イスラーム入門シリーズ
聖預言者ムハンマド

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十三、ヒジュラ(マディーナへの脱出)
 クライシュ族が、絶望のあまりムハンマドを暗殺することによってメッカでの布教をやめさせようと決意したのは、ムハンマドがアッラーのお告げを受けてから十三年目のことでした。
 バヌー・ハーシム家からの復讐を恐れて、暗殺者はそれぞれの部族から一人づつ選ばれ、ムハンマドを殺害した時でも一つの部族だけがその責任をとらなくてもいいようにされていました。それはバヌー・ハーシム家だけでは、すべての部族と同時に戦えないと判断したからです。しかしアッラーは、暗殺者たちの隠謀をムハンマドに啓示していたので、彼は無事に脱出できたのです。クライシュ族が預言者暗殺を計画した夜、彼等がムハンマドの家を包囲した時、彼は従弟のアリーに自分の代わりにベッドに寝ているように頼みました。このような危険がさし迫った時でもムハンマドは、他人からあずかった品物を持ち主にかえすようアリーに依頼することを忘れませんでした。このことは、ムハンマドがたとえ非イスラーム信者からでさえ、自分に寄せられた信頼はあくまでも尊重しなくてはならないという例を示しています。
 それからムハンマドは家を出て、待ち伏せている暗殺者の間をぬって抜け出したのですが、ちょうどその時、アッラーの恵みによって、暗殺者達はわけのわからぬ眠りに襲われ、ムハンマドが通ってゆくのをまったく気づきませんでした。その後彼等は、ムハンマドの寝室に忍びこみ、そこに寝ていたのがムハンマドではなくアリーであることを知ると、激しく激怒しくやしがりました。しかしその時すでに預言者は、信頼する友人アブー・バクルと共にマディーナへの道を急いでいたのです。警鐘が打ちならされ、クライシュ族は預言者に追手をかけました。追われる預言者とアブー・バクルの二人は、夜を徹して歩き続けましたが、日が昇った時にサウルの洞穴に着き、休息と追手から身を守るため洞穴の中に入りました。クライシュ族の一団が洞穴の入口に着いた時、洞穴は荒れ果てとても人がいるけはいなどなかったため、彼等は中に入いらず通りすぎていきました。アブー・バクルはこの危機に直面して、ただおろおろとあわてふためいていましたが、預言者は「心配することはない。アッラーは、われわれと共にいましたまう」(クルアーン第九章第四十節)と言って、アブー・バクルを力づけました。アッラーの慈悲を信じる者は、決して恐れたり自信を失ってはならないのです。それは、アッラーこそが信じる者にとって最高で最強の保護者であるからです。
 クライシュ族が、ムハンマドを生死にかかわらず捕えたものには駱駝百頭を報酬として与えるという懸賞を出したので、多くの人は、懸賞金ほしさと復讐のためにムハンマドを捕えに出かけてゆきました。しかし誰一人として捕えることはおろか、傷つけることさえできませんでした。かくして二人は、無事マディーナに到着することができました。
 クルアーンではこのメッカ脱出について次のように述べています。
 「……かれら(不信心の者たち)は、策謀したが、アッラーもまた計略を整えたもう。まことにアッラーは、もっともすぐれた計略者であられる。」(クルアーン第八章第三節)
十四、イスラーム暦
 イスラーム暦は、ムハンマドがメッカからマディーナへ脱出した年を紀元一年と定めています。イスラーム暦は、ヒジュラ一年の一月一日から始まるのですが、これは西暦六二二年七月十五日にあたります。
 人生の中で一番大切なものは、その人の生死にあるのではなく生存中の行為にあるのです。それゆえムスリムの時代は、ムハンマド誕生の日から始まったのではなく、イスラーム史上もっとも意義ある事件のあった時から始まっているわけです。このマディーナへの脱出こそ、イスラームの成功と発展のための大きな転機となった日なのです。
十五、マディーナでのイスラーム社会
 預言者とアブー・バクルは、マディーナに着くやいなや多くのムスリムの大歓迎を受けましたが、これらの人々の中には、マディーナ市民のほかに預言者よりも先に家族と共にメッカを脱出してきた多くのムスリムも含まれていました。
 マディーナの人々は、預言者が自分の家に来て住んでくれることを心から願っていたので、預言者は、誰か一人の家に住むことを決めて他の人を悲しませたりしないように、自分の駱駝の手綱をはなして自由にマディーナの市街を歩かせ止まった所に住むことにしました。おそらくアッラーの導きによるものと思われますが、駱駝は二人の孤児の所有している空地にとまり、そこで草を食べはじめました。預言者は、その場所に住むことを決め、二人の兄弟に土地の代価を支払い、そこに預言者の住居を兼ねたイスラームで最初のモスクを建てたのです。これは、ずっと後世までこのモスクを含めたすべてのモスクは、アッラーへの礼拝の場としてだけでなく、家のない者や旅行者の宿泊所とか一般事柄を討議する集会の場所になったのです。
 マディーナへの到着後まず最初に必要となったのは、メッカからの入国者の生活必需品の供給でした。これらのムスリムたちは、自分の財産のほとんどすべてをメッカに残したままになっていたので、マディーナでの生活手段や住居が決まるまでは、多くの援助が必要だったのです。
 アンサール(援助者)という名で呼ばれるようになったマディーナのムスリムたちは、イスラームのために、家族の絆も家も財産もすべて投げ出してメッカからのがれてきたムスリム同胞と兄弟の契りを結び、喜んで財産をわけ与えたのです。このようなマディーナ市民の同胞愛によって、この新旧二つのグループは互いにうちとけ合い、一つの社会共同体を形成していきました。ムハンマドとその教友達は、ようやくクライシュ族の絶えざる迫害からも逃がれて安全な日々を送れるようになったのです。
 むろん多くの不信心者達(クライシュ族)は、なおもムハンマドとそのイスラーム社会の破壊を意図してはいましたが、マディーナまでは三二〇キロも離れているためメッカにいる時のような具合いにはいきませんでした。マディーナでの預言者の布教活動は最後の段階に入り、天恵の道に基づいたイスラーム社会の建設に移っていました。
 預言者がメッカで受けた啓示は、信仰に関するものが主でしたが、マディーナでのそれは、人間行為のあらゆる面に関するきわめて広範囲なもので、飲食物からはじまり結婚と家族生活、道徳と作法、取り引きと商業、平和と戦争、罪と罰等に関するものでした。ただ預言者に啓示された特別な訓戒や教義は、すべて普遍的なものではありますが、実際にそれを預言者からきいて行動に移したのは預言者の高弟達でした。
 ムスリムの共同体を一つの社会組織として作りあげる事は、最初はクライシュ族の妨害のため非常に困難でしたが、マディーナにおいては、預言者はそれぞれの信者の共同体をまとめて一つのイスラーム社会を作り上げることに成功したのです。

