特集2 イスラームの思想 
スーフィズムと人間の尊厳性 
竹下 政孝

一、スーフィズムの歴史
 しばしば「イスラーム神秘主義」と訳されるスーフィズムの運動は、道徳心、宗教心が弛緩し、生活が華美に流れた世俗的なウマイヤ朝の都府生活を、火のような雄弁をもって非難した説教者、ハサン・アル=バスリー(六四二―七二八)から始まる。峻厳な求道者、アル=バスリーの歩く姿は、葬式からの帰り道のようであり、坐る姿は、死刑の宣告を受けた人のようであった。彼は、常に来世のことだけを考えており、三十年のあいだ、一度も笑ったことがなかった。スーフィズムの名前は、彼の着ていた粗末なスーフ(羊毛の服)から由来しているといわれている。
 初期のスーフィズムは、このハサン・アル=バスリーに典型的に見られるように、現世否定的、禁欲主義的であり、この世のあらゆる楽しみや喜びを捨て、ひたすら神へむかって沈潜していった。代表的な初期のスーフィーには、陶酔のスーフィー、アブー・ヤジード・バスターミー(?八七四頃)、素面のスーフィー、ジュナイド(?-九一四)、 「我は神(ハック)なり」と説いて、十字架上に処刑されたハッラージュ(八五六頃-九二二)などがいる。彼ら初期のスーフィーは、何よりも宗教体験、神との神秘的合一(unio mystica)に基づく直観を重視し、哲学や神学には批判的であった。つまり、人間の合理的理性は、スーフィー詩人ルーミーの表現を借りれば、木製の脚のように不完全なものであり、とてもそれによってしっかりと立つことはできないと考えていた。
 しかし神秘主義的体験のない哲学者が、明き盲みたいなものであれば、哲学を持たない神秘主義者は戯言を唱える酔っぱらいにすぎない。こう考えて、従来のスーフィズム
に哲学的思弁を大胆に持ち込んだのが、十三世紀にあらわれたスーフィー最大の思想家イブン・アラビー(一一六五-一二四〇)である。彼の壮大な神秘的形而上学は、「存在一性論」(ワフダト=ル=ウジュード)」と呼ばれ、後に、サドル・アッ=ディーン・クナーウィー(一二一O-七四)、ジーリー(一三六六‐一四〇三?)、ジャーミー(一四一四-九二)などによって完成され、イスラーム世界全体に大きな影響を及ぼすものである。イスラーム世界が十九世紀に西欧の近代思想を移入するまで支配的であったのは、イブン・アラビーの流れをくむ、この思弁的スーフィズムであった。
二、イブン・アラビーにおける人間の生命の尊厳性
 イブン・アラビーの著作は、難解なことで有名である。特に、その最も代表的な書、「叡知の宝石」(フスース=ル=ヒカム)は、多くの特殊な専門術語、論理の飛躍、本題からの逸脱、謎めかした曖昧な表現などに満ちており、とても簡単に通読などできたものではない。(「イブン・アラビーの神秘主義哲学」の著者でもあるエジプト人の学者アフィーフィーは、昔、ケンブリッジ大学で研究していた頃に初めて、その師ニコルソンから「叡知の宝石」を読むように勧められたが、最初の一行から全く意味が取れず、絶望して投げ出してしまったと書いているほどである。)しかし、この難解さに挑戦した多くのスーフィーが註釈書を残しており(アフィーフィー自身も後に自ら註釈書を著わしている。)、我々はそれらの註釈書を頼りに、一語ずつ一行ずつ、苦闘しながらかろうじて読みすすんでいくことができる。
 しかしこの晦渋な書の中にも、所々息ぬきのように明白に論旨が表現され、彼の主張が直接伝わってくる箇所がある。それらの箇所は数は少ないけれども印象は強烈であり、いつまでも心に残る部分である。以下に紹介する「預言者ユーヌス」の章の冒頭部も、そのような箇所の一つである。
 まず最初にイブン・アラビーは、「人間は、霊、肉体、魂から成るその全体性において、神が御自身の似姿に創造されたものである。」と主張する。人間を霊、肉体、魂の三部分に分けるのはギリシァ以来の考え方である。しかしプラトニズムが霊のみを重んじ、肉体を卑しめる傾向が強かったのに対し、イブン・アラビーは、霊、肉、魂を統合する全体的存在としての人間に、あらゆる他の被造物(肉体のない天使や霊のない動植物)を越えた、より高い価値を認める。それゆえ、創造者である神以外の伺ものも、人間を破壊する権利を持たない。そして、神に対する熱狂心と、それに帰因する殺し合いよりは、あらゆる神の僕(人間)に対する思いやりの方が、ずっと神の御心にかなったものであると述べた後、次のようなエピソードを引く。

