統計から見た日本のイスラーム
2010/4/28
あぶ管理人
はじめに
 1891年アブドルハリーム野田氏の入信を日本イスラーム元年とするならば、約120年の時が流れたことになる。その間にさまざまな出来事がありムスリムは増加してきた。そして最も大きな波が1985年ころから押し寄せてきた。わずか二十数年前のことである。それ以降、ムスリムは急増し、マスジドも各地で名のりをあげるようになった。この近年におけるムスリムおよびマスジドの増加の推移と現状とを統計を交えて見ていこう。
1. 近年のムスリム増加の推移
 1969年日本ムスリム協会発行の機関紙に、日本のムスリムの数は、日本人と外国人ほぼ同数であると記載されていた。そして、当時のムスリムは東京と神戸の2つのマスジドに収容できるほどの数しかいなかったようである。
 その後、ムスリム数は緩やかではあるが増加の一途を辿っていた。1982年アラブイスラーム学院の開校、イスラミックセンタージャパン本部ビルの開館と日本のイスラームにとって待望のイスラーム情報発信の拠点が相次いで完成することにより、よりよい環境を得ることができるようになった。折も折、1985年頃からバブル景気が訪れた。(表1参照)その時に第1波として海外からムスリムたちが多数流入してきた。さらに、第2波、第3波と間隔をおいて波が押し寄せるたびに、日本のムスリム社会はかつてない規模で膨張していくことになった。
 表1 日本のイスラーム関係年表

1935年 神戸マスジド建立
1938年 東京ジャミイ建立
1952年 日本ムスリム協会設立
1966年 イスラミックセンタージャパン設立
1982年 アラブイスラム学院開校
1982年 12/17 イスラミックセンター本部ビル開館
1985年 バブル景気、南アジアからの労働者流入(第1波)
1985年 新月委員会発足
1986年 旧東京ジャミイ解体
1988年 イランイラク戦争終結
1990年 バブル崩壊、イランからの労働者流入(第2波)
1991年 一ノ割マスジド開堂・・・・ムスリムたちの募金で物件購入
1992年 Islamic Circle of Japan の設立
1994年 松山MICC礼拝所・・・留学生が中心になって開堂
1994年 Islamic Trust of Japanの設立
1995年 伊勢崎、日向、境町など関東地方で次々とマスジドが開堂
1995年 インドネシアからの労働者流入(第3波)
1997年 5/21 イスラムのホームページ公開
1998年 新東京ジャミイ開堂。
2001年 3月富山コーラン破棄事件。富山と東京でムスリムのデモ行進。
2001年 9.11事件勃発により、各地のマスジドの監視はじまる。(この時点で24マスジド)
2001年 10月アフガン攻撃。
2003年 3月19日アメリカ合衆国と有志連合のイラク侵攻。
2009年 すべての地方に2個以上のマスジドができる。
[第1波:南アジア諸国からの流入]
 仕事口が豊富な上、高収入が得られる日本は魅力的で海外から多数の労働者が押し寄せてきた。その中にはイスラーム圏からの労働者も含まれていた。特に目立ったのは、査証免除国であるパキスタンとバングラデシュからの入国である。しかし、査証免除といえども、原則的に観光などを目的とする短期滞在に対して免除されるものであって、就労する場合は資格外活動ということになり違法である。にもかかわらず、当時は、資格外活動、不法残留による就労のケースが多数あったと想像できる。そして、ついに外務省は、バングラデシュ人、パキスタン人については1989年1月15日以降査証免除措置を一時停止するという抑制策を打ち出した。その結果、1990年は両国からの入国者は激減し、また、それ以降不法就労者も減少したようだ。


 表2、1985年〜1990年の約5年間のパキスタン人とバングラデシュ人の在留外国人登録者数を見れば、特に急増した様子もない。なぜならば、この数字は在留外国人登録者数であって、外国人登録をしない短期滞在者、不法残留者はカウントされていないからである。
 査証免除により入国した者が、引き続き在留を可能とする方法は、在留資格の変更という形をとるが、その場合、就学・留学または日本人の配偶者となることなどが一般的である。そういう理由もあったのか、この時期にパキスタン男性と日本人女性の国際結婚が目立ち始める。しかし、実際に何件の国際結婚が行われたのかは、正確な数字を統計で割り出すことはできない。
 こうした一部のパキスタン人、バングラデシュ人が日本人配偶者を持つことにより、日本での長期滞在が可能となり、日本のムスリム社会での大きな役割を担えるようになったのである。同時に、配偶者である日本人女性は婚姻に際してイスラームに入信し、もともと小規模であった日本人ムスリムの構造を変えるほどの存在となっていった。


