東洋文化論
諸子百家の中にあって、孟子は孔門の学を大別する二派のうちの曽子の学派を継ぎ、荀子はもう一派の子夏の学派を継いだ。孟子を儒家の主観派というならば、その後に出てきた荀子は客観派である。又、孟子を右派とすれば、荀子は左派であり、さらに概観すれば、孟子は儒家の正統派であり、荀子はその別派であるとも言えよう。孟子は「性善説」を説いた。性の本質はその純粋な道徳性にあり、道徳的な行為や感知は先天的に人に備わっているものであるから、これを学ばなければできないとか思慮をめぐらさなければ感じないとか、そのようなものではなく人は誰でもその能力と知覚がある、と言ってその良心を説いた。そして、人間が不善を成すのは持って生まれたその人の性質のせいではなく、あくまでも外側からの悪影響によるものであるとし、さらにこの良心は、保持し養わずに放置しておけば外界の事物に誘惑されて失われてしまうから、積極的な工夫として、思いを尽くして先天的なこの大切な心を堅固に保持するようにしなければならないとした。これに対し、荀子は「性悪説」を説き、人は性悪であるからこそ善を成すのであり、性善であれば何も善を求めようとはしない。それは、善が性の中にないから善を欲するのであるとし、さらに、善を成そうとする向上心は、欲望と紙一重のものとして「悪なる本性」の中にあり心の正しい判断が必要である、と説いた。また、欲望は性の情が外物の刺激に応じて起こるところのものであるから、それは自然の存在であり先天的なものであるが、それが心に制御され方向づけられてこそ正しく達成される、とした。
最近、幼くして罪を犯すニュースを目の当たりにすると、「人は生まれながら悪である」という結論に及ばざるを得なくなる。思春期の子ども達を教育指導しようとする時、その本性は悪であると考えるならば、「お前達は放って置くと何をするか分からない。つまり性悪なのだから、規則・規律で縛っておかなければならない」と言う理由が与えられてしまう。そこには、もう信頼も愛情も見出せない。そのようにして、子どもの中に植えつけられた「どうせ自分達は悪なのだから」という意識は、果たしてどのような人間を生み出し、どういう社会を作り上げていくのだろうか。神に創造された人間が本来悪であったはずが無い、と同時に、人間は神のように完全ではない。与えられた環境や状況の中で、その本来の姿を見失うこともあるだろう。しかし、どんな時もその本来の姿に立ち戻るチャンスは与えられているはずである。「人間は本来善である」という前提のもとに、互いを尊び、互いをいたわり、互いに許し合う心を育てていかなければならないと考える。
荘子は、人為を否定するところに現れる自然を重んじる「無為自然」を説いた。元来、人為を加えないありのままの自然の世界は、渾然とした一体のものであるはずである。この自然に有無の差別が生まれるのは、物事を何でも二つに分けなければ承知しない人間的な思考法つまり人為のなせる業である、とするものである。人間の知恵は物を理解しようとする時、必ずその物を二つに分けてそこに対立を設ける。是と非、善と悪、美と醜、生と死、というように、人間の思考は無数の対立概念から構成され、相対差別を離れてはありえない。このような相対差別にもとづく認識が、果たして事物のありのままの姿を捉えうるものであろうか。幸と不幸、富と貧、賢と愚など、このような対立は差別という人為が生み出したものに過ぎず、ありのままの自然の世界の姿ではない。自然の世界では、すべてが等しく万物斉同に理が行われているというのが、荘子の「万物斉同論」とされるものである。もし我々が人間という限定された立場から解放され、相対差別という人為から離れるならば、そこには是非・善悪・美醜を越えた自然の世界があらわれるであろう。荘子は、この意味での自然を無差別の自然と呼び、無差別自然の立場から見ればいっさいの差別がなくなり、すべてをあるままに是認し、万物を春のように温かい心でつつむのが万物斉同の境地であると説いた。荘子の生きた時代は、中国における戦国時代であった。そのような中で、望むと望まざるとにかかわらず、強者・弱者、勝者・敗者が歴然としており、是非・善悪もまた、自身のそれとは判断を異にするものだったかもしれない。だからことさら、物や形に頼るのではない、魂の救済・安泰を求めてゆくことになるのであろうと思われる。
荘子の苦悩や語りかけているものは、現代社会の私達にも充分通じるものである。この世の中、美しい者や賢い者の鼻は天狗の鼻のようにますます高くなり、醜い者や愚かな者はその存在さえも否定されかねない状況にある。多数が是であり、少数は非である。社会一般の通念から善悪が決定され、生きる意味を語られない生があり、深い意味を持たない死も氾濫している。しかしだからと言って、身の周りの人為のものをすべて取り払って、山奥に住む仙人のような世を捨てた境地に浸ってばかりはいられない。私が思うに、幸せは不幸があるから幸せなのではなく、不幸を不幸と思う心があるから不幸なのであり、そこには感謝の心の欠如がある。美しいこともまた、美しいと自負する心が美しいことを形作っているのであり、そこに謙遜の心の欠如がある。人は、今何故自分がここに在るかを問わず、創造されたすべてを己の力の故であるかのように奢り高ぶり、感謝の心を忘れている。そしてさらに、飽くことなく力の上に力を積み重ね、神への畏怖の心を忘れている。この地球も太陽も、人間が作り出したものではなく、人間もまたそれらと同じように創造されたものであり、生かされているということを思考すれば、人為による差別など取るに足りないものであると知るだろう。常にどんな時も、神に傾倒し自分自身を知る努力を怠らなければ、人は人たる道を誤ることは決してないはずである、と私は考える。私たちは今一度、自身の存在の意味を問うてみるべきではないだろうか。


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