 イスラームは、単なる信仰でもなく個人的な儀式でもありません。イスラームは、各個人と共同体のための生活の道であり、人生のすべての面が、その規範と慣習、とに規制されているものなのです。良い共同体はそれによって良い個人をつくり、また反対に良い個人の集まりは良い共同体をつくることになり、個人と共同体が互いに他方から影響されているのです。しかしイスラームの共通の信仰と生活用式によって、信者達が団結し一つの強固な組織をつくりあげても、まだ彼等は、多くの敵から脅威を受けていました。また異なった部族の中にも、ムスリムを迫害し、また裏切ってクライシュ族と共謀したりしてムスリム社会を破壊しようとする人らがいたのです。このように不平分子に対抗しムスリムの共同体は、常に防衛を固め、時にはそれらの敵に対して何らかの手段を講じなくてはならないこともありました。さらにクライシュ族は、この真実と正義を愛する人々を抹殺しようと考え続け、ついにはムスリムと一戦交えるために武器をとって立ち上がったのです。

 イスラーム暦二年、突如重武装したクライシュ族の部隊一千人がマディーナにむかって進軍してきました。この部隊は、貧弱な武器しか持たないまにあわせの三百人のイスラーム軍とバドルで遭遇しました。クライシュ軍は、数と武器の点ですぐれ、また策略にもたけていましたが、イスラーム軍は、アッラーの加護を受け、クライシュ軍をしりぞけました。この戦いは『バドルの戦い』と呼ばれます。この勝利によってムスリムたちは、道徳的精神的に自信をもち、クライシュ族の野望を一時的には撃退することができたのです。