[第2波:イランからの流入]
 1988年イラン・イラク戦争終結により、イランでは多数の復員兵が帰還してきた。しかし、国内には充分な仕事口がなく、海外に職を求めて出国する若者が多かった。イラン人にとって日本は査証免除国であり、簡単に入国でき、バブル崩壊後もまだ高収入が得られる魅力的な国だったので、その中には日本を目指す者もいた。そして、表2のように1991年には在留外国人登録者数でパキスタンやバングラデシュを上回るほどとなった。しかし、1992年4月15日外務省はイラン人に対して査証免除措置を一時停止という抑制策を講じた。それにより、1995年ピークを迎えるものの、それ以降は減少の一途を辿っている。

[第3波:インドネシアからの流入]
表2の在留インドネシア人登録者数を見ると、1990年頃に増加が始まり、1996年頃には急増していることがわかる。この増加は、1990年外国人研修生受け入れ枠の中小企業への拡大、1993年『技能実習制度』の設立の二つが影響していると言って間違いないだろう。その後もインドネシア人登録者数は、バングラデシュ、パキスタンに比べて急激な伸びを示し現在ではイスラーム圏からの在留外国人登録者の中では最大の民族となっている。

前述のパキスタン、バングラデシュ、イラン、インドネシアは、イスラーム圏から流入した代表的な民族である。その中で増え続けているパキスタン人、バングラデシュ人、インドネシア人の在留資格別外国人登録者数を見てみよう。
 
 表3は2004年から2008年にかけての過去5年間の在留資格別外国人登録者数である。
 パキスタン人の特徴として、『留学』と『就学』が少ないが、『投資・経営』が多く、『永住者』がコンスタントに伸びている。『日本人の配偶者等』は総数の割には多い状況がみられる。しかし、その数字が近年減少しつつあるのは、国際結婚が以前に比べて減っていることにより『日本人の配偶者等』に数字を充填できない状況と言えよう。国際結婚をした後帰国するというケースも考えられるが、それよりは『日本人の配偶者等』から、『永住者』に資格を変更しているケースが多いと考えるべきであろう。綜合すれば、自営などを行いすでに生活基盤がしっかりしており定住化傾向にあると言うことができる。
 次にバングラデシュ人は、総数ではパキスタン人を上回っているが、『日本人の配偶者等』と『永住者』はパキスタンに比べて少ない。『留学』『就学』が多いのが特徴である。
 最後にインドネシア人は、両国に比べて登録者数で大きく上回り、増加率も高い。しかし、その中で最も多いのは『研修』であって一般的に2年か3年の比較的短期の滞在である。『日本人の配偶者等』が年々増えていることから、国際結婚も増加傾向にあるのが特徴と言える。『永住者』数も年々増えており2007年にパキスタンに並んだ。今後も増え続けることを考えれば、インドネシア人は国内最大の民族であって、将来日本のムスリム社会の中で大きな役割を担っていくことは間違いない。
 表2のグラフを見てみよう。3つ波が押し寄せたが、イラン人以外はその後も定住化しながら増え続けている。  