 ダヴィデは神殿の建築にとりかかったけれども、神
  殿は常に倒壊し、決して完成されることはなかった。
  ダヴィデが神に訴えた時、神は次のような啓示をダ
  ヴィデに下した。「私の神殿は血を流した者の手に
  よっては建てられないごダヴィデが、「しかし、私
  はあなたの為に殺したのです。」と言うと、神は、
   「確かにその通りだ。しかし殺された者たちも、ま
  た私の僕ではなかったのか。」とお答えになった。

 このダヴィデの話の教訓は、人間の生命は(たとえ相手が異教徒など神に対する敵であったとしても)何よりも尊重されなければならないということである。続いて彼は、クルアーンの8章61節「もし彼ら(神の敵)が和平にかたむくならば、汝もそれにかたむき、すべてを神に頼れ。」を引用する。人間の生命の絶対的尊重は、神の敵(異教徒)だけではなく、殺人者にまで及ぶ。シャリーアの精神は、「眼には眼を」式の報復(キサース)、即ち死刑を可能な限り避けて、賠償金(ディヤ)を受けいれ、赦してやることを勧めている。また預言者も、近親を殺した男に復讐しようとしている男に向って、「もしも、汝が彼を殺すならば、汝は彼と同じである。(つまり、彼と同様の殺人者である。)」と言われた。またクルアーンにも「悪業に什返しすることは、悪業と同じような最悪のもの。よく赦し、よく和解する者には神から報酬が与えられる。」(42章38節)と言われている。つまり、殺人に対する報復(キサース)は確かにシァリーアに反してはいないにしても、悪しき行為なのである。なぜならば、殺人者といえども神の似姿に創られており、彼を赦し、彼の命を奪わなかった者は、彼の創造者である神から報酬が与えられるのである。存在するあらゆるものは、神名「顕われたる者」(アッ・ザーヒル)の顕現であり、悪人も例外ではない。それゆえ、彼を殺さず、彼の生命を保存した者は神を保存したのに等しいとまで、イブン・アラビーは断言する。
 次に、イブン・アラビーは、人間の本性と行為とを区別し、人間において非難されるのは、本性ではなくて行為である。そして人間の尊厳性、価値はその本性にある。究極的には、人間の行為というのはすべて神に帰する。にもかかわらず、行為の中には褒められる行為と非難される行為がある。非難される行為とはシャリーアが非難している行為である。(イブン・アラビーの悪の問題に対する立場は、アシュアリー派と同様に、絶対的悪の存在を認めない立場である。つまり、すべての悪は相対的なものであり、何らかの形で神の計らいの一部なのだけれども、人間は、それを知ることができないだけなのである。しかし、ここではこの問題に対する議論は充分展開されず、曖昧なままである。)シャリーアの非難の背後には、神の叡知(ヒクマ)があるが、それは神と、神が特別に教えを与えた人々しか知ることができない。同様に、報復がシャリーアで合法と定められているのも(クルアーン、2章177節)、神が類としての人間を保存するという目的、及び、神の定めた規則
を侵犯しようとする人々を阻止するという目的が背後にある。つまり、我々は報復を合法とするシャリーアの背後にこのような神の叡知を見なければならない。そして、神が如何に人間の生命の保存に気を配っているかを知るならば、我々も、一層人間の生命の保存に気を配らなければならない。なぜならば、人間は生ある限り、彼の創造の目的である「完全性」に到達する機会を持っており、その人間の生を奪おうとする者は、彼から創造の目的を達成する可能性を奪ってしまうことになるからである。
 更に、イブン・アラビーは、神を常に想起(ズィクル)する者のみが、真の意味での人間の尊厳、価値を理解することができると述べる。(残念ながら、比較的にわかりやすい部分はここで終りをつげ、イブン・アラビーの議論は、「神を想起(ズィクル)する」という行為に対する難解な哲学的、心理学的考察へと進んでいく。)
 以上に見てきた彼の思想は、一見すると現代の死刑廃止論に近いようだが、現代の議論が世俗的ヒューマニズムに基づいているのに対し、イブン・アラビーの議論は、神という中心を持っている。そして、人間の生命は、彼が神の似姿に創られた存在であるがゆえに尊厳なのである。イブン・アラビーにとって、人間とは神を映す鏡であり、また、神と宇宙を結ぶ環であり、また、この宇宙における、神の代理人(ハリーファ)である。イブン・アラビーのこのような人間観は「完全人間」(インサーン・カーミル)という用語で表現される。あらゆる被造物の中の最高の位置を占める「完全人間」こそ、人間の本来の姿、本性であるが、現実の人間の行為は、クルアーンに出てくるファラオやアブー・ラハブのように、被造物の中の最低、最悪にもなりえる。しかしたとえ、その行為は最低であっても、神の似姿に創られた人間の本性の尊敵性には変りがない。いかなる人間も、本来の「完全人間」になることが、その存在の完成であり、何人たりとも、その可能性を破壊することは許されないのである。
 それでは、イブン・アラビーの言う「完全人間」とは、具体的にはどのような人間なのだろうか。それは、無数の「美しい名前(アスマーウ・フスナー)」を通して、様々な形態をとって、絶え間なく顕現する神を、自己の心(カルブ)を限りなく変容させることによって受容する人間である。(詳しくは、拙稿、「『叡知の宝石』にみられるイブン・アラビーの完全人間」(「オリエント」、第25巻1号(一九八二年)を参照)完全人間とは、この宇宙のあらゆる存在に神の顕現を見ることのできる人間、あらゆる形態で顕われてくる神を讃美することのできる人間である。つまり、異教徒や、罪人までをも神名の顕現と見なす、寛容の心を持った人間である。イブン・アラビーは、このすべてを包容する心を、次のような美しい詩に詠んでいる。

