ガザーリー
2009/1/29 うんむらふま
 はじめに
私は、ここに、尊敬すべきイスラーム・スンナ派の偉大な神学者であり思想家でもある“ガザーリー”について、いくつかの考察を試みながら、その実像に迫りたいと考える。

考察1:ガザーリーの歴史的背景―
ガザーリーは、その正式名をアブー・ハーミド・ムハンマド・アル・ガザーリー(abu Hamid Muhammad ibn Muhammad al-Tusi al-Ghazali)という。イスラーム史上最も偉大な聖法学者、神学者、神秘思想家の一人である。1058年にイラン北東部のトゥース(現マシュハド市の北)で生まれ、19歳でニーシャープールにおいて碩学イマーム・アル・ハラマイン・ジュワイニー(Imam al-Haramayn 1028-85年)に師事し、シャーフィイー学派法学とアシュアリー学派神学を学ぶ。時のセルジューク朝スルターンの宰相ニザーム・アル・ムルク:本名ハサン・ブヌ・アリー(Nizam al-Mulk 1018-92年)にその才能と学識を認められ、弱冠33歳でバグダードのニザーミーヤ学院の主任教授に任命される(1091年7月)。ニザーム・アル・ムルクの方針は、正統派イスラーム思想で統一し、スルターンの武力をもってカリフ制度を擁護させていこうとするものであった。バグダードをはじめ、いくつかの重要都市にニザーミーヤ(ニザームの)と名乗る学院を建てたのも、スンニー派の法学者を養成し、国家の中堅としていこうとしたためであった。このニザーム・アル・ムルクがひきたてた学者の一人がイスラーム思想界の大立役者ガザーリーであったのである。しかし1095年11月、数か月にわたる長い苦悶の末、彼はついに学院の教授としての地位や名誉、家族など現世のすべてを放擲して引退し、スーフィーの道に専従することになる。シリア、パレスチナ各地を放浪し、メッカ巡礼の後郷里に帰り、スーフィーの修行道場を設立、著述や弟子の教育に専念し1111年12月18日にその生涯を閉じている。

考察2:ガザーリーは、哲学者か否か―
ガザーリーが、イスラームの基本的教義に反すると見た哲学を集中的に研究したのは、バグダード滞在中であった。まず、哲学についての正確な概要書『哲学者の意図』(Maqasid al-Falasifah)、次にその批判書『哲学者の自己矛盾』(Tahafut al-Falasifah)を書き、また、その哲学批判を理解させるためとして論理学や哲学用語を解説する著作『論理学における知識の基準』(Mi yar al- Ilm fi Fann al-Mantiq)、『論理学における論証の試金石』(Mihakk al-Nazar fi al-Mantiq)、『正しい秤』(al-Qistas al-Mustaqim)などを書いている。このような彼の哲学に対する積極的な関心は、単にそれを批判するためだけだったのだろうか…。ガザーリーはアシュアリー派の思想の主要な教義を弁護し、ファルサファ(イスラム哲学)の主要な側面を批判した。彼は哲学の中の「神学」(形而上学)が正統教義に反すると見て、そこでの哲学的論証が厳密な理性(論理学)の検証に耐えないことを明らかにしようとしたのである。さらに、彼の哲学批判の特徴は、正統神学からの単なる神学的批判ではなく哲学を十分に咀嚼したうえでの“哲学批判”であった。ゆえに、神学者として真理を追究する“哲学する者”であった、といえるかもしれない。
その後、スペインの哲学者イブン・ルシュド(Abu al-Walid Muhammad ibn Ahmad ibn Rushd:1126-98)が『自己矛盾の自己矛盾』(Tahafut al-Tahafut:矛盾の矛盾)において、ガザーリーのイブン・スィーナ哲学批判に対して論駁を試み、哲学の研究がイスラームにおいては合法であるとともに義務でもあると主張したが、スンナ派イスラーム世界における哲学の衰退は阻止することができなかった。一方、西方から東方へイブン・アラビー(Muhyi al-Din Abu Abd Allah Muhammad ibn Ali ibn al-Arabi al-Hatimi al-Ta i:1165-1240)によってもたらされたイスラーム哲学はスフラワルディー(Shaykh al-Ishihaq Shihab al-Din Yahya ibn Habash al-Suhrawardi:1154-91)の思想と結びつき、特にペルシャを中心とする東方文化圏において独自の発展を続け今日の至るのである。

