29/3/2019 書く
Akira の留学記
12/4/2019

1、 日本編その1

 私が生まれたのは1953年。戦後復興が急激に行われつつあった時期だった。ただ、製油所に勤める父は、働けど働けど、一家が満たされるほどの給料はもらってきてなかったようで、母はご近所の縫物をしながら家計を支えていた。まもなく、弟ができ、口減らしのために長男である私は祖父母のところに預けられた。

 日本の経済は急激に発展し、父の給料も生活に足りるほどの額をもらうようになったようだ。私は幼稚園から両親の元に戻され、次男、三男とあわせて5人家族になった。父はこのころからバドミントンに憑りつかれ、会社に練習場を作り、愛媛県バドミントン協会の役員もするようになった。余暇としてバドミントンに打ち込めるというのは、生活にゆとりができた証拠である。

 私たち兄弟は、父の影響で自然とバドミントンの道へ進んでいった。高校は進学校の松山東高校に入ったが、当然バドミントン部に所属し、血のにじむ努力の成果として愛媛県チャンピオンになり、インターハイにも出場した。当時は、とにかく情報量が少なく、世界であれ日本であれトップクラスの選手に誰が居てどういうプレーをしているか伝わってこなかった。当時の世界チャンピオンルディー・ハルトノ(インドネシア)についてでさえ、本人の写真と試合結果程度しかわからず、それは逆にあこがれの念を強くすることになった。そして、ルディー・ハルトノの情報ほしさに、「インドネシア」という国へのあこがれへとつながっていった。

 進学校に学ぶ者にとって、時とともに受験への緊張感が伝わってくる。そういう時、逃避行動も生まれてくるのは当然のことだ。国立理科系のクラスに居ながら、インドネシアへのあこがれは、外語大学インドネシア語学科に行きたいと思うようになり、書店でインドネシア語の学習書を求めてみた。

 また、国立理科系のクラスにとっては消化科目である世界史の授業は重要ではなかった。先生は、生徒に居眠りされないように気を引こうと頑張り、西洋の視点で書かれた現在の教科書から離れ、平等な視点で見た世界史を学んでいこう興味深いことを言ってくれた。その中で、あまり注目されていないイスラム世界について、先生は、7世紀アラビア半島で生まれたイスラムが、瞬く間に中東に広がり、世界へと広がり、現在も拡大し続けている事実は、イスラムという宗教の魅力が人の心を捉えているからに違いない。受験生である君たちには時間がないかもしれないが、もし時間があれば聖典コーランを読んでみればいい。素晴らしい書物である、と言ってくれた。結局、その言葉に動かされ、図書館で聖典コーラン日本語訳を閲覧した。格調高い古語でかかれ、ムハンマドの挿絵すらも入っていた。この古いコーランに惹かれ、借りたまま自分の所有物にしてしまった。
 受験からの逃避行動として、私はインドネシア語の本に目を通し、イスラム関係の書籍も読んでいった。しかし、インドネシア語で外語大学を受験をするのは非現実的で断念せねばならず、イスラムの書籍を読むのもいつの間にか忘れていった。結局、国立大学理科系の学部に進学した。

 親元を離れ一人での下宿生活が始まった。大学入学と同時にバドミントン部に入部し、練習に没頭した。当時の岡山大学バドミントン部は国内最強の国立大学で、厳しい練習は当然のことで、また、100名以上の部員を有するマンモスクラブでもあった。上下関係は厳しく、同級生との仲間意識も強かった。練習後、先輩に誘われ一緒に食事に行ったり、下宿に集まり食事会をしたり、麻雀の相手をしたり、夜の生活も忙しかった。

