アッサラーム誌24号より
クルアーンの読み方
A・A・マウドゥ-ディー

クルアーンの特質
 クルアーンは普通の本ではない。そこにはテーマ別の配列はなく、信条や道徳、法や訓戒、警告や福音が混ぜんと集められていて、ひとつの話題の最中に一見何の理由もなく異なる話題が挿入され、話し手と聞き手が予告もなく交替してしまう。

 歴史的な事柄には触れているが、歴史書のような扱いではない。哲学や形而上学的な問題も、教科書のようには扱われない。人間と宇宙に関しても、自然科学とは異なる言葉で言及されている。同様に、文化、政治、社会、経済などの諸問題に対して、独自の解決法を提示し、また法の原理や実施に関しても、社会学者や法律家や法学者などの観念とはまったく異なる方法を採用する。また、一般的な意味での「宗教」の本でもない。

 初めてひも解く読者は、本という概念に反するこれらの事柄に出逢い、当惑してしまうようだ。そしてクルアーンは順序も一貫性もない種々雑多な話題の断片を無造作に混合した書であると感じてしまうかもしれない。

 クルアーンの反対者は、このような事柄を一々取り上げて攻撃する。また、一部の信者は、護教的な詭弁を弄したり、奇妙な新解釈を編み出したり、考えることをやめて盲信にしがみついたりする。いずれにせよ、クルアーンの真髄に触れることはできない。

 これはクルアーンがほかに類のないユニークな書物であることを認識しないことによって生じる。クルアーンが普通の本ではないことを認識し、先入観に捕われない客観的な姿勢で取り組めば、一見雑多な混合に見える配列の背後に、深いところで合致するテーマの一貫性と、論理および情感の見事な調和が見えてくるであろう。
神の書
 読者は、まずクルアーンの本質を理解すべきである。信じるか否かは別として、その主張するところの「神の啓示であること」を出発点とせねばならない。それまた、次のことを基本としている。

 宇宙を創造した神は人を創り、学ぶこと、理解すること、善悪を判断することなどの能力を与え、意志と行動と選択の自由を認め、物質やエネルギーを活用する術を教えた。そして人間にある種の自治権を与え、地上における神の代理人としたのだった。このとき神は、人に警告した。

 われは全宇宙の所有者であり、汝の主である。我が王国において汝は独立者ではなく、またわれ以外の何者の配下でもない。ゆえに我のみを崇拝し、他の何をも拝めてはならない。汝は一定期間地上に派遣され、テストを受けよう。その間自発的に我を受け入れ、我のみを主として従い善行を行なうなら、合格である。現世では平安と安泰を得、来世では永遠の喜びと至福の楽園を得よう。この道を選ぶか否かは汝の自由である。だが、もし我が導きに反し、ほかの道を選ぶなら、現世では我が不快を招き、来世は永遠の苦悩のうちに地獄に落ちよう。

 アダムとイブはわけの分からぬまま地上に派遣されたのではなく、このような警告や生き方に関する指示、あるいは人間関係における法を与えられていたのである。これがイスラーム(神への服従)であり、彼らは子孫にこの道を教え、ムスリム(神への服従者)として生きられるようにした。

 しかし時が経つにつれ、人間は正しい生き方から逸脱し、歪んだ道へと踏み込んでいった。不注意や怠慢のみではなく、邪な快楽を求めて意図的に道を歪めた者も多かった。無数の神々を作り出し、迷信や虚偽を織り交ぜ、欲望や偏見に都合のよい宗教や法律を作り上げた。神からの正しい道は改ざんし、神の所有である地上に混乱と不正を溢れさせたのである。

 神は正しい生き方を強制しなかった。人生は試験であり、人間には選択の自由がある。その代わりに、神の言葉を伝える者を各民族から選び出し、彼らに真の知識と正しい生き方の方法を授けた。この預言者たちの使命は正しい道への呼びかけであり、この呼びかけに応えるか否かは人々の自由であった。無数の預言者が太古から神の言葉を人々に伝えてきた。それは、唯一神を崇め、来世において現世での善悪が清算されるという同じ教えであった。