私の心はあらゆる形態を受容するようになった。
私の心は、羚羊(ガゼル)のための牧場、キリスト教修道僧の
ための修道院
また偶像のための寺院、巡礼者のためのカアバ神殿
トーラー(律法)の銘板、クルアーンの書。
私は愛の宗教を告白する。
愛のラクダがどこに向おうとも、
愛こそ私の宗教であり、私の信仰である。

三、スーフィズムと普遍的宗教
 我々は「叡知の宝石」のユーヌスの章で、イブン・アラビーの、悪人をも包含する人類愛を見てきたが、右に引用した彼の詩でも、既成の諸宗教の枠を越えた普遍的愛が詠われている。イブン・アラビーの人類愛が、決して現代的な世俗的ヒューマニズムではなく、神を通しての、つまり神を中心に置いた人類愛であったように、彼の超宗教的ユニヴァーサリズムも、決して現代の擬似宗数的折衷主義ではなく、あくまでも神を中心に置いた、そして中心の深みにおいて把握されたユニヴァーサリズムである。諸宗教の差は、外面的(ザーヒル)形態においてのみ存在し、内面(バーティン)即ち中心においては、すべての宗教の差は消え去り、ただ真理(ハック、即ち神)のみが残る。このように中心に到達したものだけが、真の人類愛と普遍的宗教について語ることができるのである。
 このように宗教の枠組を越えて、唯一の神に基づく人類愛と普遍的宗教に到達したスーフィーは決してイブン・アラビーだけではなかった。スーフィズムはその始まりから、常に「愛の宗教」であったし、スーフィーは、他の諸宗教の最も深い理解者であった。ここではスーフィズムの普遍主義の最良の例として、十三世紀ペルシャの詩人、ジャラールッ=ディーン・ルーミー(一二〇七-七三)を紹介してみたい。
 ルーミーは多くのキリスト教徒の弟子を持っていた。或る日、ルーミーの話に感激して多くの牛リスト教徒が涙か流すのを見たムスリムは、どうして異教徒が彼(ルーミー)の教えを理解することができるのかと尋ねた。ルーミーは次のような譬えで答えた。

