二元論など |
2006/4/13 うんむらふま |
<二元論> 物質を相対立する二つの原理または要素に基づいてとらえる立場。神話や宇宙論における光と闇・陰と陽、哲学における形相と質料・現象と本体、宗教や道徳における善と悪など多くの思想領域に見いだされる。西洋近代では精神と物体を二実体ととらえるデカルトの物心二元論ないしは心身二元論が近代哲学を特徴づける枠組みを与えている。 “心身二元論(物心二元論)” 物(身体)は延長を本質とし心(精神)は非延長的な思考を本質とするから、両者は異質な二実体であるとするデカルトの説。物・心の間の依存関係や相互作用が説明できないという難点がある。 <一元論> ひとつの実在や原理から世界のあり方を説明する哲学的立場。根源的なものを何とするかは立場により多様であり、ヘーゲルの絶対者、神秘主義における一者、仏教の真如、老荘の道などが著名。また世界を精神や物質に還元する唯心論や唯物論もこの傾向に属する。 <多元論> 世界が唯一の原理から成り立つと考える一元論に対して相互に独立な二つ以上の根本的な原理や要素によって世界をとらえる立場。 <万有内在神論> 神を世界の外部に超越的に措定する有神論・理神論やその反対に神が世界に一体化し世界に解消される傾向のある汎神論に対して、神は世界を貫くがその中に解消されえない。世界は神によって包括統一されているとする論。 <汎神論> すべてのものに神が宿っているとしたり、一切万有の全体がすなわち神であるとしたり、総じて神と世界との本質的同一性を主張する対場。ウパニシャッドの思想・ストア哲学・スピノザの哲学など。 <並行論> 精神(心)と物体(身体)とは互いに独立であるから、心的現象と物的現象の間に因果的な相互作用はなく、ただ両者は並行的な対応関係をもつとする説。スピノザ・フェヒナー・ユングなどを代表とする。精神物理的並行論。 相制説:二つの領域、特に心と物(身体)との間に相互作用を認める説。相互作用説。 <機会原因論> 精神と身体は直接の相互関係をもたず、神という唯一の原因の機縁(機会原因)としてのみ感覚し運動しているという考え方。デカルトの物心二元論の矛盾に対してゲーリンクス、マールブランシュによって提出された、偶因論。 <朱子学的理気二元論> 程いの説を受け継いで朱熹が大成した宋学の形而上学的原理。物質を形成する素材およびその運動を気ととらえ、気を統制する原理でありその運動に内在して全存在を貫く根拠となり、人間にあっては道徳原理となるものを理として、理気二元により存在の構造を解明する。 陽明学:新儒教学説 元・明代に官学として重んじられた朱子学の主知主義的理想主義的傾向に対して、現実主義的批判を加え、主体的実践を重視した。心が理であるという心即理、生来の道徳的判断力を発揮せよという到良知、認識と実践を一致させよという知行合一、欲望を肯定する無善無悪などを主要な学説とする。(心の本性は善悪という道徳的分別を超越している) <グノーシス主義> 「認識」の意。1・2世紀頃地中海沿岸諸地域で広まった宗教的思想、およびこれに類する考え方。反宇宙的二元論の立場にたち、人間の本質と至高神とが本来は同一であることを認識することにより、救済すなわち神との合一が得られると説く。マンダ教やマニ教はその代表的宗教形態。 <ゾロアスター教> 紀元前6世紀頃のペルシャの予言者ゾロアスター(ツァラツストラ)が始めた宗教。ペルシャの民族宗教を二元論で体系化したもの。光の神・善神アフラ=マズダと暗黒の神・悪神アーリマン(アングラ=マイニュ)の確執から一切を説明し、ついに悪神は敗れて暗黒の中に追放されるとする。善神の象徴である火を崇拝するところから拝火教とも呼ばれた。現在インド西海岸のボンベイ付近に住む教徒はバールシー教徒と呼ばれる。マズダ教。 ―雑感― いかなる哲学者であれ、自分の生きている時代と社会の持っているバイアスから完全に自由ではない以上、心の哲学についても中性の哲学者たちに固有な問題の切り口というものは指摘できる。それはいうまでもなくキリスト教の人間観である。中世の人々は人間の魂・心が身体から切り離されても(つまり人間が死んでも)存在し続けること、そしていつの日にか再び結びつくこと(すなわち人は復活するということ)を、何らかの意味で信じていた。 アウグスティヌスはプラトン主義的傾向、あるいは二元論的な傾きを強く持つものであった。 