聖クルアーンとハディース
(コーランとハディース)
ハディース(預言者ムハンマドの言行録)

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一、スンナとハディースの意義
 ”スンナ”と云うアラビア語は”慣行”の意味である。これについてクルアーンは次のように述べている。

 アッラーの慣行には、何の変更もないことを、なんじらはさとるであろう。(聖クルアーン三三章六二節)

 ”ハディース”とは”云われたこと”とか”報告”とかいう意味で、起こったことの一部または全部ということである。一般的な使い方としては、この二つの言葉は預言者ムハンマドの慣行と生活の仕方(スンナ)と、かれが実行し発言したことの記録(ハディース)を指す。
 スンナは、実際には預言者ムハンマドの預言者としての活動の一部で、教友たちに守られてきた実践行為を指す。預言者の任務と無関係な私的又は偶発的行為は含まれない。したがって、ムスリム(イスラーム教徒)が礼拝の前にウドゥ(水を使った小浄)をしたり、礼拝の順序などはスンナの一例であるが、メディナ市に住んだり駱駝に乗ったりするのは、スンナではない。預言者ムハンマドは人々が行うべき行為(スンナ)とそうでないものを区別していた。そしてスンナは観察や模倣、又は指示によって人から人へと伝えられたものである。
 ハディースは、預言者が云ったり実行したこと、又は他の者の言動に対する預言者の反応を、言葉で伝えた報告又は口伝の言行録である。スンナ(預言者の慣行記録)がハディース(預言者の言行記録)に言及されていない場合もあり、又もちろん何百というハディース(例えぱ預言者の教友たちの善行と神の特質などについてのもの)はスンナには含まれていない。預言者が何か云ったり行動した事を見聞した教友は、それを他の人に伝え、さらにそれを聞いた人は次々と他の人ぴとに伝えた。後世になって、多くのハディース(複数の場合アラビア語で正確にはアハーディース)が編纂されたとき、その一つ一つは伝承者によって、例えば「神の使徒はこのように云われたとオマル・ビン・アル・クハタプが云ったのをCが聞き、それをまたCからBが聞いたとAが云っている…」という具合で、本文がその後にくる。このようなやり方で、これらのハディースを編集した人たちは、預言者について報告された事実だけでなく、それを文字で書きつけたものも集めた。ハディースはすべてその伝承者と同時に、それを裏づける内容が伴わなくてはならない。現代では権威あるハディースの教典が多く印刷されていて、広くこれを求めることができるから、継続伝承者については何も気をつかわずにハディースを引用することができる。
二、スンナとハディースの重要性
 偉大な人物が死んだとき、その人の生き方や事業について、知りたいと思うのが一般感情であろう。このため生前つき合いのあった家族や親戚、友人、共同経営者、知人、あるいは遠くから一度見ただけと云うような人でさえ、故人に関して何らかの報告をするものである。預言者ムハムンドの場合、かれの言動を報告することは、人びとの興味を満足させたり歴史的記録を残すためだけでなく、次の世代のイスラーム教徒の宗教実践のための法的根拠として必要であった。ムスリム(イスラーム教徒)にとって従うべき模範であり、人ぴとの間の審判者、又神の勧告の解説者としての預言者の立場は、クルアーンの各節に明らかにされている。

 まことにアッラーのみ使いには、アッラーと終末の日を切望し、アッラーを多く唱念する者にとり、立派な模範がある。(聖クルアーン 三三章二一節)
 み使いに従う者は、まさにアルラーに従う者である。(聖クルアーン 四章八十節)
 み使いは正義を人ぴとに命じ、邪悪をかれらに禁ずる、また一切のよい清いものを合法となし、悪い汚れたものを禁戒とする。(聖クルアーン 七章一五七節)
 われがなんじにこの訓戒を下したのは、人ぴとに対して下されたものを、なんじに解明させるためである、かれらはおそらく反省するであろう。(聖クルアーン ー六章四四節)

