理想の共同体を求めて(3) 
第2代カリフ ウマル・イブヌ・ル・ハッターブについて 
A.H.A. アッ=サムニー

 ウクバ・イブン・アーミルは、預言者-神よ彼に祝福と平安を与え給え-の言葉として以下のようなものを伝えている。「もしも私のあとに預言者が登場するようなことがあるとすれば、それはウマル・イブヌ=ル=ハッターブに他なるまい。」実際にはムハンマド以降預言者はありえない訳であるから、その点は注意しなければならないが、このハディースは充分に、ウマルがいかに優れた人物であるかを明している。こればかりではない。初代カリフのアブー・バクルは、同様に預言者の次のようなハディースを引いている。「ウマル以上に優れた人間の上に、陽光がさしかかることはないであろう。」これはアラビア語特有の表現であるが、要するに彼は最高の人間であるという褒め言葉である。「ウマルを見かけると悪魔も怖れて逃げ出す始末である。」という、彼の徳性を伝えたハディースも残されている。
 ウマルは幼少の頃は牧童をしていたが、長ずるに及んで商業をなりわいとしシリア方面にまで旅に出ている。家柄はジャーヒリーヤ時代に声望を集めた名家の出であり、雄弁であると同時に直情で、正義を重んじたため、人々の信頼もあつかった。豪胆な硬骨漢でもあったために、争いの調停役等大事を委ねられることがしばしばであった。
 このような彼も、イスラーム登場当初はこれに大反対であり、預言者や初期の信者たちにたいして浪籍を働きかけたこともしばしばであった。この当時信仰によって妻は夫と別れ、親子、親族の絆がたち切られる例も多かった。しかしのちにウマルはイスラームに改宗し、立場を変えるやこのいまだ弱体な宗教の一大戦力となった。
感受性鋭く、深い洞察力、優れた知性の持主であった彼は、クルアーンをじっくりと読む機会を与えられると、すぐにこれが人間の言葉ではありえないことを見抜いた。そしてその教えは、正邪の区別を明らかにする真理にもとづいており、虚偽のつけこむ隙がないと確信してすぐに預言者の呼びかけに答えたのである。
 ウマルが入信したさいの逸話はきわめて有名であり、それをここに引いてみよう。
 すでに記したように入信前の彼は、イスラームに敵対することに専念していた。祖先伝来の宗教をないがしろにし、社会不安をもたらす教えとしかイスラームを理解していなかった彼には、そのような考えをまき散らすムハンマドの存在に我慢がならなかったのである。騒乱の種であるムハンマドというけしからぬ男を、早く始末しなければならない。刀をひっさげて通りを行くと、途中でヌアイムに会った。ヌアイムは尋ねた。「オマルよ、
血相を変えてどこに行くのだ。」そこで彼は答えた。「ムハンマドを片付けに行くのだ。」するとヌアイムは忠告した。「だがバヌー・アブド・マナーフの連中には用心しろよ、返り討ちに会うといけないからな。だがその前に、君の一族のことも考えてみるべきではないか。」
 そこでウマルは尋ねた。「僕の一族とはどういう意味だ。」ヌアイムはいった。「君の義理の弟、従兄弟、それに君の妹自身がイスラームに改宗しているではないか。改宗してムハンマドに従っている彼らをこそ、君はどうにかする必要があると思うのだが。」
 これを耳にするとウマルは激怒して、妹の家の方にきびすを返した。妹の家に行くと、彼女とその夫はフバーブからクルアーンの講義を聞いていた。「ター・ハー、われらがなんじにクルアーンを下しだのは、なにもなんじを悲観させるためではない……」丁度ター・ハーの章を読んでいるときに、ウマルがやってきたのである。フバーブはウマルの声を聞くと奥に身をかくした。しかしその時クルアーンの数葉をあわてて落してしまった。ウマルは中に入ると尋ねた。「外で聞いていたが一体あれは何なのだ。」ウマルの妹ファーティマと夫のサイードは、「別になにも耳にしませんでしたが」と答えた。そこで怒ったウマルはいった。「冗談ではない。お前たち二人がムハンマドの教えに従っていると、ちゃんとこの耳で聞いているのだぞ。」そして彼は義理の弟のところににじり寄った。ファーティマが仲裁に入ると、ウマルは彼女をなぐりつけたのである。彼女の顔からは血がしたたり落ちるほど……。