プラトンの霊肉二元論:「死骸となった肉体は死者の影のようなものであり、真の自己は不死なる魂である」『法律』(959B)より イデアの理論:プラトンは、感覚知覚を通じて得られる通常の物理対象は完全で数学的で非時空的な“イデア”と呼ばれる一般観念の実例であり、物理対象はその一般観念に参与している。と考える。 この世に生きているとは、魂が身体と一時的に結合していることだから心身二元論が成立していなくてはならない。人が存在するためには、身体の存在は不可欠ではないが魂の存在は不可欠である。 問題は、魂は滅びるのか滅びないのかということである。もし心すなわち魂が滅びないことが明らかになるのだとしたら、身体が滅びるものである限り、心身二言論は成立するとみなしうる。 身体にない性質を魂が持つこと、または魂にない性質を身体が持つこと。これらが明らかになれば魂は身体とは別個のものということになる。 普遍的で完全なイデアは、実のところ不可視で不変なものであり、われわれが周囲に知覚する物理対象はたえまなく変化を被るものである。 ソクラテス言:“魂は神的であり、不死であり、可知的であり、単一のイデアを持ち、分解されえず、変化せず、常に同じように自分自身と同一であるものにもっともよく似ている” “身体は、人間的であり、可死的であり、多様なイデアを持ち、無思慮であり、分解可能であり、自分自身との関係においてけっして恒常的でないものに最もよく似ている” 身体と魂が別々の性質を持つと語ることが意味をなすためには、人間は身体と魂の両方を持っていると仮定しなくてはならない。 “われわれ自身の一方の部分は身体であり、他方の部分は魂である。そうではないか” 二元論を証明するためには、魂が身体の外で生きることができなくてはならない。なぜなら二元論では、身体が持つことのできないような性質が心にはあるとそうていされているからである。 二元論の論証のために必要とされている課題は、心的なものと物理的なものは異なる性質を持っているといっても構わないが、しかしこのことから、心的なものの存在は物理的なものの存在に依存しないとは言えない。 双方向の因果的相互作用があることが二元論を支持するか否かは未解決な問題のままにとどまる。 アリストテレスの霊肉一元論:個々の人間に付与された個別的霊魂は人間の死とともに消滅する。肉体なしには霊魂は存在しない、霊肉は切り離せない。 スコラ風テクスト:心が<魂>と呼ばれている。魂理解とは、あくまでも生きている物体(つまり身体)の持つ機能の原理としてとらえられている。 形相とはその事物が(いかなる種類のものであるのか)を規定する原理 質料はそのような(規定を受ける原理)と言ってよい。 形相と質料とは相関的なものである。鉄という<質料>と相関的な<形相>はコーヒーカップの持つべき必須の本質的特徴であり、それが<実体的形相>と言われる。 黄色のコーヒーカップ:黄色は付帯的形相 ―人間がそれによって人間となる本質的特徴とは知性的な魂だけだー ―人間がそれによって人間であると規定されるのは、それが知性的な在り方(能力と活動)の原理を有していることによるー ―理性・概念は心を映し出す。心のカテゴリーの中に理性やその概念も含まれる。 ―体験や経験に裏付けされる概念は、心のありように反映されるー ―行動は心が体現化されたもの。習慣やならわしは心のカテゴリーに含まれる概念に基づくものであるー 唯物論とは、心とは身体以上のものではないとする考え方 観念論とは、身体(物質)とは心以上のものではないとする考え方 論理的とは、心理的内面は表に現れている物理的・身体的なものに還元されるという考え方 機能主義とは、心は情報入力によって引き起こされ、行動出力を引き起こすという考え方 二面説においては、心と身体はより根本的な実在の分かちがたい二つの側面と見なされる。 現象学的見方では、心は本質的に対象を目指す働きである。 心についての経験的理論とは、脳と思考活動に関与する心とを同一視することである。 心身問題の解決とは、思考とは脳の心的な活動であり、経験とは物理環境の現象学的変換である。 心身問題は、形而上学的な問題ではない。 心身問題は、心と身体の関係を明確に述べようとする問題である。 心身問題とは、思考と脳の関係、意識と脳の関係はどのようになっているのかという哲学的に興味深い問いに対する明らかに誤った呼び名である。 