 ある日バドミントン部の同級生が泊まりに来た。某宗教団体の勧誘が目的だった。その夜は、彼が一方的に説明をした。二晩目もやってきたが、今度は私が質問を始めた。そして3晩目は、私が理想的な宗教とはこうありたいと語り始めた。その時に使ったのは、過去かじってきたイスラムの断片的な知識を、自分の中で体系化しながら話していった感じだ。結局、この出来事があったことにより、イスラムという宗教がわかりはじめた。しかし、だからといって、イスラムに興味を持つようになったわけではない。
 バドミントンとは、授業以外の時間、朝から晩まで関わっていて、バドミントン中心の日々であった。しかし、そういう心の隙から、高校時代に芽生えた海外へのあこがれがよみがえってきた。だいたい、自由のある大学に進学したのは (合格したのは防衛大学と岡山大学だった。自由のある大学ということで岡山大学進学を選んだ。) 、隙を見て海外飛雄を考えていたからだ。もちろん最終目的地はあこがれの地インドネシアだ。資金集めのため、アルバイトをはじめ、渡航計画を練った。当時は飛行機の移動は高く、新聞をさがしていると、小山海運が提供するシンガポールまで6万円で行ける安い船旅があった。資金集めの最後は親からの仕送りの4か月前倒しをお願いして、結局親をだますのに成功した。

 船旅は現実のものとなった。予想を覆して貨物船ではなく、イギリスの豪華客船オーカディス号であった。ただし、船底近くのドミトリーのような部屋となった。船底部屋には、海外飛雄を夢見る若者たちが集まっていた。豪華客船は、神戸を出港後、長崎、香港、シンガポールと寄港し、オーストラリアに向かっていた。私たちのほとんどは、シンガポールで下船の予定で、それまでの日々、お互いの夢を語り、情報を交換して、仲良くなっていった。

2、 シンガポール編

 オーカディス号は常夏の国シンガポールに着岸した。日本の若者たちの多くは、バックパッカーが集まるKatongのYMCAホステルに宿をとった。ここには、東南アジア一円から集まったシンガポールの大学やビジネススクールに通う学生が住んでいた。もともと、芝生に覆われた庭を有する金持ちの邸宅と離れを改装したもので、計10ほどの部屋があり、それぞれ2名から6名が入っていた。私が入ったのは、マレーシアとフィージーからの留学生がいた部屋で、一緒に来た日本人3名と一緒に入った。
 この日から日本人たちの活動は始まった。世界一周の自転車旅をスタートさせた者、東南アジアをヒッチハイクする者などは、次々と抜けていった。シンガポールで港湾会社の起業を目指す者や、ここに根を下す覚悟の者は、情報収集に毎日でかけていった。漠然とした海外雄飛の夢しか持っていない私は、特に目的もなく、ホステルに残っていた者たちと行動を共にすることが多かった。
 毎朝、近くのアパート群の下にあった屋台村から新聞と朝食を買ってきて、しばらくは新聞を熟読していた。当初は、辞書ばかり引いてたが、徐々に会話ができるようになり、留学生が居れば知らない単語の意味を口頭で聞くようになった。また、ホステルの中にシンガポール工科学院バドミントン部主将のマレーシア人がいた。彼に連れられて定期的に練習に通うようになった。
親をだまして金をゲットし、シンガポールにやってきたのだが、ここにきて岡山に居るはずの私がシンガポールに暮らしていることを親に手紙を書き暴露した。海外との行き来がまだ少なかった時代なので、親はどれほど驚いたことだろう。しかし、せっかく外国にやってきたのだから、英語をものにして帰りたいと説得した。それからというもの、ビジネススクールや大学の語学コースに熱心に通うようにした。また、親は、滞在期間中開催された国際試合シンガポールオープンバドミントン大会に参加の日本人選手にお金を託してくれ、生活費も帰りの交通費も私に届けてくれた。