考察3:ガザーリーの理性に対する懐疑―
ガザーリーは一定の限界内での理性の意義を強調した。しかし、彼の批判哲学が明らかにしたのは、同時に彼が求めていた啓示的真理の確証は理性によっては得られない、という理性に対する懐疑に至るものであった。そこでガザーリーは、彼が求めていたものをスーフィズムの神秘的観照体験(ファナー)の中に見出し、究極的真理(啓示)に対する確信は理性的弁証によって得られるものではなく、スーフィーの言う直接体験の中で自ら直覚するしかないことを悟ったのである。ガザーリーはこの自らが経験した懐疑論との精神的葛藤について、晩年の「自伝」ともいうべき大著『誤謬よりの救済』(al-Munqidh min al-Dalal)の中で、「このようにして疑惑が私の心に浮かび、私の心がそれにとりつかれると、私はこれを癒そうと努力した。しかし、それはけっして容易ではなかった。…(中略)…事実上、私は懐疑論者であった。しかしながら、神は私の病を癒し給い、私は健康と平静さを取り戻し、理性による必然的真理をいま一度受け入れ、…。これは論理を組み立てたり、議論を積み重ねたりして得られたのではなく、いと高き神が私の心に注ぎ給うた光によってなされたのである。この光こそ大部分の知識の鍵なのである。」と述べているとおりである。

考察4:ガザーリーは何を成したか―
ガザーリーは、スーフィー的な基盤の上にイスラーム諸学を再構築し、信仰の復興を図ろうとした。引退後に執筆された大部の主著『宗教諸学の復活』(Ihya Ulum al-Din)、『イスラーム宗教原理についての四十講』(Kitab al-Arba in fi Usul al-Din)、『幸福の錬金術』(kimiya ?yi Sa adat)などがその成果である。彼は、心身両面においてムスリムがアッラーに近づくための自己鍛練の実践的方法を確立することに努めた。彼は同時に、スーフィズムの中の異端的逸脱を批判し、それらを聖法と結びつけながらさらに哲学的な理論づけを行おうとしている。一方、彼の神秘思想への接近は、実弟の神秘思想家アフマド・ガザーリー(Ahmad ibn Muhmmad al-Ghazali)の影響があったとも言われている。彼は、基本的にはアシュアリー派の正統神学の枠内にとどまりつつも、論理学をはじめとする哲学的要素を多く取り入れて神学の哲学化に道を開きながら、後の神秘哲学の展開にも影響を及ぼしたといえよう。
ガザーリーの著作を紐解くことによって、そこから、イスラーム理解につながる多くの知識を得ることができると確信するものである。

