24/6/2015 upload
仙台モスク(一般社団法人ICCS)
代表 佐藤登氏の手記
東日本大震災のあった2011年に書く



  あの日は金曜礼拝の日でした。私はマスジドに誰もいなくなったので、後片付けやタオルの洗濯をしてから、マイカーの給油のため国道48号線を走行中、あの大地震に遭遇しました。揺れが収まってから、直ぐにマスジドヘ引き返し、被害の状況をチェックしました。本棚や食器棚などなど、転倒や若干の破損はありましたが、津波の被災地に比べたら、極軽微なものでした。

 11日の夜、何人かのインドネシアの男女留学生らはアパートなどへ帰るのが怖いと言ってマスジドヘ泊まりました。さらに、建物内は怖いと言って敷地内に駐車した車で一夜を過ごした者も居りました(たまたま来仙していたモルディブのムスリム)。

 12日この日、昨日の地震による地割れから、敷地内を走っている水道の配管3ケ所から漏水が見られ、応急修理やマスジド内外の後片付けをして過ごしました。夕刻には仙台に居るインドネシアからの留学生とその家族全員が東北大学の留学生会館に緊急招集され、来仙した大使館員の説明の後、チャーターして来たバスなどに分乗して東京へ行ってしまいました(彼らは2日後に帰国したはずです)。他の国の留学生らも数日のうちに、帰国したり、或いは、先ず山形を経由して日本海側を南下し、東京やさらには大阪方面へと避難して行きました。当仙台マスジドを支える会員(20数カ国のムスリム250から300名中)の80から85%位は東北大学の学部及び大学院の留学生ですが、彼らの大半があっという間に居なくなり、帰国できない事情の国の学生らが残った形になりました。(尚、これは、12月のある会議で知ったのですが、(1)東北大学の数多くの建物のうち、あの地震で相当の被害を受けたものもあり、一棟一棟安全確認をする必要があったり、実験設備、機器、資材などの補修、補充が完了するまでに相当時間がかかると予想され、従がって講義再開も大幅に遅れることと(2)多くの避難民を抱えた各避難所に留学生らの外国人が大勢加われば、言葉の問題や風俗習慣の違いから避難民とのトラブル発生の可能性などを考慮して、大学が教授らを通じ、出来るなら一時帰国するよう勧めたようです。)

 このような状況の下、仙台マスジドには私(佐藤)とイギリス人のムスリムの2人がおよそ2ケ月半に亘って泊り込みをすることになったのでした。(もう一人のパキスタンのムスリムは自宅とマスジドを往復しながら約1ヵ月位いて、その後帰国しました。)パキスタン大使館からは14日頃から大使専用車に米、ジュース、食用油等を積載しマスジドヘやって来まして、それらを被災したパキスタンの方々や市民の方へ配布するよう要請して行きました。{3度日には大使自身も来仙し、お見舞いと激励をしていかれました。)相次いで、関東方面から、トルコ、マレーシア、インドネシアなどの救援チームが来仙し、それぞれの同胞(日本人との国際結婚などで自宅にとどまっていた)へ救援物資の配布をして行きました。残った物資はマスジドヘ配布を託していきましたj

 実は、当マスジドにはテレビなどは置いてありませんので、被災地の状況を得るのはラジオからだけでした。しかも、時々断片的に間くだけでしたが、利用できそうな情報は、メモしておいて、どの被災地で何を欲しているかを知って、物資の配布に活用しました。とにかく、皆様のほうがテレビなどで津波の押し寄せるシーンや被災地の状況、被災地で緊急に必要としている物品等はよくご存知だったかもしれません。

 大規模な救援活動を開始なさったのは大塚マスジドさんが最初でして(私が知るのは宮城県内のことだけですが)、救援物資を車に満載して来られ、道案内を依頼された時、私は、兎に角、沿岸部はどこも軒並み被災しているので、宮城県南部の山元町から案内を始め、北は気仙沼市に至る各市町村を順次案内することにしました。以後毎週毎週何便もの満載した救援物資を各地へ送り届けたのでした。(詳細は当該マスジドさんからご報告があると思いますので、私からは、救援物資の選定、物資購入の資金や救援物資の買い付け調達、車や運転する者の動員などなど関わった大勢のムスリム、ムスリマの方々の献身的ご努力に被災地に住む者の一員として感謝と敬意を表したいと思います。)

 震災直後からしばらくの間、被災地に行ける車両は緊急車両(自衛隊や警察等々)か予め緊急車両の許可を得た救援物資輸送車だけで一般車は不可。しかも、現地へ行ける道路は各地で寸断されていたため、被害が比較的軽微だった(それでも、あちらこちらに亀裂や段差がありました)東北自動車道路や三陸自動車道路が使われました。各市町村へのアクセス道路は主要道路を自衛隊が瓦礫を撤去してひらいたもので、場所によっては大幅に迂回したり、従来は地元民だけ使用していた道路を拡張したり、自衛隊の工兵隊による渡河橋だったりと色々でした。