 神の使者たちの大変な努力にもかかわらず、多くの人々は呼びかけに応えず、また一旦応じた者も次第に離れていった。神の道は歪められ、真理は隠蔽され、虚偽と悪徳と不正が充満した。預言者たちの教えに従う教団や共同体もこの風潮に迎合し、戒律を変え、大きく変わっていった。

 このような事態にあたって、神は最後の使者を送った。ムハンマドである。彼は堕落した教団や共同体を含む全人類に呼びかけ、神の道に従う人々を集めて新しい共同体を作り、この共同体は揺れ動く世界を善導する役目を担った。ムハンマドに啓示されたクルアーンは神の導きの書である。ムハンマドに神の祝福と平安あれ。
 
クルアーンのテーマ
 クルアーンの主題は「人間」であり、成功または失敗へつながる人生の側面を論じている。そのテーマは「真実」であり、真実に基づく正道への招待である。これはアダムを初めとしてすべての使者が説いた普遍の真実であり、同じ神の道である。また人間の怠慢や邪心によって歪められた「導き」を明確に表すものである。

 この主題、テーマ、目的の三点に留意すれば、クルアーンの中に文体の不備、論理の飛躍、関連の欠如などは見出せない。どの個所においても、主題やテーマあるいは目的から離れる部分はない。それが天と地、人間の創造、宇宙の現象、人類の歴史などについて語ろうと、常に「人を導く」という単一の目的に従っている。その唯一の命題は、真実を明らかにし、誤った概念や考えを除去することである。自然科学や哲学や歴史を教えることではない。

 このためにこそ、クルアーンはその目的と意図に沿う事柄だけを説き、煩雑な詳細は省略する。テーマと呼びかけの周囲を、あらゆる話題が巡る。この観点からクルアーンを読めば、そこには綿密な論理と強力な訴えが首尾一貫して流れていることに気付くであろう。
背景
 クルアーンは、ムハンマドの任務遂行に先立って一冊の本として与えられた指示書ではなく、イスラームの発展の各局面や段階に応じて部分的に啓示されたものである。

 マッカにおける初期の啓示では、現実の基本的知識、誤った通念に対する答え、道徳基準、正しい生き方などが説かれている。これらは究極の真理を伝えていたが、当時の人々に馴染み深い事例や比喩などにくるまれ、聞き手に深い印象を与えるように配慮されていた。偶像崇拝者たちの不敬や冒涜、迷信や盲信、醜行や不正などを痛烈に論破し、当時の人々を呪縛していた複雑怪奇な思念の縺れを解きほぐした。

 運動は日々拡大し、反対勢力も同様に強まっていった。その間に生じた種々の問題に対処するため、啓示は適切な指示を与え続けた。このため、初期の啓示とは、語調や文体が異なるようになったのである。

 この訴えがマッカの人々の心に浸透し始めると、古いしきたりや伝統に支えられていた権力者たちは脅威を感じ、ムスリムに対する迫害は苛烈になった。そこで預言者と大多数のムスリムはマディーナへ移住した。ムスリム共同体はマディーナにおいて独立国家となり、十年間の激戦のすえ全アラビアを統一して、外部の世界にメッセージを広めてゆくことになるのだが、この間、啓示は共同体を維持する方法、支配下にある不信者や偽信者の扱い方、外部の諸勢力との同盟や講和、敵対者に対する防衛、戦術などそして敗北や勝利、窮乏と繁栄、戦争と平和における教訓を与えていた。同時に人生の諸方面で最善の指示を与え、優れた文明を築くための考え方や行動様式を指示した。また、ムスリム共同体の弱点を指摘し、改革を促し、警告や朗報を与えたのだった。このマディーナ啓示において語調や文体がマッカ啓示と異なることは当然であろう。