  道はいろいろ違っても、行き着く先はただ一つ。見
  るがいい。メッカの聖所に至る道は幾つもある。或
  る人は小アジアからの道を取り、或る人はシリアか
  ら、或る人はペルシャから、或る人はシナから。ま
  た或る人はインドやイエメンからはるかな海路を越
  えて行く。もし道だけを見れば、みんなてんでんば
  らばらで、お互いの開きは限りない。が、目指すとこ
  ろに目をつけて見れば、みんなが一致してーつにな
  ってしまう。すべての人の心が一致してメッカの聖
  所に向っているからだ。全ての心が聖所に結ばれ、
 聖所を愛し、聖所に憧れている。どこにも違いなど
  ありはしない。そしてこの愛着の情そのものは異端
  でもなければ信仰でもないのだ。つまり今言ったよ
  うに道は様々に違っても、その違いは愛着の情の純
   一さをいささかも乱しはせぬ。取るべき道に関して
   こそみんなの意見がまちまちで、この人はあの人に
   「お前は間違っている、異端者だ」と言い、あの人
  はこの人に同じことを言う。が、一たん目的地に着
  いてしまえば、もう議論も喧嘩もいざこざもありは
  しない。ひとたびメッカの聖所に到着してしまえば、
  今まで喧嘩していたのは道についての争いであって、
  目指すところはただーつだったということが誰の目
  にも明白になる。(井筒俊彦訳「ルーミー語録」より)

 このように、特定の宗教の枠を越えた普遍的精神、他宗教に対する深い理解と寛容の精神が、彼のあらゆる作品に漲っている。この点において、ルーミーとほぼ同時代人であるが、預言者ムハンマドとイスラーム教徒を地獄においたダンテより、ルーミーの方がはるかに優っていたというニコルソンの言は正しい。
 さて、スーフィズムの示す普遍的精神、他宗教に対する理解と尊敬は、モーゼやイエスを預言者として認めることは勿論のこと、他の各民族にも預言者が送られたと考え、これら多くの預言者の教えは、ムハンマドのもたらした教えと同じであると説くイスラームの原理に最も忠実なものである。

    (クルアーン)を信じる者たち、ユダヤ教の教えに
  従う者たち、キリスト教徒、サービア教徒、神の最
  後の(審判の)日を信じ、行いの正しき者たちは、
  主のもとで、報酬をいただけるであろう。彼らは、
   (審判の日に)恐れることもないし、嘆き悲しむこ
  ともないであろう。(クルアーン、第二章六二節)
  言え。「我らは神を信じ、我々に啓示されたものを、
  またアブラハムとイシマエルとヤコブと(イスラエ
  ルの)もろもろの支族に啓示されたものを、またモ
  ーセとイエスに与えられたものを、またすべての預
  言者たちに神から与えられたものを信じます。我ら
  は、彼ら(使徒たち)の間に差別は致しません。我
  らは神に帰依し奉ります。」(クルアーン、二章二二
  六節)

  右のクルアーンの教えこそが、スーフィズムの普遍主義寛容の精神の原点なのである。次に引用するルーミーの詩も、「我々は使徒の間に差別は致しません」というクルアーンの一節を敷衍したものである。

   もしも室に十個のランプがあるとしよう。
   一つ一つ、ランプの形は違うだろう。
  しかし、一つ一つのランプの光は区別がつかぬ。
  聖典の真の意味を探れ。そして言え。
   『我々は使徒の間に差別は致しませぬ』と。

