マスジド大塚金曜日礼拝ホトバ 要約 (2010年5月28日)
――何が懺悔を妨げるのか―

あらゆる称賛と感謝は、萬有の主アッラーのもの。預言者ムハムマドに祝福と平安がもたらされますように。

信者たちよ、預言者さま(祝福と平安を)は、次のように述べておられる。「人々よ、アッラーに懺悔しなさい。私は日に百回アッラーに懺悔しています。」 即ち、アッラーへの懺悔は、全ての人にとっての義務である。アッラーは、クルアーン・御光章において次のように述べておられる。
「…お前たち信者よ、皆こぞって懺悔しアッラー(の御許)に返れ。お前たちは必ず成功するであろう。」(24章 31節)
人間というものは、間違いを犯し、悪事を行うものである。しかし犯した過ちや悪事は、懺悔によって消し去られ得る。アッラーは、悪事の消去として人間に懺悔の機会を与えられた。人間は、新しい、ないし過去の悪事を懺悔によって洗い流す事が出来るのである。そして人間は、悪事によって生じる結末から自分を解放出来るのである。預言者さま(祝福と平安を)は、次のように述べておられる。「自分が犯した悪事の懺悔をするのが誰であっても、その者はあたかも悪事の無いかの状態になるでしょう。」
アッラーは、クルアーン・雌牛章において次のように述べておられる。
「…誠、アッラーは、悔悟して戻る者を愛でられ、また純潔の者を愛でられる。」(2章 222節)
しかしながら、何がいったい懺悔しようとするのを妨げるのか。何が、懺悔するのを遅らせるのか。その事が今日の論点である。この論点、即ち、懺悔を遅らせる要素について知らねばならない。

第1の要素は、遅らせる事が可能であると思うからである:
遅らせようとするのは、大きな期待があるからである。それは、自分はきっと長生きするだろうとの期待を抱くからであり、更には、自分の生涯は地平線の彼方まで広がっていると考えてしまう。20代の若者は、行く先は長いと思い、30代、40代になっても同様である。全ての人間が、歳が先まであるものと期待を抱くのである。不幸なことに、この期待が人間から懺悔の機会を運び去るのである。人は、明日も生きているか、生きてはいないか、一体全体知っているものであろうか。家から出掛けて、生きて戻るか、死んで戻るか、誰が知るであろうか。自分で戻るのか、運ばれて戻るのか。
信者たちよ、懺悔を遅らすことを止めなさい。アッラーからの御赦しを早く得るようにしなさい。

第2の要素は、犯した悪事を安易に思うからである:
悪事と言うものを勝手に推し量り、自分が犯した悪事を安易に思い、見くびることである。それ故に、大した事の無い悪事であると考えてしまうのである。そうした小さな悪事について懺悔する事は、敬虔な信者にとっては大ごとではない。預言者さま(祝福と平安を)は、次の様に述べておられる。「信仰心篤い者は、一つの悪事を、それが山のような大きなものと考えます。それで、その悪事が自分を襲う結果となりはしないかと恐れます。一方、偽善的な者は、自分が犯した悪事を、自分の鼻に留まった蝿程度にしか考えていません。何だこんなものと言い、鼻から追い払おうとします。」
一人の信仰心篤い者が病気になり、見舞いの人がやって来た。見舞いの者は、その病人が酷く嘆いているのを見て、何が嘆きの種なのかを尋ねるのである。何せ、あなたは何もかも良い行いばかりで、我々はあなたがアッラーの御威光を穢すのを見たことがない。義務の行いをし損じたことはないではないか。すると、その病人は、次のように述べた。アッラーに誓って、嘆きの種はそうした事ではない。自分では小さいと思い込んでいる悪事が、アッラーの御目には大きなものではないかと恐れ嘆いているのだと。或るイスラーム学者は、「悪事の小ささを思うのではなく、あなた方が命令に従わなかったアッラーの偉大さを思いなさい。」 それ故、人は如何なる悪事であっても無視すべきではないのである。アッラーによって赦されない様な悪事というのは、人が大層軽いものと思っている悪事であると言われているではないか。人は、そうした悪事を自分が犯した他の悪事と同様に思っている。人はそれを見くびり、重きを置かない。それで、懺悔しない。