考察5:ガザーリーと水時計―
ガザーリーは、その著書『イスラーム宗教原理の四十講』の中で普遍的アッラーの摂理について“水時計”を例にあげ、このように述べている。「礼拝の時を告げる一定の仕掛けをもった水時計をつくる場合、次の三つのことが必要となる。第一がプラン(tadbir)である。これは起こるべきことが起こるように必要な道具・原因・運動について考えておくことである。第二が、基本となる道具をつくり出すこと。すなわち、水を入れる容器、水面に浮かべる空洞の容器、張る糸、球とそれを入れる円筒形の容器、落下する球の受け皿、等などである。第三が、運動を始動させる原因をつくること。それは円筒形の容器の底に正確な計算に基づいて一定の大きさの穴を開け、そこから水を少しずつ落とすことである。こうして水の落下という原因が始まる。それから水面の下降→水面上の容器の下降→糸が引張られる→球を入れた容器の傾き→球の落下→皿への衝突→音の発生→人間の知覚→礼拝、と続くのである。これらすべては最初の運動の設定によって、予め定められた原因に従って起こるのである。すなわち、原因が生起すれば、少しの狂いもなく予定された事象が起こるのである。天や天球、星々や地球、海、空気等など、世界の中のこれらの巨大な物体はまさに道具と同じである。天球、星々、太陽、月、等などを一定の計算に従って運動させる原因は、一定量の水の落下を必然的にする穴と同じである。太陽、星々、月の運動から地上の諸現象の生起に至る過程は、水の運動から球の落下へと至るあの一連の運動の生起に対応するものである。これが神の<決定>であり予定なのである。」
ガザーリーは、論理の要点を明らかにするために、多くの例を挙げて説明をくわえる。それらは、小難しい理論を並べ立てるのではなく、極めて身近にある分かりやすいものを用いる。また、神の意志と必然の説明において、ガザーリーは次のような話を伝えている。
〜昔、ある所に何が起こっても「神が決定したことにはいいことがある」といっている人がいた。ある時、家族と共に砂漠に出た。持物としてはテントとそれを運ぶロバと番犬と時を告げる鶏だけであった。ところがある日、狐が来て鶏を奪った。家族は悲しんだが、彼はそれはいいことだといった。ところが今度は、オオカミがやって来てロバを殺し、犬もやられた。そんなある日、周辺の人々が皆、賊に襲われて捕虜にされたり奴隷にされたりした。ある人は犬が騒いだために見つかり、ある人は鶏の鳴声で居場所を発見され、ある人はロバの鳴声で捕らえられたのであった。ところが彼の家族はそれらを皆失っていたので助かったのである。〜(中村廣治郎著『イスラムの宗教思想』、岩波書店、2002、p.257-8)まるで、中国の“人間万事塞翁が馬”のような例え話である。
おわりに
1092年10月16日、ガザーリーの大きな後ろ盾であったニザーム・アル・ムルクは、学友であったハサン・エ・サッバーフの指令を受けスーフィーに変装したイスマーイール派の決死隊員(フィダーイー)の一人に刺殺された。ニザームはフィダーイーの犠牲となった無数の人士のうちの最初の人であったという。ガザーリーが流浪の旅に出た動機の一つには、イスマーイール派の刺客から逃れるためでもあったらしい、との説もある。スンナ派が多数派としての地位を確立することに、彼が果たした功績は多大であった、と言わなければならないだろう。イスラームは、中庸を重んじる。大きく両極に触れることなく常に中庸であることは、ガザーリーが一番重要と考えたことでもあるに違いない。私も、ガザーリーの信仰に見習い、ムスリム(ムスリマ)として奮闘努力したいと考える。

―スフヤーン・ビン・アブドッラー・サカフィーは伝えている―
私はアッラーのみ使いにこういった。「あなたが亡き後(もしくはあなた以外に)イスラームに関して誰にも質問する必要のないほどに重要な事項を教えて下さい」。これに対しみ使いは「アッラーを信じます、と唱え、それを固く守っていくことです」といわれた。
(サヒーフムスリム)



<参考文献>
井筒俊彦著『イスラーム思想史』、岩波書店、1977
大塚和夫・小松久男他編集『イスラーム辞典』、岩波書店、2002
竹下政孝監修『中世思想原典集成11・イスラーム哲学』、平凡社、2003
  中村廣治郎著『イスラムの宗教思想』、岩波書店、2002
オリヴァー・リーマン著中村廣治郎訳『イスラム哲学への扉』ちくま学芸文庫、2002
  前嶋信次著『世界の歴史8イスラム世界』、河出書房新社、1997