2. ムスリムの数 
@日本人ムスリム
 日本人ムスリムとは、日本国民でイスラームを信仰している者を指し、その数については、一説に数百、また一説に数千、数万と大きく二桁もの数の開きがある。日本の戸籍、パスポート、国勢調査にも宗教を記載する項目がないため、日本の統計から数を特定することはできない。
では、国内の宗教法人格取得のイスラーム団体やマスジドで入信を行った人の数を集計すればどうだろうか。しかし、これらの施設での入信は入信経路のひとつであっても、すべてではない。イスラームの入信とは、2名の成人したムスリム証人の前で信仰告白をすることで手続きが完了する簡単なものである。したがって、それらの施設で行わなくとも、小規模マスジド、留学生会館、個人宅などで行うことも可能である。何らかの手続きに使用するための入信証明書が必要でない限り、こうして入信する人の数はカウントされていない。また、外国で入信する者も多数いる。イスラーム諸国に長期滞在し、イスラームに感化されて入信するケース、または国際結婚で入信するケースなどである。最も近いイスラーム国マレーシアの首府クアラルンプル市の日本人ムスリムは少なく見積もっても数十人居り、ムスリムがマイノリティーのシンガポールですらイベントに20人以上の日本人ムスリムが集まってくる(注1参照)ことを考えれば、相当数の日本人ムスリムが海外に在留しその大半が海外で入信していることがわかる。さらに、近年では日本人の入信数だけで日本人ムスリム数を表すことはできなくなっている。それは、すでに第2世代、第3世代の日本人ボーンムスリムの時代となっているからだ。彼らは、両親がムスリムであれば自動的にムスリムであって、入信の手続きは踏んでいない。彼らの存在は、イスラーム団体の会員に登録しない限りカウントされることはない。また、外国人の帰化者も日本人ムスリムの定義に合致しているので日本人ムスリムとしてカウントされなければならない。このように考えると日本人ムスリムの数を集計することは不可能に近い。
 ひとつの試みとして、愛媛県を例にとって考えてみよう。愛媛県にはふたつの礼拝施設があり、その存在が日本人ムスリムの発掘に大きな役割を担い、現在判明している日本人ムスリムの数は40名である。内訳は、国際結婚による入信者13名、国際結婚以外の入信者7名、ボーンムスリム約20名、帰化者0名である。愛媛県の人口が1,467,815人(注2参照)であり、全国の人口が127,767,994人であるから、愛媛県には全国の約1.14パーセントの人口がいることになり、その比率で計算すると国内には約3,509名の日本人ムスリムが居ることになる。実は、これらの比較に使われた数字自体には問題がある。なぜならば愛媛県の日本人ムスリム40名というのは、所在確認ができた数であって、実際の数はもっと多いからである。また、サンプルとした愛媛県が中央から遠く離れた立地であり、全国の平均的な地域でないことも考慮されなければならない。
 では実際に日本人ムスリム人口はどのくらいなのだろうか。信頼できる資料がないので分からないで済ませると不消化となる。どうしても数字を発表しなければならないとすれば、『イスラムのホームページ』(注3)のラマダーン突入時のアクセス数、各団体・マスジドの運営担当者などの見解など可能な限りの事柄を綜合して考えた場合、日本人ムスリム人口は現在1万人を超えたくらいではないかと思える。

A在留外国人ムスリム
 前述の主要3カ国の2008年在留外国人登録数を合計すると48,520人になる。その3カ国以外にも国内で目につくのが、マレーシア人、スリランカ人、インド人、トルコ人、エジプト人、中国人などである。
 
 この表のムスリム数は、在留外国人登録者数にその国のムスリム比率を単純にかけて算出したものである。この表を見ると意外な結果がでていることに気がつく。それは、ムスリム数で中国、フィリピンがパキスタン、バングラデシュを上回っていることである。両国については、ムスリム居住地区が中央から離れた地域にあり、この数字ほどのムスリムは在留していないと思える。またマレーシアの場合、ムスリムであるマレー系マレーシア人は『留学』が多く比較的短期の滞在であるが、非ムスリムの中国系マレーシア人は『永住者』となる傾向にあり数も多い。一方、スリランカについては、ムスリム比率が少ない国だが、日本在住者についてはムスリムの比率が高く沢山のムスリムが在留している。
 こうした事柄を考慮し、さらにリストに載っていない国のムスリムを加えて考えると、約10万人の在留外国人ムスリムがいると言える。

1969年に日本人と外国人の比率が1:1だったものが、日本人は入信と自然増加で1万人を超え、一方、外国人は主に移入による社会増加であり、その増え方が急激だったため、現在では1:9と圧倒的に在留外国人が多い状態となっている。

 
3. マスジド(モスク)増加の推移 
 第1波として南アジアより多数のムスリムが流入してきた頃、東京では、1982年アラブイスラーム学院が開校し礼拝所をムスリムに解放したものの、1986年旧東京ジャーミィが解体され、結局マスジドとしてムスリムが集まれる場所は唯一アラブイスラーム学院礼拝所だけという状況であった。(表1参照)
 ムスリムは、日々の礼拝を一人で行うよりは複数で行おうとし、ラマダーン月には、日没と同時に仲間と一緒に断食明けをし、タラーウィーフの礼拝4を集団で行う。このようにムスリムは行を行おうとすれば自然と集まりはじめるものである。また、遠く離れた異国の地に生活していれば、出身を同じくする仲間たちと語らう場も欲しくなるものだ。ひとつしかないアラブイスラーム学院礼拝所に通うには遠すぎるため、賃貸の礼拝所ムサッラー5を設けて集まるという動きが現われはじめた。
 バブル崩壊後の1991年タブリーグ・ジャマーアートは仲間たちから募金を集め東武伊勢崎線一ノ割駅近くに彼らの拠点となるマスジド5物件を購入した。これは賃貸の礼拝所ムサッラー時代から、自前の礼拝所マスジドの時代が到来した瞬間と言えるほど衝撃的な出来事であり、全国のムスリムに影響を与えたに違いない。その後1992年Islamic Circle of Japan、1994年Japan Islamic Trustと相次いで団体も設立され、マスジド物件購入活動に拍車がかかることになった。
 