 クルアーンの啓示は二十三年間にわたり、イスラーム運動の諸局面に充当するように下されたものである。異なった知的レベルの人々の知性と感情に訴え、既成の観念を揺さぶり、反論に答え、重要事項が異なった角度から繰り返し述べられている。神の唯一性や属性、来世における人生の清算、賞と罰、預言者たちの任務、経典を信じること、軽信や神への信頼、根気と忍耐などの基本的条項はクルアーン全体を通じて説かれている。これは、聞き手に対しての語り掛けであり、通常の書や講義のような語調や文体の一定はあり得ない。

 クルアーンは、啓示の下された順序に従って編集されてはいない。この点について反対者たちは「後世の信者たちが、単に長い章を先に配置した」と主張するが、このような憶測はクルアーンの意図に対する無知からくる。

 クルアーンの啓示は二十三年間にわたってイスラーム運動の発展に合わせて下されたものである。初めは、イスラームを知らない人々に対して、信仰箇条を説かなければならなかった。だが完成された後のクルアーンは、全世界のムスリムのためのものである。ここでは信者たちに人生の義務を説くことに重点が置かれ、啓示の順序とは異なった配列がなされた。アラク章や他のマッカ啓示ではなく、バカラ章などのマディーナ啓示が初めに配置されたゆえんである。また、同様な話題を一箇所にまとめる方式では、かえって全体的な見方を損なう場合もある。クルアーンはそのどの部分においても全体的なイメージを描き出すために独自の編集方式をとっている。マッカ啓示とマディーナ啓示、初期と後期の啓示が偏った印象を防ぐ意図のもとに、相互の特定の個所に挿入されたのも、クルアーンの配列における深い智恵である。

 クルアーンの現配列は、後世の信者たちが定めたものではなく、神の導きのもとで預言者自身が指示したものである。彼は啓示を得る都度、記録者に一語一語記録させ、特定の個所に配置すべく明示していた。礼拝や他の多くの機会に彼はクルアーンを暗誦していたが、その順序は全く同一であり、人々にもその順序で唱えることを命じていた。彼が逝く前の最後のラマダーンの月に、彼は天使ジブリールを前にしてクルアーンの全章句を暗誦したが、これは別々の日に二度行なわれ、教友たちも列席していた。この暗誦の順序は全く同一であった。教友たちの多くもクルアーンの全章句を暗記し、初めから終わりまで暗誦することも多かったが、彼らが預言者の唱えた順序と異なる順序で暗誦していたはずはない。

 クルアーンは「本」であることを多くの個所で明示しているが、マッカ啓示ムザンミル章では「順序どおりに唱えよ」と命じている(第43章第4節)。つまり、クルアーンは啓示の初めから「本」であるべきことを指示していたわけで、本や書籍は必ず何らかの配列の順序を与えられなければならない。

 預言者の死後、初代カリフ、アブー・バクルはザイド・イブン・サービトにクルアーンの編成を命じた。ザイドは啓示の記録係の1人で、預言者から直接クルアーンの章句を学び、最後のラマダーンの月に預言者がクルアーンの全章句を暗誦した二度目の会合に出席した教友の一人である。彼はクルアーンの全部あるいは一部を暗記していた多くの教友の協力を得て、それまでに書き留められたものを全部集め、章句を一語一語確認していった。こうして一冊の公認されたクルアーンが編成され、それは預言者の妻でウマルの娘でもあるハフサの家に保管され、その原本から写本が行なわれた。その配列の順序が預言者の暗誦と同一であることは明白である。
方言の違い
 クルアーンはマッカのクライシュ族の言語で啓示されたものであるが、地方の部族に置いては彼ら特有の方言によって多少異なる言い回しを採る者もあった。その時点においては、意味の違いなどはなく、許容されていたことではあったが、イスラームがアラブの国境を越え、非アラブのムスリムが増えていくにつれ、方言や言い回しの違いを認めることには原啓示の正確な保存という点で問題があった。第三代カリフ、ウスマーンは生き残りの教友たちと協議の上で、ムスリム世界に存在していた一切の写本を集め、すべてのコピーを焼き捨てた。その代わりに正確な写本を作り、各方面に配ったのである。この写本のいくつかは今日現存する。