しかしわずか一年後には、彼等はムスリム攻撃のため再びマディーナへ軍を進めてきたのです。この時は、クライシュ軍は戦いでは勝利を得ましたが、イスラーム側は最後には彼等を追い返すことができました。この会戦は、「ウフドの戦い」といわれています。その後クライシュ軍は、マディーナを包囲し、数週間にわたって兵糧攻めにかかりました。その間食糧は極度に欠乏し、人々は胃の上に石をしばりつけ空腹に耐えながら抵抗しつづけました。しかしアッラーは、ムスリムに味方し、遂にクライシュ軍を撃退したのです。
 ムスリムはきわめて精神堅固で、自己の生命さえ借しまずイスラームのために喜んで死んでいきました。アッラーは、信者達に正義と正道を守るために戦うように命じられたので、彼等は自分の力と資財のすべてを捧げて、アッラーの呼びかけに応えたのです。このイスラームの道のため闘うことを、ジハード(聖戦)といいます。ジハードとは、イスラームのために奮闘するという意味ですが、これは単に戦場で戦うことだけでなく、もっと広義の意味があるのです。ジハードとは、自分の時間、力、財産、才能、および人生のすべてを捧げてアッラーのために献身することをいうのです。

 晩年になってから預言者は、大国の首長になりましたが、それでも彼の生活はきわめて質素で厳格なものでした。預言者とその家族も、時には日用品さえ不足することがありました。彼のすべての言動はイスラームの生きた例証であり、彼の教えと生活態度を通し人々は自分達の心をしっかりとアッラーに結びつけたのです。預言者の言動は彼の高弟達の手で正確に記録され、ハディース(預言者言行録)として編集されて今日まで伝えられてきたため、現代の我々はこれを見て自らの生活の規範にすることが出来まことに幸運といわねばなりません。
十六、メッカへの再入城
 イスラーム暦七年に、フダイビーヤ協定がクライシュ族との間で締結されました。その頃すでにクライシュ族は、ムスリムの強大な力におそれを抱きはじめていました。ところで、この協定の条項にしたがって預言者(かれの上に平安あれ)とその教友たちはアッラーの聖なる神殿カアバへの巡礼を行うためメッカに向いました。しかし、翌年にはクライシュ族がこの協定に違反したためこのフダイビーヤ協定は、わずか一年で破壊されてしまったのです。

 しかし、多くの信者をひきつれた預言者はクライシュ族の永年の敵対行為を永久にやめさせるために、もしできれば血を流さずにこの目的を達しようと、メッカに向って進軍を開始したのです。これに抵抗することが今では不可能であると判断したクライシュ族は、ムハンマドの軍門にくだり、預言者はかつて自分が最初にアッラーの啓示を人々に伝えた思い出の街メッカに無血入城したのです。
 かれはカアバ神殿に入り、唯一の神アッラー、絶対無比の神アッラーの神殿を永年にわたって汚してきたすべての偶像を破棄してしまいました。
 預言者とその教友たちを長い間迫害しつづけた預言者の敵たちは、今や敗者として彼にあわれみを請い、彼からの懲罰が下るのを待っていました。預言者(かれの上に平安あれ)はこのたびムスリムに与えられた勝利をアッラーに感謝したのち、おそれおののくメッカの人々に「今わたしが、おまえたちに何をしようと考えていると思うかね」とたずねました。かれらは不安そうに「気高いお方と、気高いお方の子供であるムハンマド様、すべてはあなた様の意のままに……」と答えました。全世界の人々への慈愛と救いとをもたらした預言者ムハンマドは、「今日お前達には、なんのとがめだてもしない。みな自分の家庭に帰りなさい。お前達はみな自由なのだ。」告げられました。このようにして、預言者は降伏した敵の扱い方をすべてのムスリムに示されたのです。
 その後二年の間、すなわちイスラーム暦の十年までに、ユダヤ教徒やキリスト教徒を含めて数多くの人々がイスラームに入信しました。イスラームの教えを受け入れなかった人たちも平和に安全にそして充分な保護のもとに、安らかに生活を送りました。
 これはクルアーン第二章、第二五六節にも述べられているとおりです。
 『宗教には強制があってはならぬ。』と。
十七、ムハンマド最後の巡礼
 預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)は、イスラーム暦十年に最後の巡礼を行いました。かれがイスラームの布教を始めてからわずか二十四年しかたっていなかったのですが、預言者のこの最後の巡礼に従ってメッカに入った信者は実に二万四千人の多数におよんでいたのです。これまでのどの預言者もこれほどの奇跡的大成功を収めたものは一人もありませんでした。わずか十一年前にはメッカよりのがれ、その首に賞金をかけられていた一人の男が、今や全アラビアの指導者となったのです。

