、と言うことも可能となる。なぜなら、神は行為者(fail)であるが、われわれはこれまで物体以外の行為者を見たことがないからである。あるいは、次のように言うこともできよう。もし神が行為者でかつ存在するものであれば、神は世界の内か、外か、またそれと結合しているか、分離しているかであり、しかも六つの方向から自由ではありえない。なぜなら、存在すると知られているもので、そうでないものはないからだ、と。こうして、君たちとこのような人々のあいだに優劣はないことになる。
要するに、問題は、見たり知られたりしているものと同様にしか、それ以外のものは知りえない、との判断に帰着するのである。それは、物体は知っていても、偶有[の存在]を否定して、もしそれが存在するなら、それは物体のように特定の空間を占めることになるとして、物体以外のものの存在を不可能とすることである。ここから、存在するものについて、一般的な事柄については相違を認めないということになるのである。これはまったく根拠のない恣意的判断である。もっとも、彼らは、至高なる神は自己を見、世界を見るが、その場合神は自己に対峙し、また世界に対面しているわけではない、ということを自分たちが否定していることに気づいていないわけではない。もし[神について]このようなことが可能であるなら、[彼らの]そのような妄想は不当であったことになる。これは、大部分のムータジラ派の人々が考えていることであり、そのように考えている人には救いはない。彼らのうちそのように考えない者は、人が自分自身と向き合うことはないということは知られていても、人が自分の姿を鏡の中に見ることを否定できない。
p475:
対者が見神を否定するのは、ただわれわれが言う「見神」の意味を理解せず、その意味を真に了解していないで、それをわれわれが物体や色を見るときの状態と同じものだと考えているからである。とんでもないことである。至高なる神について、そのようなことは不可能であることを、われわれは認めている。そこでわれわれは、この語の意味を、その合意の得られた用例から取り出すようにしなければならない。われわれは用例を集め、至高なる神について不可能なものをそれから除かねばならない。そして、それらの意味の中から至高なる神について不可能でないものが残り、それを「真の見神」(ruyah haqiqah)と呼ぶことができるなら、至高なる神について、その意味を確定したことになり、われわれは神を真に見ることができる、との判断を下すのである。もし見神の語が、神に適用されうるのはただ比喩としてであっても、われわれは聖法の認めるところに従って、この語を神に用い、理性が示す通りの意味を信じるのである。要するに、見ることは、ある現象(mana)を表し、それには目という場所があり、色、大きさ、物体、その他に見える付属物がある。そこでその意味の本質、その場所、その付属物を考えてみよう。この語の適用にあたって、それら全体の基本となるものは何であろうか。
まず、場所である。これは、この呼称が正しく成立するための基本ではない。われわれが目で見る対象から受けるのと同じ状態が、たとえば、もし心によって、あるいは方向において起るならば、「われわれはあるものを見た、目にした」と言っても、その言葉は正しい。なぜなら、目は場所であり、道具であり、それ自体のために求められることなく、ただこの状態が内在するためである。したがって、その状態が現れれば、真実は完成し、その用語が正当なものとなる。こうしてわれわれは、もし心によってであれ脳によってであれ、あることを知覚するとき、「われわれは心で知った」、あるいは「頭で知った」と言うことができるのである。同じことが、心で見る、あるいは方向において見る、あるいは目で見る場合についても言える。
目の付属物について。それはこの語を用いるに際して、またこの本を確定するに際して、要件とはならない。なぜなら、もし見神が黒色との関係の中での見ることであるならば、白色と結びつくものは見ることではなくなるからである。もし色との関係によるものであれば、運動と関連するものは見ることではなくなるであろう。こうして、この事実が存在し、この語が適用されるためには、それと関係するものどもの特性が要件ではないことが示された。むしろ、それに関わる性質としてのその要件は、いかなる存在、いかなる本質(dhat)であれ、それには関係するあるものが存在するということである。そこで、その語が正当に適用される基本条件は、第三のものということになる。それは、場所や関係とは関わりのない本質的意味のことである。次に、その意味とは何であるかを考察しよう。見ることの本質は、一種の知覚(idrak)にほかならない。それは完成(kamal)であり、表象する者(mutakhayyil)に対する開示の増大である。たとえば、ある友人を見ているとしよう。次に目を閉じる。すると、友人の像が想像や表象によって脳裏に浮かぶ。しかし、目を開ければ、われわれは映像との違いに気がつく。だが、その違いは、想像の中にあったものとは異なる別の像の知覚によるものではない。