 3月末から5月中旬頃までに、全国各地のイスラム諸団体から様々な救援物資が続々送られてきまして、私たち(最初は3人、後に2入)は大塚マスジドさんが来られない日に、手分けして各地沿岸地域へ救援物資の搬送、配布を行いました。水や食べ物関係の物資はどこでも歓迎されましたが、時の経過とともに、各被災地の救援物資受け入れ倉庫が満杯状態になってくると、衣料品など、特に、古着類は受取拒否にあうこともありました。4月上旬には突然、マレーシアの救援支援団体から10トン車と5、6トン車の2台に満載した物資が送られてまいりましたが、当マスジドの敷地内ヘトラックが入れないため、地主(地元では有名な暴力団)に無断だったのですが、プラスチックシートを隣接地に敷き、その上に野積みし、上にもシートをかけ保管しました。ごれらの物資でも、ラーメンなどを含む食料品関係物資はどこでも,大歓迎されましたが、シーツや南国向けの薄い毛布類は夏ごろまで保管し、配布しました。(兎に角、早急に配布することに必死でした、トラブルを起こしたくはありませんでしたし、雨などで折角の物資を駄目にしたくはありませんでしたから。半分ぐらい配布後残りは、マスジド内に保管しました。)

 大塚マスジドさんが福島県など他県へ救援物資の配布活動を移された頃から、ヒラーマスジドの皆さんが救援物資と炊き出し活動のため見えるようになり、被災各地への道案内を依頼され、ここでも、私が仙台から現地まで同乗したり、運転したりして案内することになりました。ヒラーマスジドさんの場合、炊き出し活動の場所で救援物資の配布も行う活動でしたので、毎回7,8人から10人以上の方が敷台の車やトラックに分乗して来られたので、一時休憩所の当仙台マスジドでは大塚マスジドさんの時もそうでしたが、皆さんコタツの周りに雑魚寝していただいて休んでいただきました。この時は石巻から南三陸町そして気仙沼市方面の避難所への案内が多かったです。私が関わった彼らとの最終回は岩手県の陸前高田市の仮設住宅地での活動でした。

 ここで、炊き出しに関連したお話を若干纏めます。パキスタンのムスリムの方々は震災直後から被災地各地で救援活動をなさっておりましたが、とりわけ、17年前の神戸大震災時でも炊き出しの経験がある方々が今度は石巻で毎日カレーの炊き出しを長期間に亘り行ったと聞きました。戸田マスジドの方々やィスラミックセンタージャパンの方々も炊き出し活動に何度も来られました。私が案内した例で、東京から単身で来られたエジプト人が、東松高市の避難所でカプサというアラブ料理を炊き出したこともありましたし、直接被災地各地に赴いてトルコ料理の炊き出しをしたトルコの方々、マレーシアやィンドネシアの方々が関東方面から何度も来られ、各地(主に石巻や南三陸町)で炊き出しの活動をしておられました。

 5月末から6月初め頃、帰国したり、各地で避難していた留学生らが仙台に戻って来まして、巨大地震発生以前の状態になってきましたが、イランの留学生とかサウジアラビアやカタールの留学生らは、戻らなかったり、大阪の大学などへ変更した学生もおります。帰ってきた留学生らの一部は被災地での泥かきなどのボランティア活動に参加した者もおりました。この頃から、私とずっと一緒にマスジドで頑張ってくれたイギリス人のムスリムは東松島市で泥かきなどのボランティア活動をラマダン入りの直前まで,やって来ました。ボランティア活動をしなかった留学生らも、週末には炊き出しなどの活動をこれもラマダン入りまでやってまじた。

 以上のように、仙台マスジドの行った事と言えば、被災地への道案内と救援物資の受け入れ、それらの配送、配布ぐらいでして、各地の皆様のご努力、ご献身に比べたら恥ずかしい限りです。願わくば皆さんの心が被災地の皆さんに伝わり、彼らの復興への力になってくれれば幸いです。

最後に、福岡マスジドさん、広島のムスリムの方々、大阪マスジドさん、名古屋の子供と女性のイスラームの会さん、群馬県の境町マスジドさんそしてMSAJさんなど全国各地はもとより、世界各地のムスリム諸兄、友人知人らからも実に多くの義損金や救援物資を送っていただいたり、実際に持ってきていただいたり、お見舞いの電話をいただきましたことに対し、被災地の住民の一人として、改めて、衷心より御礼申し上げます。本当に有難うございました。ジャザーカッラーハイラン!!

追加して、どうしても言わせていただきたいことは、あの巨大地震での被害が地震とその後の津波の被害だけなら、(勿論、これらだけでも甚大な被害と多くの犠牲者が出たのは事実なのですが)、多くの外国の皆さんがあのように慌てて逃げ帰ることはなかったのかもしれません。福島の原発被害から派生した重大な問題がその主原因だと思います。そうした中、私達と一緒に国内に留まり、しかも献身的に救援活動をしてくれた外国の方々がいたことを私達日本人は忘れてはならないと思います。
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