 この巡礼の時にかれが人々に与えた「最後の垂訓」は、これまでのかれの布教の総仕上げでもありました。かれは神の唯一性、アッラーの教えの尊厳、来るべき最後の審判の日、女性への尊敬の気持ちおよび生命と財産の重要性を強調して次のように述べたのです。
 「イスラームの信者は、すべてお互いに同胞であることを知れ。おまえたちは、みな一つの同胞として結ばれている。わたしはおまえたちと共にある。おまえたちが、アッラーの啓典クルアーンと、アッラーの使徒の言行にしたがえば、決して道を誤ることはないであろう。」

 この時かれは、アッラーからの最後と思われる啓示を受けたのです。
 「われは今日ここになんじらのために、宗教を完成し、これによっておまえたちに対するわが恵みを完全にした。われはおまえたちの宗教としてイスラームを定めた。」(クルアーン第五章 第四節)
十八、預言者の死
 預言者(かれの上に平安あれ)はついに病いに倒れ、一時快方に向いましたが、次第に病状は悪化し、かれの力も急速に弱まってきました。イスラーム暦三月十二日月曜日の朝(西暦六三二年六月八日)、ささやくような祈りの言葉と共に最後の預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)の魂は「栄光ある天上のアッラーのみもと」へ召されたのです。

 『まことにわたしたちはアッラーのもの、アッラーにわたしたちは帰るのだ』(クルアーン第二章 第一五六節)

 マディーナの人々は深い悲しみに包まれ、とくに預言者(かれの上に平安あれ)の教友の一人であったウマルは、悲しみのあまり預言者の死を信じようともしませんでした。かれがモスクへ入ると、たまたま多くの人々が礼拝をささげながら預言者の死について語り合っていました。その時ウマルは「預言者がなくなられたなどという者は、だれでもこの俺が殺してやる。」とどなりつけたのです。ウマルは預言者に最も身近かな存在でありまた教友の中でも重要な人物だったので、人々は恐れおののきただオロオロするばかりでした。人々の間には混乱が生じたのですが、教友の一人アブー・バクルが、「もしおまえたちが、ムハンマドを礼拝の対象とするならば、かれはほんとうに死んでしまったのだ。しかし、おまえたちがアッラーを信仰するならば、アッラーはいまでも生きておられ、決して死なれることはない」といって、人々を真のイスラームの道に引き戻したのです。
十九、結語
 聖預言者(かれの上に平安あれ)は、世の人々への最高の模範としてその全生涯を送りました。かれは人間の行為の全般にわたって一つの革命をもたらしました。
 無統制で弱いアラビア人たちが、イスラームに入信し、それぞれの場所においてイスラームの教義を守り、高貴で完成された人間へと変わっていったのです。
 預言者(かれの上に平安あれ)の生涯は、クルアーンの教えを実際に身をもって示したのです。かれこそ後世の人びとの模範となる最高の人物でした。 預言者は神でもなく、また神の子でもありません。他のすべての預言者達と同じように一人の人間でした。ただかれは、神の最後の預言者として全人類に救いの道を示しました。クルアーンの中でも次のようにムハンマドを称しています。

 「まことにアッラーのみ使いには、アッラーと終末の日を切望し、アッラーを、多く唱念する者にとり、立派な模範がある。」(クルアーン第三三章 第二一節)


 「まことにアッラーと諸天使は預言者を祝福する。信ずる者よ、彼を祝福し、尊敬せよ」(クルアーン第三三章 第五六節)