心身問題を解決しようとするときの間違い点 1−唯物論者は、心的出来事は物理的であると主張する 1−観念論者は、物理的出来事は心的であると主張する 1−二元論者は、心的出来事は物理的ではなく、物理的出来事は心的ではないと主張する点は正しいが、インターフェイス(接触領域に関する)問題が存在すると信じている。われわれはいわば脳から思考をはがし取り、形而上学的接着剤を発見するなど決してできない。インターフェイス問題が存在すると信じることは、経験的可能性を論理的可能性と混同することである。 心身二元論とは、心と物体(身体)という二種類の実体だけが存在するという説である。 心は、心の性質だけを持つ非物質的で精神的な実体である。 物体は、物質的な性質だけを持ち、心の性質を持たず空間的な広がりを持つ実体である。 論理的には心は物質的なものではなく、物質的なものは心ではないことになる。 人は心と物体(身体)の両方からなっている。しかし二元論者の多くは、人は本質的には心として存在しており、身体を持っているのは偶然に過ぎないと主張する。 人の存在とは心そのもので、身体の方は所有しているだけだという。 論理的には、身体がなくなっても人は存在し続けられることになる。しかし心が消滅したら人は必然的に消滅することになる。 原理的には、心は身体なしに存在しうるが、身体は心なしには存在し得ないのである。 現代科学の進歩によって、心や魂は存在しないと証明された。と考えるのは大きな問題であろう。逆に、最先端の科学を解する哲学者のなかにとりわけ洗練された思想家でありながら、心的なものの実在を非常に真剣に考える心身二元論者がいる。 二元論と宗教における信仰、とくにキリスト教信仰との関係を見誤ってはならない。 この二つは論理的にはまったく独立である。 二元論は、神が存在しないとしても成立しうるし、逆に二元論が間違っていたとしても神は存在しうるであろう。 二元論と無神論が結びついても、また二元論の拒否と有神論が結びついても論理的に矛盾するわけではない。 魂の不死の教義は、聖パウロ以前のキリスト教には現れておらず、紀元後4世紀のヒッポの聖アウグスティヌスによってようやくしっかりとキリスト教に導入されたに過ぎない。 肉体の死後も非物質的な心が生き続けるという狭義は、キリストの教えの一部ではなかった。キリストは身体の復活を説いた。心身二元論と正統派のキリスト教は論理的に独立であるばかりでなく両立できない。 問い 1−心とは何であるか 2−心と身体との関係はどのようなものか 答え 1−二元論者はみな、心は物理対象と呼ばれるものとは数的にも質的にも異なっている。物理対象とは、物質から成り立っており、固体的で時空間的に広がっており、公的に誰もが観察可能なものである。 心とは何であるかについては、二元論者のなかでも意見が分かれる。もし仮に心が魂であると証明され、そして魂が不死であると証明されたら、身体は死すべきものなのだから心は身体とは別のものであると証明されたことになる。 心とは意識の中心であるという常識的な考え方から、それは非物質的な魂だとする考え方までさまざまなものがある。 デカルトは、心すなわち魂は人間の本質をなしていて身体の死後も不死であるとした。 意識が存在すると主張すれば、非物質的な心が存在すると主張しているからである。意識は確かに存在するとしても、非物質的な心は存在しないかもしれない。双方の主張に論証が必要である。 2−二元論者のなかには、心身のあいだに因果関係が成り立つと考える人もいるが、それを否定する二元論者もいる。 二元論者で心に起こる出来事は身体に起こる出来事と同時的だと考える人もいるが、他の二元論者はこれを否定する。二元論者のあいだで、これだけは心と身体のあいだの関係ではないと意見が一致するのは、同一性という関係である。もし心が身体と同一ならば、あるいは身体のどこかの部分と同一ならば、二元論は明らかに成立しないことになる。 デカルト・ポパー・エクルズらの二元論の理論では、心的原因が物理的結果を引き起こし、物理的原因が心的結果を引き起こすことがありうることになる。この見解は、心身のあいだの因果関係は双方向であるというもので、“心身相互作用説”または単に“相互作用説”として知られている。 随伴現象説:これは心的出来事の物理的原因はあるが、物理的出来事の心的原因はないとする説。 心的なものは物理的なものに因果的に依存する 心的なものは物理的なものに因果的に依存する “二元論は正しいか”と問うと、“正しくない、心理状態は当然のことながら脳の状態によって引き起こされるのだ”と答える。