  またルーミーは「精神的マスナヴィー」の中で、各宗教の相違を、各民族の話す言葉の相違に譬えている。それぞれ言葉は違っても、言葉が指し示すもの(神)は同じなのである。
 或る人が四人の男(ペルシャ人、アラブ人、トルコ人、ギリシャ人)にーディルハムの金を与えた。ペルシャ人は皆に言った。「この全てアングールを買おう」アラブ人は、それを聞いて、「この馬鹿め。俺はアングールではなくて、イナブを買うのだ。」、トルコ人は「私はイナブは欲しくはない。ウズムが欲しい」ギリシャ人は、「スタフィリを買おう」と言う。それぞれ、その金で買いたいものが違い、互いにゆずらなかった。そして彼ら四人の口論は、互いに殴りあいにまで発展していった。もし、彼らの様々の言語を解する賢者がいたならば、直ちに彼らの間の争いを静め、一ディルハムで四人全員に、それぞれの望むものを与え、満足させたことであろう。なぜならば、彼らはペルシャ語、アラビア語、トルコ語、ギリシャ語で、それぞれブドウが欲しいと言ったからである。
 言葉は外面(ザーヒル)であり、その多様性は、人々を争いへと、そして憎しみへと導く。しかしその様々な言葉の示す意味、即ち内面(バーティン)は一つであることをスーフィーは知っている。イブン・アラビーはルーミーのように比喩を使わずに直截にこの真理を表現する。

   アラブ人は「アッラーよ」と神に呼びかける。イラ
  ン人は「ホダーよ」と神を呼ぶ。ギリシャ人は「お
  お、テオス」、アルメニア人は「アストゥヴァスよ」
  と神に呼びかける。トルコ人は「タンルよ」、そし
  てフランク人は「クレアトゥールよ」と神に呼びか
  け、エチオピア人は「ワークよ」と呼びかける。こ
  のように、呼びかける言葉は様々に違っても、その
  意味するところは、あらゆる被造物にとって唯一つ
  である。

 我々は右の引用に見られるイブン・アラビーの博識ぶりにまず驚かされる。しかし、ルーミーやイブン・アラビーの言葉の違いに対する強い関心と知識は、多くの異なった言語、文化、宗教を持った民族が共存していた当時の歴史的、及び地理的環境の産物であった。ルーミーやイブン・アラビーの生きた十三世紀の中近東社会は、キリスト教徒のギリシャ人、アルメニア人、またムスリムのトルコ人、アラブ人、ペルシャ人など多くの民族から成り立っていた。また西欧からは十字軍が侵入してくるし、キリスト教徒も、ムスリムも多くのセクトにわかれ、お互いに激しい抗争を繰り返し、宗数的偏見の満ちている時代でもあった。(レバノンの内戦などでもわかるように、この地域の宗派間の確執抗争は現在でもあまり変っていない。)このように、多様な「言葉」の外面に固執して、各宗派が互いに罵りあっていたその中で、ルーミーやイブン・アラビーなどのスーフィーは、旅のゴール、中心へと到達することによって、それらの「言葉」の指し示すものはー一つであることを知り、狭い宗数的偏見、憎悪を越えることができた。そして、神の似姿に創られたものとしての人間の尊厳性と価値、また共通の目標である神に近づく道としての諸宗教の普遍性を見出したのである。
 我々の生きている現代世界は地理的にも拡大し、民族的にも文化的にも、ルーミーやイブン・アラビーの時代とは比較にならないほどの多様性を示している。そしてこの国際化の時代には、以前にもまして、異なる精神文化、伝統の相互理解と寛容の精神が必要とされる。特に島国日本に住む我々にとっては、異質の精神文化を理解することは困難な課題である。ことに歴史的にも、地理的にも我々とは全く縁のなかったイスラーム世界は、最も理解することのむずかしい精神世界であろう。しかし人間の尊厳性と普遍的愛を唱えるスーフィズムは、我々をイスラームの中心へと導いてくれる。そして、スーフィーが異質の精神世界、宗教に対して、真の理解を示し、その高い価値を認めたように、我々も、この中心の深みにおいて、イスラームを理解し、その高い価値を見出すであろう。
           (たけした・まさたか 東海大学講師)