附:水時計について―
水時計がいつ・どこで発見されたかは不明であるが、水が流出する椀状の最も単純な型の水時計は、紀元前16世紀ごろのバビロニアや古代エジプトには既に存在していたことが知られている。例えば、エジプト最古の水時計は、物的証拠から前1417年‐1379年ごろ(アメンホテプ3世の時代)のもので、アメン=ラーを祭るカルナック神殿で使われていた。水時計に関する最古の記録は前16世紀の宮廷人アメンエムハト(Amenemhet)の墓碑銘で、これは彼を水時計の発見者だとしている。この時代の単純な(流出型の)水時計は、底近くに小さな穴の開いた石製の容器で、水面の降下速度をなるべく一定に近づけるべく下すぼまりの形をしていた。内側には「一時間」を計るための目盛りが振られていたのだが、その目盛りは(不定時法に合わせた各月用の目盛りということで)12種類あった。カルナック神殿の水時計は、夜間、僧侶がしかるべき時刻に儀式を行うために使われ、おそらく昼間にも使われたと思われる。さらに、バビロニアでは、水時計は流出型であり円筒状の形をしていた。天文学用の水時計の使用は、古バビロニア時代(前2000年頃‐前1600年頃)にまで遡ると推定されている。また、メソポタミア地方からは水時計の現物は見つかっておらず、その存在の証拠として最も有力なのは粘土板に書かれたもので、水時計が夜警および昼の見張り人への給料支払いに際して使われたとある。これらの水時計の独特な点は、(今日の時計のように)指針があるわけでもなく(エジプトの水時計のように)目盛りがあるわけでもなく、表示機構を全く欠いていたことである。その代りにこの水時計は時間を「流出した水の重さによって」測定し、その重さはマナ(“mana”ギリシャの単位で約1ポンド)という単位で計られた。バビロニア時代、時刻が不定時法によっていたということは、つまり、季節が変わると日の出ている時間の長さが変わったということを意味する。「夏至に『夜の時計』の長さを定めるため、円筒の水時計に2マナの水が注がれた。それが空になることは夜間の終わりを示す。その後、半月ごとに6分の1マナが追加されなければならない。秋分には夜の長さと合わせるために3マナの水が必要になり、冬至の夜には4マナが費やされる。」とある。
中世イスラーム世界では、日時計・水時計・砂時計・アストロラーブ等が礼拝時刻の決定をおもな目的として一般に普及し、日時計はキブラ決定にも利用された。水時計はヘレニズム科学の影響を受け、遅くとも9世紀には精巧なからくり仕掛けを備えた装置が実用化されていた。イブン・ジュバイルが記すダマスカスのウマイヤ・モスク中庭の水時計(12世紀)や、現存するフェズのブー・イナーニーヤ・マドラサ正面の水時計(1357年)は、その典型である。ガザーリーが目にした“水時計”は、どのような物だったのだろうか。

 <Neugebauer,Otto(1947),”Studies in Ancient Astronomy.VIII.The Water Clock in Babylonian Astronomy”,Isis37(1/2):pp.39-40>


至高なる神の偉大さを称えることは心の義務であり、そこにその救いがある。そしてまた、肢体にとっても、可能な限りそうすることが義務である。心による[神の]称讃は、知識と信仰(i tiqad)における[神の]地位の高さに思いを致すことによってなされ、肢体による[神の]称讃は、方向のなかでも最も高い所であり、また信条において最も高い所を表示することによってなされる。
 聖法が人間の心と肢体に対して、至高なる神を称えるようにそれらを導くうえで、いかに行き届いたものであったか、また心眼に欠け、肢体や物体の外面だけしか見ず、心の秘密の事柄に気づかず、[神の]称讃にためには心はなんら方向の特定を必要としないことを忘れている者のなんと愚かであることか。そして彼は、大事なことは肢体によって示されるものであると考え、まず思慮すべきことは心による神の称讃であり、[神の]地位の高さの信念にもとづく称讃であって、場所が高いことの信念によるものではないこと、その際肢体は、心が行う称讃に可能な限り同調して仕える従者であり、それに可能なことは、ただ方向を示すことだということを知らないのである。
 [己を]低くし、主の栄光を称えることは心[qalb]の行為である。その道具が理性[ aql]であり、肢体は心を浄め、浄化するために利用されるものにすぎない。そもそも心は、持続的に肢体を動かすことから影響を受けるように造られているが、肢体も心の信念によって影響を受けるように造られている。もし自らの理性と心とで己を低くすることが目的であれば、まず己を知ること、それには至高なる神の偉大さと至高性に比して、存在における己の卑小さを知ることである。
  ―『イスラーム神学綱要』―
  