むしろ、現実に見られる像は想像された像と一致するもので、そこに違いはない。両者のあいだに違いがあるとすれば、ただこの第二の状態は想像の状態の完成であり、それの開示のようなものだということである。こうして、われわれが目を開けると、友人の姿がより明瞭に、より完全な形でわれわれの中に現れるのである。目そのものの中に生じる形象は、想像の中に生じるものと一致する。こうして、想像はある段階の一種の知覚であり、その背後にさらに別の段階、つまり明瞭さと開示においてより完全な段階がある。むしろ、それは前の段階の完成のようなもので、この完成が想像との関係で「見ること」(ruyah)、「直視」(ibsar)と呼ばれるのである。われわれが知ってはいても、想像できない他のものについても同様である。それが至高なる神の本質や属性であり、また力、知、熱愛、見ること、想像のように形姿のないもの、つまり色や大きさのないものについても同様である。これらについては、われわれは知ってはいるが想像はできない。それについての知識は一種の知覚である。このような知覚には完成度の高まりがあり、それはあたかも想像と目撃の関係に見られるようなものである。そこでこのことが理性的に可能か否かを考察しよう。もしそれが可能であれば、われわれはこの「開示」や「完成」を、知識との関連で「見ること」と呼ぼう。これは、われわれが想像との関連で、それを「見ること」と呼ぶのと同様である。明瞭さや開示におけるこのような完成を考えることは、知や力などのように、知られていても想像できない存在については、不可能ではないことが知られている。至高なる神の本質や属性についても同様である。いや、至高なる神の本質や属性、およびこれら知られるものすべての本質について、いっそうの明瞭さの増大を求めることを、われわれは本性的に、かつ必然的に知っているのである。そこでわれわれは、そのようなことは不可能ではない、と言う。なぜなら、それを不可能とするものは何もないし、理性はその可能性、いやむしろ人間の本性がそれを求めていることを証明している。ただ、この開示における完成は、この世で自由に与えられるものではない。心が肉体に縛られ、肉体の汚れた性質に染まっていては、そのような完成は妨げられている。瞼や覆いや暗黒の闇が[自然の]慣行として、想像の対象を直視するのを妨げる原因であることは、珍しいことではない。同様に、心の汚れや何重もの繋縛の覆いが、[自然の]慣行として知的対象の直視の妨げになるのである。墓の中のものが暴き出され、胸の内にあるものが露わになるとき、そのとき心が清い飲み物で浄められ、さまざまな浄化と純化によって浄められていれば、そのような原因によって、至高なる神の本質や他の知的対象について、完成と明瞭さの増大が起こることはありえなくはない。そして、それは、知の段階が想像から目撃へと上昇するように、上昇するのである。これを「至高なる神に会うこと」(liqa Allah)、「目撃」(mushahadah)、「見ること」(ruyah)、「直視」(ibsar)、その他好みの表現で表わすことができる。意味が明らかになれば、表現はどうでもよいことである。もしそのようなことが可能だとして、そのような状態が目の中に造られれば、言葉の用法から見て、「見ること」の用語はより真実なものであり、それを目の中に造ることは、心の中に造ることが不可能でないように、不可能ではないのである。真理に従う人々が「見神」という語に対してもつ意味が理解されれば、理性はそれを不可能とはせず、むしろ必然的とし、聖法もそのことを証明していることが知られている。こうして議論が残るとすれば、その理由はただ頑迷さによるか、「見ること」という表現についての争いか、あるいはわれわれが述べた、このような微妙な意味が理解できないことによるか、にほかならない。この要説の中では、この程度にとどめておこう。
第二の証明は、聖法による[見神の]可能性である。すでに聖法は、そのようなことが起こることを証明しており、その典拠は多い。それがあまりにも多いため、神[彼に栄光あれ]の尊顔を拝する喜びを求めて神に祈ることに対して、初期の人々のあいだにイジュマーがあったと主張することさえ可能である。そして、われわれが彼らの信条から明確に知ることは、彼らはそのことを期待していたということであり、また神の使徒(その上に神の祝福と平安あれ)の一連の行動から、それを神から期待し、それを求めることが可能であると理解していたのである。そのことを明白に示す無数の言葉や合意は、その典拠が無数にあることを示している。なかでも最も強力なものは、モーセ(その上に平安あれ)の言葉、「お姿を現して、私に拝謁させて下さい」[7:143]である。なぜなら、至高なる神がそのおのおのの預言者に隠れたままでいるということはありえないので、最終的には神「彼に栄光あれ」が直接彼に語りかけるまでになる。したがって、モーセが至高なる神の本質がもつ属性について、ムータジラ派が知っているようなことすら知らなかったというようなことは、当然ありえない、ということが知られているからである。対者によれば、見神は不可能ということに無知であることは、必然的に不信仰(takfir)や異端(tadlil)の判断を招く。それは、神の本質がもつ属性についての無知であるから、と。彼らにとって見神は、神の本質から見て、また神が方向に限定されないことから、不可能だからである。であれば、どうしてモーセ(その上に平安あれ)が、神は方向に限定されないことを知らないことがあろうか。また、方向に限定されないことを知っていて、方向に限定されないものを見ることは不可能であることを知らないことがあろうか。いったい対者は何を考えているのか、知りたいものだ。