 するとファーティマは、ついに一切を告白した。「そうです。その通りです。私たちはイスラームに改宗しました。私たちは心からアッラーとそのみ使いを信じています。ですからどうぞ貴方の好きなようにして下さい。」
 いささか我をとり戻したウマルは、妹の顔からしたたる血汐を見ていささか後悔の念にうたれた。そして彼の視線は、フバーフの残していったクルアーンに注がれた。
 「どうだ、お前たちが読んでいたそれを一寸借してみろ。ムハンマドがなにをいっているか調べてやろう。」ファーティマはたじろいだ。だがウマルはいった。「心配することはない。読み終ったらちゃんと返してやる。」だがファーティマはなおもいった。「貴方はいまだ不浄の身です。不浄の者は聖典に触れることはできません。」彼は強要したが、妹は沐浴をしないかぎりそれに触れることを許そうとはしなかった。ウマルはついに妥協して体を洗い、そしてクルアーンの数葉を手にとった。それは先に述べたター・ハー章であった。初めから読み始め、次の句まで来たとき彼はまったく別人になっていた。
「まことにわれはアッラーである。われのほかに神はない。それゆえわれに仕え、われを心にとどめるために礼拝の努めを守れ。」
 彼はいった。「これはまたなんと素晴しい言葉であろう。」
 それを耳にしたフバーブは、奥から出てきていった。
 「ウマルよ、いいか。昨日み使いはこう祈られたのだ。『おおアッラー、アブ=ル=ハカムかウマルの手で、イスラームを強めたまえ。』とな。有がたいことにすぐにその効果があらわれたようだ、ウマルよ。」
 ウマルは翌日すぐにみ使いのもとに行って、イスラームに帰依した。
 この逸話は彼の豪胆さと同時に、その透徹した理解力を示しているであろう。蛇かつのごとく嫌っていたものの中にでも真理を見出すと、それに従順にしたがうことを忘れない。彼は真理にたいする直情の人であった。そして身命をおそれずそれに賭ける人であった。
 ウマルの改宗は信徒たちにとってまたとない吉報であり、また不信者たちにとっては一大打撃であった。彼は入信するやすぐに、カアバの神殿で堂々とムスリムとしての礼拝を始めた。他人の中傷、邪魔立てなどはものの数ではなかった。彼はいまだ弱体であったムスリムたちの団結心を強化する点て、大きな貢献をなしているのである。

 イスラームの教えは、彼に生来の力の上にまた新たな力をつけ加えた。入信後の彼は、不退転の意志をもって荊の道を歩む預言者と、生れたばかりのイスラームの防衛、擁護に専念した。バドル、ウフドの戦いをけじめハンダクの戦い、フナインその他の地への遠征等、重要な戦役においてすべて身を挺して戦っており、難局にさいして預言者もしばしば彼に協議を求めている。協議を求めたばかりではない。さまざまな問題に関してクルアーンの啓示が、彼が指摘した通りに下っているのである。イブラヒームの立処のこと、女性のヴェイルの問題等さまざまあるが、ここでは、えせ信者の処遇に関する事柄をあげておくにとどめよう。聖戦の呼びかけにたいして、臆病心や打算からそれを拒んだ者たちも、一たんそれに利益があることを知ると、今度はわれわれもと参加するようになった。そこでウマルは、このような連中がたとい死んだとしても特に祈ってやる必要はないと主張している。その時に下ったのが改悛の章の数節である。