第3の要素は、アッラーの赦しへの依頼心があるからである:
懺悔を妨げるその他の要素としては、内心の問題がある。アッラーの慈悲を頼りにし、アッラーはあらゆる悪事を赦して下されると盲信してしまう事にある。それは実際には、悪魔が或る人々に植え付ける願望的な考えである。アッラーは、その様な人々についてクルアーン・高壁章において次のように述べておられる。
「…彼らは現世の虚しいものを受け取って、『(どんな事でも)必ず私たちを御赦しになるだろう。』と言っていた。…」(7章 169節)
ユダヤ教徒がどう振る舞ったかがこれである。彼らは現世で良いものを得て、その上赦されると言うのである。彼らは、アッラーの祝福と御赦しに気をとられているに過ぎないのである。彼らは、アッラーの持てる力と責め苦については顧みようとしない。
アッラーは、その事について、クルアーン・アル・ヒジュル章において次のように述べておられる。
「われのしもべたちに、『誠、われは寛容で慈悲深いものであり、』」「『われの懲罰は、誠、苦痛な懲罰である。』と、告げ知らせなさい。」(15章 49--50節)

アッラーの慈悲はあらゆるものに及ぶものであり、慈悲について心に刻み込んでいる者は授かるのである。
アッラーは、クルアーン・高壁章において次のように述べておられる。
「…また、われの慈悲は凡てのものにあまねく及ぶ。それ故われは、主を畏れ、喜捨をなし、またわが印を信じる者にはそれ(幸福)を授けるであろう。」(7章 156節)
「…誠、アッラーの慈悲は、善行をなす者の近くにある。」(7章 56節)
人間たるものは、クルアーン・ガーフル章を覚えておくべきである。
アッラーは、クルアーン・ガーフル章において次のように述べておられる。
「罪を赦し、悔悟を受け入れ、懲罰には厳しい御方で、惜しみなく与える主であられる。アッラーの外に神は無く、誰でも行き着くところはその御方の御許。」(40章 3節)
誠のムスリムは、期待と恐れの両方を抱き現世で過ごす。誠のムスリムは、期待と恐れの両方を抱き現世で生きるべきものである。
アッラーは、クルアーン・集団章及び夜の旅章おいて次のように述べておられる。
「…来世に備え、また、主の慈悲を請い願う者(はそうでない者と同じであろうか)。」(39章 9節)
「…アッラーの慈悲を待望し懲罰を恐れている。誠、主の懲罰こそ用心すべきものである。」(17章 57節)

信者たちよ、或るイスラーム学者は述べている。「懺悔を急ぎ行いなさい。アッラーによる自分の評価を思ってみなさい。過ちを正しなさい。懺悔し赦される主の扉の所に立ちなさい。」
アッラーは、クルアーン・高壁章において次のように述べておられる。
「…『主よ、私たちは過ちを犯しました。もし、あなたさまの御赦しと慈悲を御受け出来ないならば、私たちは、違わず失敗者の仲間になってしまいます。』」(7章 23節)

信者たちよ、心から懺悔しアッラーの御許へ返ろうではないか。
アッラーは、クルアーン・禁止章において次のように述べておられるように。
「お前たち信仰する者よ、謙虚に悔悟してアッラーの御許に返れ。きっと主は、お前たちの様々な悪を払い、川が下を流れる楽園に入れさせるであろう。…」(66章 8節)

アッラーよ、私たちが正しい道を歩む事が出来るように御加護下さい。私たちの信仰心を強くして下さい。
アッラーよ、日本中に、世界中にイスラームを広められるように御力添え下さい。
アッラーよ、イスラームとムスリムたちの為に奉仕出来るように御加護と力を御与え下さい。
アッラーよ、病気の者たちを御治し下さい。仕事の無い者たちに清い仕事を御与え下さい。
アッラーよ、仕事に成功を、そして安心と安全を御与え下さい。アミィーン。