モーセ(その上に平安あれ)の困惑から何を想像しているのか。また彼は神が方向をとり、色をもつ物体である、と信じていたとでも考えているのだろうか。預言者たちに対してそのような疑いをかけることは、明白な不信仰(kufr)である。なぜなら、それは預言者(その上に平安あれ)に不信仰を帰すことだからである。そもそも、神(彼に栄光あれ)は物体であると言う者は、偶像や太陽の崇拝者と同じである。あるいは、神は方向に限定されることは不可能であることを彼は知っていたが、方向をとらないものは見られない、ということを彼は知らなかったと言う者は、預言者(その上に平安あれ)に無知を帰しているのである。というのは、対者はそのようなことは自明のことに属するもので、論証的なものではないと信じているからである。そこで導きを求める者よ、君は今、預言者に無知を帰すか、ムータジラ派の方にそうするのかの選択を迫られているのである。君自身で、君の平安にとって、よりふさわしいものを選ぶがよい。
問い―この一節は君たち[の立場]を支持したとすれば、彼がこの世での見神を求めたことは君たちへの反証となろう。また至高なる神の言葉、「汝は私を見ることはできないだろう」[7:143]や神の言葉、「人の目では神を見ることはできない」[6:103]も君たちの反証となろう。
答え―この世での見神を彼が求めたことは、彼が、それ自体生起が可能なことの生起の時間について無知であったことを示す。預言者たち(彼らの上に平安あれ)はすべて、不可視界については教えられたこと―それはわずかであるが―しか知らないのである。預言者がどうして苦しみを晴らし、試練の除去を祈願することが不可能であろうか。彼は至高なる神の[永遠なる]知の中で、しかるべきときに、応答の得られることを期待しているのである。両者は異なる範疇に属するものではない。至高なる神の言葉、「汝は私を見ることはできないだろう」については、それは彼が求めたものを否定するものである。しかし、彼が求めたのは今の時点であって、来世においてではない。もし彼が、「来世でお姿を現し、私に拝謁させて下さい」と言って、「汝は私を見ることはできないだろう」と言われたのなら、それは見神の否定の証明となったであろう。しかし、それは、モーセ個人についてであって、一般的否定ではない。そして、これもまた見神の不可能なことの証明ではない。なぜか。それは、今の時点での祈願に対する応答だからである。至高なる神の言葉、「人間の目は神を見ることはできない」、つまり人間の目は、物体を見回すように、神を見たり、さまざまな面からそれを見回すことはできないということで、それは真実である。あるいは、それは一般的なことであり、神がそれによって意図した意味は、現世においてということで、それも真実である。それが、この世において「汝は私を見ることはできないだろう」との神(彼に栄光あれ)の言葉によって、彼が意図していたことである。見神の問題については、この程度にとどめておこう。そして、正しい立場の人は、いかにこれらの分派が分かれ、あるものは右に、あるものは左へといかに党派を組んだかを考えるべきである。ハシュウィー派は、方向において特定されない存在者を理解できず、[神に]方向を認めることになり、その結果必然的に彼らは、[神に]物体性、大きさ、生成するものの諸属性による限定を認めることになった。ムータジラ派は方向を否定する。そして方向のない見神を認めることはできなかった。こうして彼らは、聖法の明白な規定に反することになった。彼らは、見神を認めれば、方向性を認めることになると考えたからである。彼らは神の擬人化(tashbih)を警戒するあまり、その超越性(tanzih)に傾き、それを過度に強調するに至った。他方、ハシュウィー派は属性否定(tatil)を警戒するあまり、方向性を[神に]認め、擬人化を行ったのである。至高なる神は、正統派の人々(ahl al-sunnah)が真理を保持するのを助け、その結果彼らは中道を歩み、[神に]方向性が否定されることを知ったのである。というのは、それは物体性に従属し、それを補完するものだからである。また見ることは知の従者であり、その仲間であり、それの補完者である。物体性の否定は、その属性の一つである方向性の否定を必然的に帰結し、知の肯定はそれから帰結し、それを補完し、その特性を共有する見ることの肯定を必然的に帰結する。見ることは、見る対象自体に変化を必然的に生み出すものではなく、ただ知のように、見る対象にあるがままに関わることである。理性ある者には、これこそが信条における中道(al-iqtisad fil-itiqad)であることがわかるのである。