 神以外のものはその存在を、神から直接得ている。しかし、神の存在付与はけっして恣意的に起こるものではなく、一定の順序に従っている。ガザーリーは『宗教諸学の再興』の中で、「出来事があると、それを生み出すものが不可欠である。出来事が異なれば、それは原因も異なることを示す。これは原因と結果の関係の中で、神の慣行として知られるものである」と言っている。彼によれば、原因−結果の必然的関係は否定され、「原因」も「結果」もすべて直接的に神の力に帰せられ、神がすべての出来事の直接的原因、真の意味の原因とされる。この点を彼は、哲学者の因果律批判の中で論証している。「原因」と「結果」の関係の必然性はこうして否定されるが、他方では、「神の慣行」としてその恒常性が強調される。こうして人間は、「神の慣行」に依拠して行動し、目的を実行することができるし、またそうしなければならない。その際重要なことは、「原因」「結果」にのみ信頼し、真の原因を無視しないことである。雨は作物を生育させ、雲は雨を降らせ、風は船を動かす。そこで人は、「原因」としての雨・雲・風にのみ依存しがちである。しかし、それは誤りで、真実はこれらすべてが神の意のままに動かされているのであって、自ら動いているのではない、ということである。すべての動者は、究極的には「第一動者」、不動の動者に帰着する。このような第一動者としての神の世界支配をガザーリーは、礼拝の時を告げる水時計の仕掛けに喩えている。同様に、天空、天球、星辰、地球、大海、空気などの宇宙の巨大な物体は、まさに壮大な神の予定を実現するための道具であり、装置である。「植物の栄養摂取は、水、空気、太陽、月、星々によってしか完成しない。それが完成するのは、それらが固定されている諸天球によってである。諸天球が完成するのは、その運動によってであり、運動は天の天使がそれを動かすからである。こうしてそれは遠い諸原因にまで至る」とガザーリーは『再興』の中で言っている。
このような神の普遍的創造作用は自然界だけ言えるのではなく、人間についても同様である。ガザーリーの偶因論によれば、人間がある行為をするまでには、通常、大きく分けて次のようなプロセスをたどる。「知識」→「意志」→「力」→「運動」である。つまり、あることについての知識と判断が人間の中に生まれると、ある行為をしようとする意志が生まれる。その時に力が生じ、それが行為へと続く。これら一連の事象は、後のものが前のものから必然的に生まれてくるように思われるが、そうではない。それらはすべて、神の「永遠なる力」による。しかし、たとえば神の力から直接的に人間の「意志」が単独で生まれることはなく、知識や情報があり、それに基づく思考や判断が先行しなければならない。そのような営みがなされるのは通常、生きた人間であるから、「生命」が前提とされる。さらにこの生命が存在するための「生命の基体」が前提とされる、といった具合である。そしてこの人間の「知識」も一定のルートを経て獲得されるが、神の力の作用下にあり、究極的には神の知と意志に帰着する。
 
 礼拝の時を告げる一定の仕掛けをもった水時計をつくる場合、次の三つのことが必要となる。第一がプラン(tadbir)である。これは起こるべきことが起こるように必要な道具・原因・運動について考えておくことである。第二が、基本となる道具をつくり出すこと。すなわち、水を入れる容器、水面に浮かべる空洞の容器、張る糸、球とそれを入れる円筒形の容器、落下する球の受け皿、等などである。第三が、運動を始動させる原因をつくること。それは円筒形の容器の底に正確な計算に基づいて一定の大きさの穴を開け、そこから水を少しずつ落とすことである。こうして水の落下という原因が始まる。それから水面の下降→水面上の容器の下降→糸が引張られる→球を入れた容器の傾き→球の落下→皿への衝突→音の発生→人間の知覚→礼拝、と続くのである。