 
 表5のように、1935年神戸マスジド、1938年東京ジャーミィ開堂以来約60年間ほとんどマスジドは増えなかったものが、1995年からわずか15年間で50個を超えるほど急増したことになる。
 バブル景気当時流入してきた南アジア出身のパキスタン人、バングラデシュ人、インド人、スリランカ人など生活の基盤が安定しはじめ、中古車貿易で財をなすものも出てきた。1990年のバブル崩壊で、職を失い日本を後にせざるをえない者も出た一方、不動産の価格が下落しはじめマスジド購入が現実味を帯びてきたのである。
 マスジド購入は、イスラーム法に触れないようにローンを組まず現金で購入するため、遠大な計画と長期にわたる募金活動が必要であった。マスジド周辺在住のムスリムたちが中心になり、さまざまなネットワークを駆使し募金活動を行い、時には全国へと展開する例も少なくはなかった。一ノ割マスジド開堂から数年間マスジドが増えなかったのは、募金活動期間であったというのが理由であろう。
 マスジド購入がブームのようになりはじめた頃の2001年、9.11事件が勃発し、ムスリムたちは逆風を受けることになった。公安関係からマスジドや個人に対する監視が始まり、また、マスコミの偏重報道により周辺住民からも厳しい目で見られるようになった。そういう状況にも関わらず、マスジドが増え続けたのは、やはり、動き始めたマスジド計画を止めるわけにはいかなかったのと、ムスリム側の周辺住民に対する細かい心配りがあったからではなかろうか。
 1995年あたりから第3波として後発の外国人であるインドネシア人が流入しはじめた。また、留学生が年々増え始め、ムスリム社会はさらに膨れ上がった。マスジド購入計画は主に南アジア出身外国人が中心となり行われていたが、2000年以降からは、留学生やインドネシア人も加わるようになった。もちろん、物件購入に当たり一部の日本人ムスリムが活躍していることも忘れてはならない。
 参考までに2009年の留学生数は、イスラーム圏から5位マレーシア2,395人、8位インドネシア1,996人、9位バングラデシュ1,683人、22位エジプト329人、26位サウジアラビア253人など(平成21年度出身国(地域)別留学生数、,独立行政法人日本学生支援機構より抜粋)となっており各国のムスリム比率をかけても数千人のムスリム留学生がいることになる。
 2009年は、マスジド総数が55個となり、2月に小樽マスジド、3月に福岡マスジドと、北海道と九州にそれぞれ2つ目のマスジドがあいついで開堂することにより、国内のすべての地方に複数のマスジドができた記念すべき年となった。(表5、表6参照)現在進行中のマスジド建設計画が各地で聞かれ、不動産物件が高騰しない限り、少なくとも毎年2、3個のペースで増えていくことになるだろう。

4. 日本のマスジド
 マスジドとは、ドームとミナレット(尖塔)を備えた美しい外観のものが世界では一般的だ。ところが、日本では、地域住民が募金を重ねやっと購入したマスジドだけに、その苦労のあとがマスジドにも見てとることができる。いくつかの特徴あるマスジドを写真で紹介してみよう。
 @ 伊勢崎マスジド:1995年町工場を購入、改装をほどこした。キブラの方向には小さなドームを日曜大工で作りマスジドらしさをかもし出している。別名プレハブ・モスクと呼ばれていた。現在は新築し鉄筋の立派なマスジドになっている。 A 境町マスジド:1997年東武伊勢崎線境町駅前のパチンコ店を購入、看板にミナレットの絵を施し、マスジドと分かるようにしている。 
B 富山マスジド:1999年国道沿いのコンビニを購入、外看板にマスジドの絵を施し、建物にはアラビア語と日本語で大きく『ラーイラーハ・イッラッラー』富山モスクと書いている。 C 岐阜ファーティハ・マスジド:2002年カラオケボックスを購入、ボックスの壁を取り払い広い礼拝スペースを確保した。 
D 岡山マスジド:2008年岡山大学に隣接するアパートを購入。部屋の壁を取り払い礼拝スペースを確保。残りの部屋は女性礼拝所、会議室などに利用。 E大阪マスジド:2009年鉄筋4階建ての専門学校校舎を購入。
 