p481:
至高なる神は唯一であること、神が唯一であるということは、神そのものの肯定と神以外のものの否定ということに帰着する、とわれわれは主張する[第10命題]。それは、神の本質に付加された属性についての議論ではない。そこで、本章において、それについて述べることが必要となる。われわれは言う、一なる者(wahid)とは、分割を受け入れないこと、つまり大きさがなく、限界がなく、量がないことを意味する、と。至高なる創造主が唯一であるとは、それには大きさがないという意味であり、分割を正当化する大きさを神に否定することである。神が分割を受け入れないのは、分割は大きさをもつものにしか考えられないからである。分割とは、その大きさに対してそれを自由に区分したり、小さくしたりすることであり、大きさのないものにはその分割は考えられないのである。
また一なる者とは、ときにその地位において並ぶ者(sharik)のないことを意味する。あたかも太陽は一つである、とわれわれが言うように。至高なる創造主はそのような意味でも一なのである。なぜなら、神に並ぶ者はないからである。神には対立者(didd)がないことは明白である。対立者とは、一つの場所を占有する他のものの所に現れ、それと結合しないもののことである。場所をもたないものには対立するものはない。至高なる創造主は場所をもたず、したがって対立するものはないのである。神に並ぶ者はない、とのわれわれの主張の意味は、神以外のものを創造する者は神にほかならないということである。その証明は次の通り。仮に神に並ぶ者があるとすれば、それはあらゆる点で神と地位が等しいか、神より高いか、あるいは低いかのいずれかである。これらすべては不可能である。したがって、不可能を帰結するものは、それ自体不可能である。ところで、あらゆる点で神と等しいものの不可能な理由はこうである。すべて二つのものは互いに異なる。なぜなら、もし異ならなければ、二つであること自体が不合理だからである。われわれが二つの黒を考えることができるのは、二つの場所においてか、あるいは同一の場所でも異なる時間においてでしかない。こうして二つのものが互いに他と異なり、分けられ区別されるのは、場所においてであるか、時間においてである。二つのものが異なるのは、またあるときには、定義や本質の違いによる。たとえば、運動と色のように、もし二つのものが同時に同一の場所で結合しうるなら、それらは二つのものである。なぜなら、両者は互いに本質において他と異なるからである。もし二つのものが黒のように、本質や定義において等しいならば、両者を区別するものは場所にあるか、時間にあるかしかない。同一の時間に同一の場所で同じ二つの黒を考えることは不可能である。なぜなら、そこには二つであること(ithnayniyah)は考えられないからである。仮にそれらは二つであるが区別がつかないのだ、と言えるとすれば、一人の人間を指して、「彼は二人の人間である、いや10人の人間である。ただ彼らは属性、空間、あらゆる偶有、必然的性質においてまったく等しく、区別できないだけだ」と言うことが可能になる。だが、そのようなことは必然的に不可能である。至高なる神に並ぶ者が本質と属性において神に等しいならば、その存在は不可能である。なぜなら、それは場所において神と異なることはない。なぜなら、そのような場所がないからである。またそのような時間もないので、時間において異なることもない。両者は永遠であるから、両者を区別するものは何もないことになる。すべての区別がなくなれば、数も必然的になくなり、一が帰結する。一方が他方よりいっそう高貴であるがゆえに両者は異なる、とも言えない。なぜなら、最も高貴なものが神であり、神とは存在のなかで最も偉大で最も高貴なものの表現であるとすれば、想定される他方は不完全であり、神ではないことになる。われわれはただ、複数の神はありえないとしているのである。神とは、絶対的な言い方で、存在のなかで最も高貴で、最も偉大なものと言えるもののことである。もしそれよりも低いものであれば、それは神ではありえない。なぜなら、それは不完全だからである。われわれは神とは、存在のなかで最も偉大なものであるとしたが、最も偉大なものは一つでしかないのであり、それが神である。偉大なるものの属性において、二つのものが等しいということは考えられない。そうなれば、区別はなくなり、前述のように数はなくなるのである。
問い―神とは存在のなかで最も偉大なものを表すとすれば、神の名が適用される者の一性については、君たちと争うようなことはしないが、世界全体は唯一なる創造主が造ったものではなく、二者の創造主が造ったものであり、一方がたとえば、天を造り、他方が地を造る、あるいは一方が無生物を造り、他方が動物や植物を造ったと言う者を君たちはなぜ否定するのか。これを不可能とするものは何か。これを不可能とする証明がなければ、神の語はこれらには適用されないという君たちの主張は、君たちに何の役に立つのだろうか。なぜなら、この論者は神の語で創造主を表しているが、一方が善の創造主、他方が悪の創造主、あるいは一方が実体の創造主で、他方が偶有の創造主であると言っているのである。それが不可能であると言うのなら、証明が必要である。