 神の最後のみ使いである聖預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)が、われわれに示された正しい教えに従って、イスラームの道を正しく歩むための、智恵と力とをおさづけ下さるよう、アッラーにお祈りいたします。
二〇、預言者ムハンマドの伝承集
○人の行為は、そのもととなる意志によって、その善悪を判断される。
○親から子への最高の賜り物は、子供への教育である。
○アッラーの喜びは、両親の喜びの中にあり、アッラーの不興は、両親の不興の中にある。
○幼い者に慈愛の心をもたず、年長者を尊敬しない者は、われわれの仲間ではない。
○知識を追求することは、イスラームの信者すべての義務である。
○ムスリムの中で、もっとも信仰の厚い者は、礼儀作法がもっとも正しく、自分の妻をもっともよく扱う者である。
○アッラーの目から見て、許されているもののうち、もっともいむべきものは離婚である。
○アッラーの手によってのみ、わが命はある。自分を愛すると同じように、兄弟を愛さなければならない。それ以外は、イスラームの信者ではない。
○ムスリムとしての真実のあかしは、自分の関係のないことには余計な関心を払わないことである。
○人は死んでも、次の三つは残る。その人が死んでも引続き行なわれる慈善、後世の役に立つ知識、及び彼のために祈る心の正しい子孫である。
○まことにアッラーは清純であられ、また清純なる者を愛される。アッラーは慈悲深くあられ、また慈悲深い者を愛される。
○アッラーは寛容の方であらせられ、また寛容の者をめでたまう。
○まことに謙遜と信仰とは、相伴なうものである。一方が失われれば、他方も失われていく。
〇一人でいることは、悪い友を持つよりはよい。良い友を持つことは、孤独でいるよりはよい。正しい事を行なうことは、沈黙よりもよい。悪業を行なうよりは、沈黙を守る方がよい。
○善行を説く者は、それを実践する者と同じ立場にある。
○アッラーからの恵みは、二つあるが人々の多くはそれを知らないでいる。すなわち健康と余暇である。
○宗教は、すべての暴力に対する抑制である。ムスリムは決して暴力をふるってはならない。
○アッラーが最初に創造したもうたものは、知性である。
二一、本書での人名、地名およびアラビア語の説明
○ヒジュラ(Hijra)預言者ムハンマドのメッカからマディーナへの脱出。この年をイスラーム暦では、元年と定めています。(西暦六二二、七月一五日)
○アブドゥッラー(Abdullah)預言者ムハンマドの父。ムハンマドの生まれる六ケ月前にすでに死亡していました。
○アミーナ(Amina)預言者ムハンマドの母。預言者六才のときに死亡。
○バヌー・ハーシム(BanuHashim)預言者の出身の家系で、聖地メッカでの名門の一つとして知られています。
○クライシュ(Quraish)アラビアの部族の一つで、ムハンマドの布教にたえず迫害を加えたが、イスラーム暦八年についに預言者ムハンマドに降伏した。
○カーバ神殿(Ka'abah)預言者アブラハムが最初に建立した聖なる神殿。
○ヒーラの洞穴(CaveofHira)メッカ郊外の洞穴で、預言者ムハンマドは、いつもこの洞穴にこもって瞑想にひたりました。
○アル・アミーン(al-Amin)アラビア語で、「正直者」とか「信頼できる人」という意味で、預言者ムハンマドは青年の頃、メッカの人々からそう呼ばれるほど誠実な人でした。
○ハディージャ(Khadija)メッカで商売を営む裕福な未亡人で、ムハンマドはもと彼女の使用人であったのですが、彼女はムハンマドの人物を見込んで自分から結婚を申し込みました。彼女が四十才、ムハンマドが二十五才の時のことであります。また彼女は、イスラームに入信した最初の人としても知られています。
○アーイシャ(Aisha)ムハンマドは、妻ハディージャの死後多くの女性と結婚しましたが、その大部分は未亡人や離婚した女性でありました。そのうちアーイシャだけはそうではなかったのです。
○ラマダーン(Ramadan)イスラーム暦の九月で、断食月ともいわれています。ムハンマドがミアラージュ(昇天)したときに、アッラーより断食の啓示をうけたといわれています。
○ライラトゥル・カドル(Lailat-ul-Qadr)みいつの夜。ムハンマドが四十才の時、かれはヒーラの洞穴で、この大天使ガブリエルを通して初めてアッラーの啓示を受けたのです。
○イクラア(Iqraa)アラビア語の「読め」という意味で、天使ガブリエルが最初にムハンマドに話しかけた言葉です。