YMCA Katongの大半は長期滞在の留学生。その中に私も溶け込んできた。アクロバティックなバドミントンをするインドネシア人、先述のシンガポール工科学院バドミントン部の主将、いつもギターを弾き楽しませてくれる中華系のマレーシア人、同室のフィージー人、同じく同室の哲学するインド系マレーシア人などが親しい友達となった。ひとり、目立たない心惹かれる者がいた。朝早くでかけ、暗くなってから帰ってくるシンガポール工科学院に通う真面目そうなサワラク人だ。
ホステルに帰るなり、食事に出かけようとしていたので、「こんな遅い時間にまだ屋台街は開いているの?」と聞くと、「締まっているけど、いつも食事をお願いしているところがあるので大丈夫。」と言う。私も一緒に連れて行ってもらうことにした。やはり屋台街は締まっていたが、彼は近くの個人宅に入っていった。屋台街でナシ・チャンポールを売っているおばちゃんの家だった。
礼拝が始まるところだった。父親が先頭に立ち、2列目に男の子3人、3列目におばちゃんが立っていた。5分ほどで礼拝は終わり、父親が振り向き、子供たちを次々と説教した。一番下の子は泣き始めた。おばちゃんが後ろからなだめていた。「これがイスラムの礼拝?」とサラワク人に聞いた。「そうだよ。」礼拝という行為の中に、一家団欒があり、家長への尊敬があり、説教があり、母親の後ろからの慰めがあった。日本では失われつつある一家団欒が日々の義務の礼拝とともに存在していたのだった。私はこの時、サラワク人に「この人たちがムスリムならば、私はムスリムの家庭を築きたい。」と言った。もちろんサラワク人もムスリムであった。それからというもの、ホステルの中でも彼の部屋を訪れ、イスラムのことを聞くようになった。
その時、マレーシアをヒッチハイクしていた拓殖大学の学生がホステルに帰ってきた。土産話を聞いていると、クアラルンプルの国立モスクに、拓大OBの日本人ムスリムが住み込んでいるという。彼はその先輩の部屋に泊めてもらいイスラムに入信してきたばかりだという。またヒッチハイクに出発するというので、クアラルンプルまで一緒に連れて行ってもらうことにした。私の目的はイスラム入信であった。
クワンタン、トレンガヌー、コタバルと東海岸をヒッチハイクで北上していった。東海岸は貧困ながらもムスリムが多い地域であり、住民は素朴でいい人たちばかりだった。コタバルからクアラルンプルは遠い距離だったが、ヒッチハイクで進み、ついに拓大OBが住み込んでいる国立モスクに到着した。
その拓大OBはモスクに来た目的を聞いてきたので、「入信するためにやってきました。その前に日本人ムスリムにひとつ質問をしてみたいのです。」と言った。その質問とは、単なる確認でもあった。内容は、日本の社会は酒を酌み交わす文化で成り立っているのではないか?ということであった。逆に彼から厳しい言葉があった。「旅行先でムスリム名をもらいたいだけで、入信して、あとはイスラムを忘れていく日本人は多い。イスラムを選ぶからには、本物の信仰者になり、イスラムの指導者になってほしい。それでなければ入信などしてもらいたくない。」というものだった。「私は本物でありたい。」と答えた。「それならば、次のものを暗記できれば入信を許そう。」と信仰告白の言葉、ファーティハ章、クルアーン短章3つ4つのメモを渡してくれた。あっという間に暗記し、私は国立モスクで入信することになった。私を連れてきてくれた拓大生は私を置いてまたヒッチハイクの旅に出かけていた。
入信して、すぐに割礼をし、傷も癒えてから、シンガポールに帰ってきた。

ムスリムになってシンガポールに帰ってきた私は、屋台街のおばちゃんの家に暖かく迎え入れられた。コメン家といった。3人の息子たちとともに礼拝の列に並ぶようになった。そして、昼間シンガポールイスラム協会(MUIS)が開いている新入信者のための英語イスラム教室に週2通うようになった。しかし、私はまだ一人前になりきらないうちに、岡山に帰ることになった。もう休める期間を過ぎていたからだ。

日本編その2

 岡山に帰ると学生生活の再開である。退部して出かけただけに、封建的なバドミントン部に再入部するのは難しかった。入部したいのなら、2年生でありながら、1年生扱いとして掃除は率先して行い、大会出場も部の執行部からの許可を待つしかなかった。一年前は中国四国でシングルス3位、大学のエース級だったものが、平の一年生からのスタートとなった。さらに、以前と違うことは、ムスリムだったことだ。

