『福翁自伝』―福沢諭吉
福沢諭吉は、1835年大阪に生まれた。3歳より豊前中津に移り住み育った。その頃の日本は、オランダ・ロシア・アメリカ・イギリス・フランスと次々に押し寄せる異国の風に曝されていた。その中にあって彼は、日本の古い因習や身分制度ならびに封建的支配体制に反発し、日本の社会のあり方に多くの疑問を抱いていた。まず14・5歳で漢学を始め、その後蘭学に通じ、洋学者と成してからもなお「英語を知らなければ何にも通ずることができない」として、あらゆる方法でその知識の修得に励んだ。1875年刊行の『文明論之概略』において、彼は「やや事物の理を知る者は、その理を知ることいよいよ深きに従ひ、いよいよ自国の有様を明にし、いよいよこれを明にするに従い、いよいよ西洋国の及ぶべからざるを悟り、これを患ひこれを悲しみ、あるひは彼に学びてこれに倣はんとし、あるひは自ら勉てこれに対立せんとし、亜細亜諸国に於て、識者終身の憂いはただこの一事にあるが如し」と、状況を分析している。そして、「ヨーロッパの文明を求めるためには、先ず人心を改革して次で政令に及ぼし、終に有形の物に至るべし」とし、さらに、大事なのは文明の外形ではなく“文明の精神”、すなわち、それは「売るべきものにあらず、買うべきものにあらず、また人力を以てにわかに作るものにあらず、あまねく一国民人民の間に浸潤して、広く全国の事跡に顕はるるといへども、目以てその形を見るべきもの」ではないとした。また彼は、生活様式も自ら西洋流を取り入れ、英語を流暢に操り、自分自身の考えを実践した。
思うに、何より彼が主張したかったことは『学問のすすめ』で高らかに謳った「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言へり」という言葉の中に集約されているのではなかろうか。それは、人それぞれの生き方は、古い因習の中の規則や身分制度による制約等で左右されるものではなく、自由に学び、誰でも自分の生き方を自分で選択できるのだということを言わんとするものであると考える。彼にとって、西洋の風は自由を謳歌し、知識欲を充分に満たしてくれるものだったに違いない。しかし一方では、「今我日本人にして近代の利器を利用して西洋の人と並び立ち、相互に文明の先を争ふて、ただ彼等と共に他を食み他を狩るの勢を成さんとするには、先づ我古俗旧慣を一変し、政事法律教育の大体より社会日常の細事に至るまでも、之を改めて大なる差支を見ざる限りは勉めて西洋の風に倣ひ、亜細亜の東辺に純然たる一新西洋国を出現する程の大英断あるに非ざれば、とても目的を達成するに足らず」と言わせたのは、一途に愛国心の現われであり、それが彼の考える我国の国際化のあり方だった。
福沢諭吉は常に、社会の混乱や政治の圏外に身を置き、維新後は武士の身分を捨てて平民となり、新政府からの召令を辞退して教育に専念した。「新政府人の挙動は、すべて儒教の糟糠を嘗め、古学の固陋主義より割出して空威張りするのみ。左りとて自分は日本人なり、無為にしては居られず、政治は兎も角も之を成行に任せて自分は自分にて聊か見に覚えたる洋学を後進生に教へ、万が一にも斯民を文明に導く僥倖もあらんか」と、彼自身に語らせている。
現在、日本において国民は皆自由を謳歌し、物は溢れ、衣食住は満ち足りている。福沢諭吉の語ったとおりに外観上は、すっかり西洋化されたように思われる。明治以降の日本に近代的な“国民国家”としての自覚をもたらそうとした彼の考え方は、2千年の社会にどのように反映されているだろうか。これから行なわれるべき国際化は、決して大きな力に従属することで生まれるものではなく、すべての国々が対等な関係の上に成り立ち、地球人としての一人一人の意識の中に育まれてゆくものでなければならない。今こそ真の国際化のあり方が問われている。


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