 このようにまず第一にクルアーンが、そして次にスンナが、イスラーム法(シャリーア)の基本であることが明らかとなる。このことは預言者の教友たち、すべてのイスラーム法学者、そしてそれらの後継者であるすべてのムスリム(イスラーム教徒)世代が確認している。
三、ハディースの教典
 イスラームのはじめから、教友たちは預言者を模範とし、その道を歩むためかれの言行を学ぷのに懸命であった。
 預言者の死後、イスラームの力が遠隔の地まで拡がったとき、新しく入信した者たちは同じように預言者についてすべての事を知り、かれを模範にしようと強く願っていた。教友たちは新しい信者たちから預言者について熱心に質問され、時がたつにつれ預言者に関する多くの資料が広く一般信者の間に知れわたった。それが人ぴとの口からロヘと広く伝えられるようになり、ある人たちは自分たちが使う目的で小さな言行録を作った。これらはまだ本とは呼べない程のものだったが、その内容は後に作られた本に加えられた。いくつかの本は預言者の生涯(シーラ)について書いてあったが、これらの本の作者たちは、ハディースの教典に必要な正確な調査と記録を用意しなかった。これらの伝記書の目的は、預言者の生涯の物語りを述べることであったが、ハディースの教典の主目的は審判者、法律家、法律学者、そして一般にはイスラーム教徒すべてに参考資料を提供することにあった。参考書が内容と基準の厳格さにおいて伝記書と異なることは自明の理であろう。この基準については次の第四節で述ぺることにするが、最も権威あるハディースの教典は次の二つである。

一、ポハリー(イスラーム暦一九四〜二五六年)のサヒーハ
二、ムスリム(同二○二〜二六一年)のサヒーハ

 さらに次の四冊も権威あるものと認められており、前期の二冊を加えて「六冊の正統ハディース」と呼ばれている。

三、アブー・ダーウード(イスラーム暦二○二〜二七五年)
四、ティルミズィー(同二七九年没)
五、ナサーイー(同二一五〜三○三年)
六、イブン・マージヤ(同二○九1二七三年)

 この「六冊の正統ハディース」を含めて、すべてのハディース集は編集者の独自の判断により作成されたものであって、学会とか何らかの組織のカで作られたものではない。これは、イスラームにはそのようなものに対して権威を与える組織など存在しないからである。
 すべてのハディースは厳しく調べられ、イスラーム社会で容認されて、始めて権威あるものとして認められたのである。他のハディースの書同様、ボハリーやムスリムにもこの方法が適用された。
四、ハディースの正当性の基準
 預言者ムハムマドについての膨大な言い伝えや記録の正当性を判定するため、特定の基準が定められている。例えばポハリーは、サヒーハの編纂に当って六○万もの話を集めたが、わずか七、二七五だけを取り入れ、又かれのスンナには五○万の話の中から四、八○○だけ採用したと語っている。もっとも、六○万の話とは云っても、そのすべてが違った話ではない。先にも述べたように、それぞれのハディースには二つの部分がある。すなわち、@伝承者のつながり(イスナード)、Aその内容(マトゥン)である。それゆえ集められた話の中で、同じ内容のものについて三人の違った伝承者がいたら、それが三つのハディースと数えられたのである。このように、重複したものがあったとしても、とにかく莫大な数の話が著名な伝承学者(ムハディスィン)の手によって棄却されたことは確かである。かくして、ハディース学(イルムル・ハディース)として知られる研究が徐々に発達していき、それぞれの逸話の真実性を判定するために、次の基準が採用された。
 伝承者の第一の原則は、多くの伝承者のつながり(イスナード)が、最終的にはその事を預言者から直接自分で見聞したという人までさかのぽっていること。第二に、その伝承のつながりの中で、各人の真実性、人となり、その行動、記憶力の正確さ、見聞したことへの理解力、人格の信頼性、教養の有無などの点について、充分に調査確認してあること。何千人という多くの伝承学者(ムハディスィン)たちが、聖預言者の言行を伝えた人たちの生涯についてのあらゆる情報を、一生をかけて集めたが、そのたゆまざる調査の結果、正確な伝記文学(イスマ・アル・リジャール)が非常に発達し、これを通じ人びとはハディースの中に書かれている少なくとも十万人の人たちの生涯について知ることができる。預言者の言動に関する報告(及びその通報者たち)をこのように厳しく審査した理由はきわめて明白であり、審査の基準についてはクルアーンに次のように述べられている。