イスラムのホームページ管理人ページに当時の様子を描いた部分があるので紹介しよう。
『私はマレーシアのMasjid Negaraで入信した後、岡山で学生生活を送っていました。いまだによく覚えているその頃のエピソードがあります。当時は周囲に誰もムスリムがおらずイスラムに関する情報源は、市販されている書籍と大学の図書館だけでした。その時のラマダーン月前に、東京のあるイスラム団体からラマダーン月時刻表が送られてきました。それを私は、大切に壁に貼って、毎日それを見ながら断食をしていました。「断食とは日中飲食をしない」という言葉のみを、真に受けてやっていたのです。だから、確かに飲食はしていなかったものの、たばこだけはしっかり吸ってました。また、その日の断食明け時間が来て、感謝とともに食事を食べながら、西の空に高く輝いている太陽を眺め、その美しさと一日断食を終えた充実感を味わっていました。断食時刻表は、東京時間だったので、西の岡山はまだ太陽が高かったのです。笑い話のようです。大学生にもなって断食時刻表の見方もわからないのかと言われれば、ごもっともなことですが、印刷された断食時刻表と、「断食とは飲食をしないこと」としか情報はなかったので、仕方のないことです。
 当時の私の礼拝はといえば、これまた驚きです。入信して1ヶ月ほどシンガポールの子供たちと並んでみようみまねでやったことのある数回の礼拝の記憶くらいでした。礼拝したいと思った時に、ひとりで頭を付けたり、立ったりしてやってましたが、動作も回数もでたらめでした。ただ、心の中はアッラーに対する畏怖と感謝を込めてやってた記憶は残っており、いままで行ってきた礼拝の中で、最も集中していた礼拝のひとつと言えるほどです。これが、当時の私だったのです。

 私のホームページ作成の目的の第1とは、こういう純粋なムスリム青年にイスラムの情報を与えることではないかと思うのです。その当時の私が、このホームページに出会ってたら、どんなに感謝しただろうと言えるようなホームページを作りたいですね。礼拝はどうするの?断食はどうするの?この場合ムスリムとしてどういう判断をするの?そういったものに、答えられるようなホームページにしたいものです。イスラム相談室を3年前に作った時から、私の対象とした相手は27年前の私自身だったのです。』1999年12月30日

しばらくして、私の部員として地位は、学年通りに戻され、大会にも参加できるようになった。そして、大学3年から、力を発揮しはじめた。結局4年生では、中国四国学生シングルス1位と地域の頂点に立った。バドミントン選手として練習に励んだおかげである。一方、イスラムを学ぶ努力をしなかったため、私のイスラム知識はシンガポール当時のままで、信仰も徐々に色あせてきつつあった。このままでは、いつか私の心からイスラムが消えてしまうのではないかという不安を感じていた。ここは思い切って、一人前のムスリムになるために留学をしなくてはならないと考えるようになった。

マレーシア編へ続く

マレーシア編

イスラムを学びたい。でも、どこに行けばいいのかわからない。私が知っているのはシンガポールだけだった。コメン家を頼り、シンガポールイスラム協会(MUIS)を頼りやってきた。全日制で学べるイスラムの学校は当時シンガポールにはなかった。

私は昔拓大生と一緒に辿った道を、ヒッチハイクで再びひとりで辿ることにした。ただ、以前と違うのはムスリムであり、マスジドに寄り道をしながら、自分が暮せるいい場所を探しながらの旅だった。結局、これといった収穫はなく、国立モスク(マスジド・ネガラ)に辿り着いた。昔居た日本人はもちろん居らず、マグリブの礼拝を待ちながら黄昏時に旅の疲れを癒すように座っていた。このくたびれた外国人青年にたまたま通りかかった若者が声をかけてきた。「どこから来た?」「日本から」「何をするために?」「イスラムを学ぶ場所を探しに。」実は、この出会いが私にとってこれからの留学人生をスタートさせるきっかけとなるのであった。

マレーシアは比較的新しい国で、イギリスから独立したのが1957年。そして、最初の国家プロジェクトとしてマスジド・ネガラが完成したのは、1965秋のことであった。私がマスジド・ネガラに辿り着いたこのころ(1975年)は、各州のトップのコーラン読みを集めて国のために学ばせるタハフィズ・アル・クルアーン(コーラン暗記学院)が発足して間のなくのことであったようだ。そして、私に声をかけてきた若者とは、この学院の学生長バスリ師であった。後で聞いた話だが、彼がマスジドの周りを散歩することは稀で、その日はたまたま散歩したくなったそうだ。これも運命だった。この出会いがなければ、私は収穫なしで、シンガポールに帰っていたことだろう。さて、この素朴なエリートは、彼らを管轄している総理府宗教庁(現在のJAKIM)に掛け合ってくれた。「イスラムを学びたい外国人にもその場所を提供してやってほしい。そういう制度がないのなら作るべきだ。」しかし、首都クアラルンプルにイスラム中等学校はなかったのである。奨学金制度も、以前の日本人ムスリムがどこから受け取っていたかはわからないが、おそらくPerkimという新入信者支援をしていた宗教団体だったのではなかろうか。その時はまだ総理府宗教庁にそのような制度はなかったようだ。結局、その後時間はかかったが、総理府宗教庁から私に奨学金が出るようになった。