 今日あるクルアーンは、地球上のどの地域で印刷されたものであっても、その内容と順序は一言一句全く同一である。クルアーンの啓示が神からのものであることを疑う者はいても、原本に対する加除変更を主張する者はない。

 しかし、クルアーンにはいくつかの異なる読み方が存在することは確かである。これは当時のアラビア語には文字の上の点や母音表示がなかったためでもあり、その内容が当時の文盲の度合いや紙不足の状況において口伝えに頼ることが多かったためとも思われるが、文字を知る人々の中には預言者自身から、あるいはその共有たちから直接学び、全章句を完璧に暗記していた者も多く、口伝えの章句を書き表す困難はなかった。そしてウスマーンは、正式の写本と共に公認のカーリー(読誦者)を派遣していたから、読み方の相違はあまりなかったはずである。文字の「点」や母音表示が考案されたのはバスラの太守ザイドの時代(ヒジュラ暦45‐53年)であるから、それまでの間に読み方の一致が崩れたとは思えない。これが現在ある形になったのは、アブド=ル=マリク(ヒジュラ暦65-85年)の時代である。預言者自身も特定の章句を異なった読み方で唱えたようだが、これは意味をより深く明確にするためであった。

 たとえば第1章第3節を「マーリキ…」と読めば、審判の日の「主」となるが、「マリキ…」と読めば審判の日の「王」となるようなことである。もうひとつの例を挙げれば、第5章第6節は、区切り方によって一方は「顔と足を洗え」と読めるが、一方は顔を洗い、頭と足をなでよ」という意味になる。後者においては場合によって足を洗わなくてもよいことを示しているが、その条件は家にいるときは24時間以内に、旅に出ているときは72時間以内に足が洗われた場合である。このような読み方の違いによって矛盾を生じることはなく、意味をより深く、より鮮明にしていることは明らかである。
普遍性
 クルアーンは、その当時の地方的、国家的要素を数多く取り上げている。そこで、実際は当時のアラブに対する教えに過ぎないのではなかろうかという疑問が生じる。

 このことを検討するためには、クルアーンの章句を読み、それが特定の時代の特定の人々のみに通用する導きであるか、それとも、普遍的な教えを理解させるために局部的な事例や馴染み深い比喩を用いているのかを判断しなければならない。

 国家的・一時的な運動と普遍的・恒久的な教えとを判別することは、実は簡単である。一国家のためのイデオロギーは、他国に対する優位を目的とするか、その国の特殊性を基盤とした理論や方法を持つ。これは、その国だけで成立し、他国では応用が利かない方式である。これに対して、普遍的なシステムは人類平等を唱え、人間に平等の権利を与える。また、一時的なシステムは時代の変換と共に廃れていくが、普遍的な原理はいつの時代でも活用できる。

 いかなる宗教や哲学やイデオロギーにしても、最初から国際レベルで通用するものはない。初めはひとつの地域や民族の間で起こり、その潤いが他国や他民族を引き寄せていくのである。クルアーンを熟読玩味すれば、その教えの普遍性は明瞭となろう。
完全な法典
 クルアーンには、社会や文化、政治や経済などに関しての詳細な規定はないし、信者の重要な義務とされている礼拝や喜捨についてすら詳細を定めてはいない。そこで、なぜ完全な法典なのかという疑問が生じる。

 この疑問は神が啓典のみを下したのではなく、同時にその実践者を遣わしたことを考慮することで氷解するはずである。つまり、原理とその実用者という関係である。たとえば設計図と技師、代数と算数の関係を想定してもよい。もしa+b=cという式を特定な数値に限定してしまえば、それは普遍的なものとはならないが、応用によっていかなる数式でも当てはめられる代数のままなら、ほとんど無限の活用が図れる。こういう意味で、預言者の実践を加味することにより、クルアーンは完全な法典となる。

 クルアーンは、以上のすべてを理解した上で、偏見に捕われない心で読むべきである。こうすることによって、人類のあらゆる問題に対する解答が見出せるであろう。


(本稿はA・A・マウドゥーディー著 ”The Meaning of the Quran“ の序文を基盤として構成したものである。  M・A・K )