    「そのうちアッラーのおはからいでお前(ムハンマド)が彼らのところに凱旋すると、彼らの中には今度は出征させて下さいと頼むものがあるかも知れないが、はっきり断わるのだぞ。『お前たちなぞ絶対に一緒につれては行かれない。わしと一緒に敵と戦ったりさせてなるものか。最初のとき、お前たちはいい気になって居残った。今度も後に残りたい者どもと一緒に居残るがよい』と。またあの者どもの誰が死のうと、決してその冥福を祈ったりしてはならぬ。その者の墓に足を止めてもならぬ。彼らはアッラーと使徒に背き、不信心者として死んだのだから」 (八四―五節)
 引用のうちの後半の部分は、ウマルの主張とまさに合致しているのである。
 ウマルの預言者にたいする愛情は、まさになみなみならぬものがあった。預言者が他界したさい彼は剣をひっさげて、次のように叫んだ。「誰でも預言者が死んだなどという男は背信の徒である。誓っていうが預言者は死んだのではない。彼はモーゼが立ち去ったように、一時立ち去ったにすぎない。誓っていうが、預言者はふたたび戻ってきて、彼が死んだなどと触れてまわる男の手を切り落すであろう。」 ウマルをいましめて、預言者が他
界したのであると諭したのは、年長のアブー・バクルであった。
 預言者の没後、ムスリムたちは混乱の極にあった。直接後継者が指名されていなかったムスリム共同体は、誰を預言者の後任とするかという問題で蜂の巣をつついたようになっていた。アブー・バクルを推し、逸早くこの危機を回避する策を構じためはウマルであった。「アブー・バクルよ、預言者は貴方を礼拝の指導者に選ばれたではありませんか。ですから貴方がムスリムの長なのです。」サキーフ″での彼の一言が、その後のイスラーム共同体の流れを決定している。この敏腕な人物の素早い拾収策の提示によって、出来たての共同体が分裂を免れているのである。初代カリフ、アブー・バクルの誕生に道を拓いたのはウマルであったが、カリフはまた彼に重要な政事に関する協議をしばしば乞うている。
 数友たちのウマルにたいする評価も、すべてなみなみならぬものであった。天性の資質、宗数的熱情、学識、信者としての経歴等いずれの点でも他に劣ることのない彼については、周囲の者が口を揃えて絶讃しているのである。死の床にあったアブー・バクルは、多くの名だたる数友と相談した結果、自分の後継者としてウマルを指名している。それを受けて彼がカリフに就任したのは、ヒジュラ暦十三年のことであった。
 彼の在任中にイスラームの共同体は飛躍的な発展を見せた。背教の徒の鎮圧に忙しかった先代の為政のあとをうけて、すでに始められていたシリア、イラク征服をまたたくうちに済ませ、余勢をかってイェルサレムを陥落させているが、彼は自らこの地に赴いて和平交渉に当っている。ヒジュラ暦十六年にはペルシャの首都マダーインを陥し、十七年にはアルメニアを陥す等々、イスラームの征服はまさに破竹の勢いで進められた。だがこの点
については歴史書をひもといていただくにこしたことはあるまい。
 版図の拡大とともに税制の確立、給与体系の作成、イスラーム暦の施行等々行政面の整備が必要であり、同時に大がかりな文化振興策を欠く訳にもいかなかった。クーファ、バスラ、フスタートといった大都市の建設等々、数えきれぬはどの巨大な事業が彼の治世のうちに行なわれているのである。イスラーム共同体の繁栄の基を作った彼の偉業については、僅かな紙数でとても語りつくすことはできない。
 英明な指導者ウマルは、ヒジュラ暦二十三年に、礼拝中マギ教徒のアブー・ルウルウの兇刃に斃れた。享年は預言者ムハンマド、アブー・バクルと奇しくも同じ六十三才であった。しかし僅か十年半の為政の間に彼が達成した偉大な成果は、歴史の中で燦然と輝きつづけているのである。
               (イスラミックセンター顧問)