これらすべては最初の運動の設定によって、予め定められた原因に従って起こるのである。すなわち、原因が生起すれば、少しの狂いもなく予定された事象が起こるのである。天や天球、星々や地球、海、空気等など、世界の中のこれらの巨大な物体はまさに道具と同じである。天球、星々、太陽、月、等などを一定の計算に従って運動させる原因は、一定量の水の落下を必然的にする穴と同じである。太陽、星々、月の運動から地上の諸現象の生起に至る過程は、水の運動から球の落下へと至るあの一連の運動の生起に対応するものである。これが神の<決定>であり予定なのである。そして天地創造から終末の至るまでのこの神の予定は、クルアーンにいう「(天に)護持されている書板(al-lawh al-mahfuz)」(Q85章21‐22節)に記録されているのである。
 ガザーリーは哲学者のいう因果律を認めない。原因→結果の間には必然的な関係があるのではなく、原因といわれるものは実は神が結果と呼ばれるものを創り出すための偶因ないしは条件にほかならないのである。原因も結果も先の例の時計仕掛けの道具と同じように神が直接に想像したものなのである。
 ガザーリーによれば、人間が自己の行為の<選択者>(mukhtar)であるということの意味は、人間は神がその意志(予定)を実現していく場所・基体(mahall)であるということである。つまり、知識・意志・判断・力・手の運動、といった一連の事象が生起する場所だということである。しかし、このことは別の面からみれば、人間は場所であるだけでなく、たとえ神が創造したものであっても自分の中の意志を自己の意志としてそれを通して神の予定実現に参与しているということを意味するのではないか。これが<獲得>の意味であろう。したがって、人間の不正・悪は神の行為であると共に、その人自身の行為でもあり、その意味で人間はその結果に対して責任を負うことになるのである。
ガザーリーはこう言っている。「神以外の存在物はすべて神の行為によって生起するものである。それは最もよく最も完全で最も正しい仕方で神の正義から流れ出ているものである。神はその行為において賢明であり、その判断において正義である。」この引用文でみる限り、ガザーリーの立場はムゥタズィラ派のそれとまったく同じであるようにみえる。しかし、実はそうではないのである。では、ガザーリーは神の正義と人間の不幸や災難とはどのように調和するというのであろうか。彼は次のようにいっている。「神の正義は人間の正義によって推し量ることはできない。なぜなら、人間の場合、他人の所有物に対して勝手な振る舞いをすればそれが不正(zulm)であると考えられるが、そのような意味での不正は神には考えられないからである。神が他者の財産に手をつけ、したがってそれに対する神の態度が不正になるというようなことはないのである。なぜなら、人間、ジン、天使、サタン、天、地、動物、植物、鉱物、実体、偶有、理性や感覚によって知られるものといった神以外のものはすべて、神が自己の力で何もなかった無から創り出したものだからである。……神は人間にさまざまな罰を与え、さまざまな苦しみや病気で人間を試みることができる。たとえ神がそれをしたとしても、それは神にとって正義であり、悪(qabih)や不正(zulm)ではない。神は信ずる僕の服従行為に報いを与えるが、それは神の寛大さと約束によるもので、人間の側の当然の権利としてではない。なぜなら、神には誰の対しても行為をしなければならないということはないからである。また、神に不正を考えることもないし、誰も神に対して権利をもつことはないからである。要するに、神の行為に対して人間が考える正・不正、善悪の尺度はそもそも最初から通用しないということである。この点がムゥタズィラ派と異なる最大の点である。