そのため随伴現象説は一種の唯物論であるといわれることが多いが、それは間違っている。 心理状態は脳の物理的状態によって引き起こされると仮定: もしAとBが因果関係にあるなら、AとBは数的に別個のものであることが論理的に帰結する。したがって、心のなかの出来事が物理的な出来事に因果的に依存するとしても、そのことは二元論を承認こそすれ、反駁はしない。 心的出来事は物理的出来事ではない 心的出来事は物理的出来事の心的結果である 実在する実体としてもっとも説得力のある候補者は心的実体と物理的実体である。 デカルトにとって自己は、物理的実体ではないが存在する。したがってそれは心的実体、すなわち心あるいは魂であるはずなのである。 身体についてあてはまるもので、万が一心にあてはまらないと判明したら、心と身体は別のものであるにちがいない。しかし、心にあてはまることが身体にもあてはまり、その逆も成り立つなら心身は同一なのである。 デカルトの見解は、自分の身体の存在は疑いうるが、自分は思惟するものすなわち心であることは疑いえない。というものである。 ライプニッツの法則にしたがえば、心は身体ではなく、心と身体は別個のものであると帰結するように思われる。二元論が成立することになる。 デカルトによれば、物理対象は空間の両方に存在するが、心は時間においてのみ存在する。心は空間的な特徴を持たない。 もし心が空間を占めているとしたら、われわれ皆が共有する公の空間で心と出会うことが可能でなくてはならない。 デカルトは、物理対象についての信念は訂正可能であると主張する。 物理対象についての信念は訂正されうる。われわれ自身の心理状態の存在や性質についての信念は訂正可能である。 デカルトが残した問題:二元論が正しいとしたら、心的実体と物理的実体はどのように因果的に相互作用するのかという問題 これについてのエクルズの結論:ある心的出来事がこれと同一であるとか、あるいは、これの原因とみなされる物理的な(脳の)出来事と同時に生じるかということはない。 心の出来事はそのような脳の出来事に先立つか、または後に来る可能性があるとしている。 心の出来事と脳の出来事を関係づけて、それらが同一だとか因果的に依存しているだとか立証するのは難しい。 類似した心理状態といっても、脳が異なれば質的に異なる神経パターンと結びついていることはあるし、同じ人の脳でもその時々で異なる神経パターンと結びついていることがあるからである。 時間についての論点は、二元論にとって重要である。 デカルトは、神を中心とする中世のアリストテレス的な世界像から17世紀に現れた合理的で科学的な方法へと移行する地点の中心人物である。 デカルト哲学の大部分は伝統的なキリスト教精神の中で受容した長所を、新しい科学による説明の力と調和させることを目指したものとして読まれてよいであろう。 実際に私が存在していることが、私が考えたり発話したりすることの前提条件なのである。デカルトは自分自身の本性が何であるか、アリストテレスの権威に頼らずに自分で検討することにした。 デカルトは“考えるもの”とは“心・理解するもの・すなわち理性”と定義していた。心あるいは魂であることは、思考のさまざまな活動をひとつの自己同一的な自己による活動とすることであろう。 デカルトが“実体”ということで何を意味しているかを理解する必要がある。自分は実体であり、その全本質あるいは本性は思惟することにある。実体の概念も、アリストテレスに源を発している。 デカルトは、実体は二種類しかないと考える。心的実体と、物理的実体である。心あるいは魂は心的実体である。なぜならそれはさまざまな思惟をその性質や特徴として持つからである。物理対象は物理的実体である。なぜならそれは大きさや形のさまざまな特徴を持つからである。 われわれには三種の“原始観念”が与えられ、その一つは他によって説明できぬ。それはまず、“思惟”の観念、次に“延長”の観念、第三に“心身合一”の観念 心身合一は他を借りてではなくそれ自身によって知られる。 デカルトは、心身関係の原始性を全面的に認める。矛盾は、三種の観念を区別せず特に第三のものを、第一や第二によって説明しようとするところから生まれる。 |
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