 信仰する者よ、もしよこしまな者が、情報をなんじにもたらしたならば、それを慎重に検討せよ。(聖クルアーン 四九章六節)

 伝承者の人柄の真実性と信頼性がはっきりした後で、次の原則が通報された内容の信憑性に向けられた。一つの伝承を信用できないと決めるための基準は次の通りである。

(1)クルアーン、スンナ又は健全なハディースに反しているもの
(2)預言者について馬鹿げたことが書かれているもの
(3)一般に良く知られている証拠と相反するもの
(4)これまでに観察されている事実と違っているもの
(5)もしそのような事実が現実にあったのなら、何百人という多くの人ぴとがそれを見聞きしたはずであるのに、実際にはただ一人だけがそれを報告しているようなもの
(6)あまりにも低級な言葉が使われているもの
(7)未来の事について、特定の日時を挙げて予言してある事項
(8)小さい過ちに対し、過重な懲罰について述べてあるもの
(9)些紬な行為に対する過大な報酬について述べてあるもの

 これらの基準はすべて、預言者の教友たちの前例に基づいて定められたものである。例えば、オマルのカリフ時代にファーティマ・ビン・グアイスという一人の女性が、オマルに対して、「わたしの夫がわたしを離婚したとき、預言者はわたしの夫に対して、私の離婚手当を払うように命じられませんでした」と告げたが、カリフのオマルは「記憶がはっきりしているかどうかわからない一人の女性の言葉だけで、神の経典や預言者のスンナを離れるわげにはいかない」と去った。さらにイプン・オマルに基づく伝承を聞いたとき、アーイシャはそれを認めず、「なんじやなんじの伝達者は嘘を云わないが、人には時として誤解もある」と言った。

五、ハディースの分類
 ハディースは普通次の三つのグループに分けられている。

(1)サヒーハ(確度優秀)
(2)ハサン(確度良好)
(3)ダイーフ(疑わしい)又はサキーム(不確実)

 ボハリーとムスリムの編纂したハディースはすべて、サヒーハであるとされている。又ボハリーとムスリムが集めたものでなくても、この二人の伝承学者の一方か、又は双方が定めた条件を満したものもサヒーハとされる。ハサンとされるハディースは、その出典の根拠がよく知られており、伝達者(イスナード)が信頼できる人として人びとに知られており、また伝達された話をほとんどの学者が認め、法学者・裁判官そして法律家が使用したものである。ハディース・ハサンは、法律学のイスラーム方式での法的決定の有効な根拠として認められているものであり、一方ダイーフのハディースはそうではない。しかし、ダイーフと呼ばれるハディースのすべてが拒否されるわけでもない。ダイーフの中でも、人びとに善行をなすようにすすめたものとか、ある事件の附随事件について語っているものは採用される場合もあり得る。アブー・ダーウードは、自分が扱った何かの事を明示するのに、他に何も資料がないとさは、しばしばダイーフを使用している。
 ダイーフにはいろいろの等級があり、その中には必要に応じて使えるものとか、伝承者が中間で不明になっているものとか、あるいは不正に報告されたり、又は全くの作り話であったりするものがある。
 これ以外に数多くの伝承を表わすのに使う特別の名称もある。すなわち、ガーリブ(ハディースの中ではほとんど使われていない言葉を使ってあるもの)、マウクーフ(伝承者−イスナード−が教友の一人のところで止って、それ以上預言者の実際の言行まで達していないもの)などである。
六、ハデイースの内容
 ハディースの主題は広範囲にわたり、導きを必要とするほとんどすべての問題を扱っている。ボハリーはかれのサヒーハを九七巻に分けている。