○ハディース(Hadith)預言者の言行録。クルアーンに次ぐイスラーム法の法源とされています。
○アリー(Ali)ムハンマドの従弟で、預言者の妻と同時に、最初期にイスラームに入信した人の一人であります。
○ザイド(Zaid)ムハンマドによって解放された奴隷で、最初の入信者の一人です。
○アブー・バクル(Abu-Bakr)最初の入信者の一人で、ムハンマドとは親友同志の間柄で、マディーナ脱出のときから、預言者の一生を通して、その教友として行を共にしました。
○ウスマーン(Othman)最初の入信者の一人で、預言者に従った教友の一人です。
○タルハ(Talha)アブー・バクルやウスマーンと同じ頃に入信し、生涯を預言者の教友としてすごした人です。
○サファー(Safa)メッカ高外の小高い丘。ムハンマドがイスラームの布教をはじめてから三年目、アッラーの啓示によってこの地ではじめてメッカの人々の前で公開の布教を行なったのです。
○ビラール、アンマール、ハッバブ(Bilal、Ammar、Khabbabb)三人ともイスラーム初期の入信者で、クライシュ族により灼熱の砂漠で、死の拷問を受けた人たちです。
○ターイフ(Taif)メッカ郊外の地名で、ムハンマドはこの地で布教活動中に、クライシュ族に石で打たれ、重傷を負ったのですが、それでもかれは「アッラーよ、かれらに正しい道を示したまえ、かれらは何をもわからないのですから」といわれたのです。
○アビシニア(Abysinia)今のエチオピアのことで、イスラームの初期、多くの信者がクライシュ族の迫害を逃れて、この地へ脱出しました。当時イスラームの信者は、この地で充分な保護を与えられました。
○ハムザ(Hamza)預言者の叔父であり、また乳兄弟であった教友。預言者の高弟の一人。
○ウマル(Umar)ハムザと同時期に入信した人で、ムスリムとして、はじめてカアバ神殿で礼拝を行ったことで、イスラーム史上画期的な人物とされています。
○シュアーブ・アブー・ターリブ(Shuab-Abu-Talib)預言者ムハンマドの属するバヌー・ハーシム一族がメッカの人々からボイコットされ、難をのがれて隠れ住んだ土地。メッカ郊外にあり、彼等はここで言語を絶する苦難の生活に耐えたのです。
○ミアラージュ(Mi'raj)ムハンマドの昇天で、彼がアッラーの恵みにより、天国を見たことを指しています。
○サウルの洞穴(CaveofThaur)ムハンマドが、メッカからマディーナへ脱れる時に、その教友の一人アブー・バクルと共に隠れて、クライシュ族の暗殺者から難をのがれたところです。
○ムハッラム(Muharram)イスラーム暦の一月。この一月一日が、イスラーム暦の最初の日で、これは西暦六二二年七月十五日に当ります。
○アンサール(Ansar)アラビア語で「救援者」の意味。ムハンマドと共にマディーナへ逃れた多くのムスリムに生活の資や住居を与えて、暖かく迎えた当時のマディーナ在住のムスリムのことを人々はこう呼んでいます。
○バドゥルの戦い(BattleofBadr)イスラーム暦二年に、重武装した一千のクライシュ軍を貧弱なわずか三百人のイスラーム軍が打ち破ったマディーナ郊外の戦いを指します。
○ウフドの戦い(BattleofUhud)バドゥルの戦いから一年後、クライシュ族が、マディーナに再び来襲した時、これを迎撃したイスラーム軍との間でおこなわれた戦いで、この時はイスラーム軍が敗退し、以後マディーナは数週間の間、敵の包囲下にありました。
○ブダイビーヤ協定(TreatyofHudaibiya)イスラーム暦七年にクライシュ族とムハンマドとの間に結ばれた和解の協定ですが、クライシュ族の違反により、翌八年に破棄されました。
○ヒジュラ暦(イスラーム暦)西暦六二二年七月十五日をイスラーム紀元元年と定めたイスラーム暦のことで、ムハンマドがメッカからマディーナへ聖遷した年です。
○最後の垂訓(LastKhutba)預言者は、イスラーム暦の十年、彼がイスラームの布教をはじめてから二十四年目にメッカへ最後の巡礼をしました。この時彼に従った信者は、十一万四千もあったといわれています。そこで預言者は、人々に最後の説教をして、神の唯一性を強く説いたのです。
○ラビーウル・アウワル(Rabi-ul-Awwal)イスラーム暦の三月で、その月の十二日の期預言者ムハンマドは永眠されたのです。この日は、西暦六三二年六月八日に当ります。
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