 一方最近建設されたマスジドには、美しい外観のものがある
@ 東京ジャーミィ:2000年トルコ政府によって建てられた日本を代表するマスジド。 A八王子マスジド:2002年開堂。ドームと二つのミナレットの上には大きな三日月が印象的。 
Bバーブル・イスラーム岐阜マスジド:2008年岐阜大学の近くに建設。白壁と大きなドームは印象的。 C福岡マスジド:2009年鹿児島本線箱崎駅徒歩1分の好立地の場所に鉄筋3階建ての新築マスジドを建設。
5. 今後の課題
 急激なムスリム増は、ムスリム社会に大きな課題を投げかけるようになった。そのうちのいくつかを紹介しておこう。

@子女教育
南アジアからの流入が始まってすでに25年が経過した。彼らの2世たちにも青年期に入っている者も多い。しかし、幼少の大切な時期にマスジドができておらず充分なイスラーム教育を受けられなかった青年も多い。まさに、後発のインドネシア人たちの子女が今その時期を迎え、イスラーム教育の必要性を訴えている。増加している日本人ムスリム子女の教育も重要事項のひとつである。すべてのマスジドが、子女教育を真剣にとらえ、取り組むべき時期が到来している。

A 国際結婚
パキスタン人男性と日本人女性の国際結婚が圧倒的に多いが、インドネシア人の場合はインドネシア人男性と日本人女性、また、その逆の日本人男性とインドネシア人女性との比率はほぼ同じである。聞き取り調査をしたところ、インドネシア人男性と日本人女性の比率は東京6:4、岐阜3:7、愛媛2:8、福岡7:3と、都市と地方では比率が逆転している。男性がネイティブムスリムである場合にはそれほど問題にはならないが、男性が日本人の場合、ネットワークを築きにくく、マスジド側からの積極的な働きかけが必要となってくる。

B日本人の役割
 民族単位でグループを作ることは何の問題もなく、その中でお互いの信仰を高めあい、協力しあうことは重要だ。しかし、ムスリム社会の一員として、さまざまな民族が集うマスジドに足を運ぶことも重要である。日本人と外国人の比率が1:9である現実の中、日本人の足はマスジドからまだまだ遠のいているが、日本人は土地の者として企画運営面で大きな役割を担うことができる。その意味でもマスジドは、日本人に期待している。
 また、インターネットの普及でイスラーム情報の取得が容易になったことによる入信者の増加、国際結婚による入信者の増加、日本語ネイティブスピーカーである在留外国人2世の存在など、マスジドにおける日本語でのイスラーム指導の需要が高まってきつつある。日本人指導者陣の養成が必要とされる。

B 墓地問題
ムスリムの増加は、そのまま墓地不足につながり、新たな墓地の購入が不可欠となっている。ところが、イスラーム団体・マスジドが墓地の確保に乗り出しながらも、まだ続くイスラームに対する逆風と、土葬という条件から、許可が得られず膠着状態になっているものが多いのが現状である。


注:
1. 2001年10月15日、16日 the Muslim Converts’ Association of Singaporeで開催された講演会と懇親会に20名以上の日本人ムスリムが参加した。
http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/photo/singapore.htm

2. 平成17年度国勢調査

3. http://www2s.biglobe.ne.jp/~racket/ 1997年公開された最も古くからある日本語で書かれたイスラーム関係のホームページ。

4. tarawih。ラマダーン月の夜、イシャー(夜)の礼拝後に行うスンナ(行わなくても罪にはならないが、行えば神からの報償が得られる)の礼拝。マスジドでは集団礼拝として行われているのが一般的。

5. 礼拝所を表す言葉には、ジャーミィ、マスジド、ムサッラーなどがあり、イスラーム諸国では、一般的に、ジャーミィとは規模の大きいマスジドをいい、マスジドとはミフラーブ(礼拝の方向を示すアーチ型のくぼみ)とミンバル(説教壇)を備え、礼拝、お篭りなど行にのみ使用される施設をいい、ムサッラーとは礼拝以外の用途でも使用可能な集会所的な施設と使い分けられている。しかし、日本に於いては、マスジドとは、すでに購入した自前の礼拝所で移転する可能性がないものを指し、ムサッラーとは、賃貸の礼拝所で移転の可能性が高いものを指すことにする。