答え―そのようなことが不可能な証明は、以下の通り。この質問者の判断に従って、被造物を二つの創造主に先のように分けたが、それらは二つの区分を越えない。それは、実体と偶有のすべてを二つに分けることを要請し、一方が物体と偶有の一部を造ることになるか、でなければ、すべての物体が一方から出、すべての偶有が他方から出ると言うかのいずれかである。さて、[第一に]物体の一部、たとえば、大地ではなくて天を一方が造ると言うのは誤りである。われわれは言う、天の創造主は大地をも造ることができるであろうか。もしその力によって造ることができるならば、一方はその力において他方と異ならず、したがってその力の対象においても他方と異ならない。そこで、一つの力の対象(maqdur)は力の所有者である者のあいだにあって、双方との関係において、一方が他方よりもいっそうふさわしいということはないことになる。こうして[対者の主張の]不可能なことは、われわれが述べたように、何の差異もない二つの等しいものが対立し合うという、不可能事の想定に帰着することになる。もしそれに対して力がないとなれば、それも不可能である。というのは、実体は互いに等しく、そして位置の特定であるそれらの存在の様態(akwan)も等しい。あることに力がある者は、それと等しいものに対しても力がある。彼の力は永遠であり、二つの力の対象に関わることができるのである。いずれの側の力も多くの物体や実体に関わることができるのであり、したがって一つの対象に限定されることはない。また生成した力と異なり、一つの力の対象を超えるとき、ある数が他のそれよりも、より適合するということはない。むしろ、その力の対象には終わりがないと判断すべきで、可能的存在であるすべての実体はその力の中に入るのである。
第二は、一方の創造主が実体をその力の対象とし、他方が偶有を対象とするということであった。両者は異なる。したがって、それらのいずれかに対する力から、他方に対する力が必然的に出てくるわけではない。[しかし]これも不可能である。なぜなら、偶有は実体を欠きえない。そこで両者のいずれかの行為は他方のそれに依存することになり、偶有の創造主が偶有の創造を意志したときに、実体を創造して彼を助けることはしないであろう。そうなれば、先の創造主は無力となって困惑する。無能者は能力者ではない。同様に、実体の創造主が実体の創造を意志しても、たぶん偶有の創造主は彼の意に沿わず、他の創造主に対して実体の創造を妨げるであろう。こうして相互に否定し合うのである。
問い―両創造主の一方が実体の創造を意志すればいつでも、他方が偶有を造って彼を助けるのである。その逆も同様である。
答え―このような支援は必然的なもので、それに反することは理性的に考えられないものなのか否か。もし君たちがそれを必然的とするならば、それは恣意的判断である。いや、それもまた力を無効にするのである。というのは、一方が実体を創造し、他方があたかも偶有を創造するように強制されたかのような場合、またその逆も同様であるが、他方には創造を止める力はないことになり、これによって力は生起していないことになる。要するに、支援の放棄がもし可能とすれば、創造の行為はすでに困難になっているのであり、力の意味はなくなっている。もし支援が必然的であるならば、支援されるものは強制されるものとなり、したがって彼には力はないことになる。
問い―創造主の一方が悪の創造主であり、他方が善の創造主である。
答え―これは愚かなことである。なぜなら、悪はそれ自体で悪なのではなく、それ自体では等しく善でもあるからである。一方に対する力は、それと等しいものに対する力でもある。なぜなら、ムスリムの体を火で焼くことは悪であるが、不信仰者の体を焼くことは善であり、悪を除くことである。一人の人間がイスラームの言葉を告白すると、その人を焼くことは悪となる。その人が信仰の言葉を告白しないとき、彼の肉体を火で焼くことのできる人は、それを告白したときも彼を焼くことができなければならない。なぜなら、彼がその言葉を口にしてもそれは消えていく音であり、肉体そのものや、火そのもの、燃焼そのものを変えることではなく、また種を変換することでもないからである。そこで、燃焼することになり、これが相互否定と相互対立を必然的にする。要するに、その問題をどのように考えようとも、そこからは混乱と誤謬しか出ない。それは至高なる神が次のような言葉で意図していたことである、「もしその[天地の]あいだにアッラー以外の神々があったならば、天地は崩壊したであろう」[21:22]。これ以上、コーランの説明を増やす必要はない。


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