ガザーリーは『教義における中庸』の中で、善悪とは目的に対する適合・対立のことであり、その意味で相対的概念であると述べている。善悪が相対的概念であれば、それが適用されるのは相対的存在である被造物に対してだけである。絶対的存在である神には適用されない。ガザーリーはこういっている。「かりに神が人間のすべてを最も理性的かつ知的なものとして創り、彼らに可能な限りの知識を創り、知恵を与え、知識・知恵・理性において等しい人間の数を倍に増やし、次に物ごとの結末について開示し、不可視界(malakut)の秘密について教え、恩恵の真実と刑罰の秘密を知らせて彼らが善悪・利害を知るようにし、次に彼らに与えられた知識と知恵で両世界の統治を考えるように命じたとすれば、人間はいかに協力し助け合っても、現世と来世における神の統治に対して蚊一匹の羽の増減、辛子種一粒の上げ下げすら要求できないだろうし、試練を受けている人から病気、欠陥、欠乏、貧困、害悪を除くように要請することもできないであろうし。……神が人間に与えた糧、寿命、喜びや悲しみ、無力と能力、信仰と不信仰、服従と罪はすべてまったくの正義( adl-mahd)であり、そこに不義はない。すべてはまったくの真実で、不正はない。すべては当然そうあるべき状態と分量で、真実の必然的な秩序の中にある。それ以上よりよく、より完全になる可能性はない。もし力がありながらそうすることを控えたとすれば、それは寛大さに矛盾する吝嗇であり、正義に矛盾する不正である。またそうしえなかったとすれば、それは神性に矛盾する。現世における貧困や害悪はすべて現世での減少であり、来世での増大である。一人の人間についての来世における減少は、他の人間に関しての恩恵である。もし夜がなければ昼の量がわからず、病気がなければ健康な者の健康の享受はない。地獄がなければ、天国の住人は恵みの大きさがわからないだろう。人間の生命が動物の生命を犠牲にすることは不正ではない。完全なものを不完全なものに優先させることは正義そのものである。同様に、地獄の住人の罪を大きくすることによって、天国の住人の恩恵を大きくすることもそうである。欠陥がつくられない限り、完全は知られない。動物の創造がなければ、人間の高貴さの顕現はない。このように欠陥と完全とは相関的なもので、その同時的創造は寛大さと知恵の要請の結果である。生命の存続のための手の切断は正義である。人々の間の現世・来世における運命(qiswah)の相違についても同様である。これらすべては正義であり、そこに不義はない。これもいま一つの深くて大きな海であり、その波は高く、その広大さは神の唯一性の大海に近いものがあり、未熟な者は溺れる。彼らはそれが知者だけが理解する深みであり、その背後には大多数の人々が困惑し、それを明かされた者が公言することを禁じられている予定の秘密があることを知らないのである。」このように神は人間の善悪を超越した存在であり、人間は神の予定を完全には知りえない以上、神が正義であり善であるというのであるならば、神の行為について部分的に正邪・善悪を判断するよりも、現世・来世を通じてこの全体的な予定調和を信ずるしかない。それが神の慈悲への善意(husn al-zann)による信頼であり、予定に対する<満足(rida)である。
時計:中世イスラーム世界では、日時計・水時計・砂時計・アストロラーブ等が礼拝時刻の決定をおもな目的として一般に普及し、日時計はキブラ決定にも利用された。また水時計はヘレニズム科学の影響を受け、遅くとも9世紀には精巧なからくり仕掛けを備えた装置が実用化した。イブン・ジュバイルが記すダマスカスのウマイヤ・モスク中庭の水時計(12世紀)や、現存するフェズのブー・イナーニーヤ・マドラサ正面の水時計(1357年)は、その典型である。中国では流出する水の量で時間を測る水時計の歴史は古く、後漢の張衡は水時計で動く渾天儀をつくっていた。
水時計がいつ・どこで発見されたかは不明であり、水が流出する椀状の水時計は最も単純な型であり、紀元前16世紀ごろのバビロニアや古代エジプトには既に存在していたことが知られている。世界の別の地域、例えばインドや中国でも古くから存在していたが、最古のものがどの時代から存在していたかはよくわかっていない。
エジプト最古の水時計は、物的証拠から前1417年‐1379年ごろ(アメンホテプ3世の時代)のもので、アメン=ラーを祭るカルナック神殿で使われていた。水時計に関する最古の記録は前16世紀の宮廷人アメンエムハト(Amenemhet)の墓碑銘で、これは彼を水時計の発見者だとしている。この時代の単純な(流出型の)水時計は、底近くに小さな穴の開いた石製の容器で、水面の降下速度をなるべく一定に近づけるべく下すぼまりな形状をしていた。内側には「一時間」を計るための目盛りが振られていたのだが、その目盛りは(不定時法に合わせた各月用の目盛りということで)12種類あった。カルナック神殿の水時計は、夜間、僧侶がしかるべき時刻に儀式を行うために使われた。また、これらの水時計はおそらく昼間にも使われたと思われる。
バビロニアでは、水時計は流出型であり円筒状の形をしていた。天文学用の水時計の使用は、古バビロニア時代(前2000年頃‐前1600年頃)にまで遡ると推定されている。メソポタミア地方からは水時計の現物は見つかっておらず、その存在の証拠として最も有力なのは粘土板に書かれた情報である。水時計が夜警および昼の見張り人への給料支払いに際して使われたとある。これらの水時計の独特な点は、(今日の時計のように)指針があるわけでもなく(エジプトの水時計のように)目盛りがあるわけでもなく、表示機構を全く欠いていたことである。その代りにこれの水時計は時間を「流出した水の重さによって」測定した。その重さは、マナ(“mana”。ギリシャの単位で、約1ポンド)という単位で計られた。バビロニア時代、時刻が不定時法によっていたことは重要である。つまり、季節が変わると日の出ている時間の長さが変わったのである。「夏至に『夜の時計』の長さを定めるため、円筒の水時計に2マナの水が注がれた。それが空になることは夜間の終わりを示す。その後、半月ごとに6分の1マナが追加されなければならない。秋分には夜の長さと合わせるために3マナの水が必要になり、冬至の夜には4マナが費やされる。」
<Neugebauer,Otto(1947),”Studies in Ancient Astronomy.VIII.The Water Clock in Babylonian Astronomy”,Isis37(1/2):pp.39-40>


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