三巻は啓示の初期、信仰と知識に関するもの。
三十巻は斎戒沐浴、礼拝、喜捨、巡礼及び断食に関するもの。
二十二巻は商売、受託者の地位、顧用及び法的事項に関するもの。
三巻はジハード(神の道のために努力警闘すること)及ぴズィンミー(非イスラーム教徒に関する件)について。
一巻は万物の創造に関するもの。
四巻は預言者とその教友たちの善性に関するもの。
一巻は預言者のメディナでの生涯。
二巻は聖コラーンの各章の注釈。
三巻は婚姻、離婚及び家族の取り扱い方に関するもの。
二十六巻は食料、飲料、衣服、日常の作法、誓約など多くの事項に関するもの。

 ボハリーのサヒーハ第九六巻は、クルアーンとスンナを信奉することの重要性を強調しており、最後の巻は内容が長く、神の唯一性を扱っている。
七、ハディースからの抜粋
(1)信仰
 信仰には七十以上の分野があり、その最高のものは「アッラーの他に神はなし」と言明することであり、最下位のものは「道から危険な物を取り徐く」というものである。又、謙譲の念も信仰の一つの分野である。真のイスラーム教徒とは、その言動から他のイスラーム教徒が安全である、という人のことである。

 アブー・フライラは次のことを報告している。一人のアラピア人が預言者の許に来て、「私が天国に昇るためには、どんな行為をすればよいのか教えて下さい」と云った。それを聞くと預言者は、「アッラーに仕え、かれと同列に何ものも配してはならない。定めの礼拝を行い、義務としての喜捨を支払い、そしてラマダーンには断食をせよ」と答えた。アラピア人は「み手の中にわが魂を所有される方に誓って、わたしはそこに何ものも加えず、又そこから欠落しない」と言明した。そして、アラビア人が立ち去って行ったとき、預言者は「天国へ行く人を見たいと思う者があれば、この人を見るがよい」と云った。
 わたしが宗教に関して何か指示したならば、それに従いなさい。しかし、私の意見として何か云った場合、私はただ一人の人間にすぎない。わたしが死んだ後、諸君に二つのものを遺すであろう。もし諸君がそれを確実に守るならば、正しい道からそれることはない。一つは聖クルアーンであり、もう一つはわたしのスンナである。

(2)知識

 二通りの人だけをうらやんでもよい。すなわち、神から財を与えられて、それを正しいことに消費する者と、神から知恵を与えられそれに基づいて行動し、それを人びとに教える者である。

 知識を求めて出た者は、帰りつくまで神の道にある。

 諸君が知っている以外の、わたしの言行録については注意せよ。わたしについて虚偽を伝える者は、間違いなく地獄に堕ちる。

 諸君の中で、最も善良で偉大なる者は、聖クルアーンを学び、それを他の人ぴとに教える者である。

(3)礼拝

 イブン・マスウードは次のように云っている。わたしが「どのような行為が神に一番めでられることでしょうか」と預言者にたずねたら「正しい時刻での礼拝である」と預言者は答えられた。その次は何でしょうかと聞くと「両親への孝行である」と云われました。わたしがさらに、その次は何でしょうかと聞くと「神の道に努力することである」と預言者は答えられた。

 人と不信心との間にあるものは、礼拝の放棄である。

(4)中庸の道

 神のみ心に最もかなった行為とは、例えわずかな事であっても、規則正しくなされたことである。

 自分で実行できる行為を選ぴなさい。神は決して疲れることはないが、あなた方は疲れるからである。

(5)仕事

 神の命ずることを遵守し、正しく正直な収入を得ることは、人としての第一の務めである。
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