バスリ師は学院に掛け合ってくれて一時的に彼らの寄宿舎に泊めてもらえることになった。さらに、バスリ師は私の留学先を探してくれた。以前このマスジドに住んでいた日本人ムスリムはマレーシア国民大学に通っていた。制度として、日本人がマレーシアの大学に進むのは、高校卒の資格があれば、手続きさえすれば入ることができるし、マレーシアの大学は主に英語で授業がすすめられていたので、日本人留学生にとってはたやすいことだと想像できる。しかし、本当にイスラムを学びたいならば、イスラム中等学校でマレー人子女といすを並べて学ぶのが理想だと言っていた。私は最初から本物を学びたくて、バスリ師にマレー人の文化を吸収ながら、一緒にイスラム中等学校で学びたいと伝えたのだった。

当時クアラルンプルが属する州は、スランゴール州であった。私の学校探しはスランゴール州内でなければならないと宗教庁から条件を付けられた。州内にはわずか2つしかなく、クラン市のイスラム・カレッジと、ペラ州との州境サバ・ブルナム郡の中等学校のどちらしか選択肢はなかった。

バスリ師の出身校がサバ・ブルナムの中等学校だったので、そんなに優秀な学生を輩出する学校ならばと、見に行くことにした。その学校は、以前は、ポンド(pondok)と呼ばれていて、カリスマ性のあるシェイフの周りに学生が集まってきて共同生活をしながら、学問だけではなく、農作業なども一緒に行っていたそうだ。主に女子生徒はシェイフの自宅に隣接した2階建ての大きな寄宿舎に、男子生徒は学校を囲むように点在する2畳ほどの高床式の小屋に2人か3人ずつ住んでいた。水道も電気もなく、わずかに本が読めるだけの小さいブリキ缶のランプで学び、瓶にためた雨水とヤシの葉っぱや木を燃料として炊事を行っていた。生徒の持ち物は親元から持ってきたコメと一枚のサロン(腰巻布)、と学校の制服のみであった。昔は、生徒に年齢制限はなく、10歳から40歳くらいまで学んでいたらしい。それが教育制度の改革により、州政府管轄下で、一人一人に机とイス、教室には黒板を備えた校舎となり、12歳から18歳までのちょうど日本の中高一貫校と変わったのである。カリスマシャイフは校長へ、他の先生方は教員となり、定められたカリキュラムで学び、その過程を修了すれば、大学へ進学することになった。しかし、まだポンド時代の面影は女子生徒の寄宿生活、男子生徒の小屋での生活に残っていたようだった。

バスリ師と校長先生宅を訪れ、学校を視察して回った。校長先生はアハマド・ユソフ師といい、この地域では知らない人がいないカリスマシェイフだった。昔であれば、シェイフの二つ返事で私の入学は今日にでもOKだったろうが、州政府のイスラム事務所にて入学申請をするようにとのことだった。

次の日、宗教庁の推薦状などを持ち、州政府のイスラム事務所を訪れた。外国籍の生徒を入学させるのは初めてのケースだというので、慎重に審議されたのか、何時間も待たされた挙句、また後日来ることになった。2回目の手続きは、イスラム事務所から入学許可の書類をもらい、すべての手続きは終わった。

早速、お世話になったタハフィズ・アルクルアーン(クルアーン暗記学院)の仲間と別れ、晴れてサバ・ブルナムの中等学校へ入学した。正式学校名はSekolah Arab Menengah Tinggi Salahuddin Abdul Aziz Shah (サラフディン・アブドゥル・アジーズ・シャー アラブ高等中学校)である。私のために校長は近代的な家を用意し、そこに同校在学中の三男と、親戚の男子学生も一緒に入り、3人での生活となった。そして、私の振り分けられた学年は中学1年生であった。中学1年は2クラスあった。50名ほどのクラスだが、この年の1年生にはサバ州から短期留学生としてまるまる一クラスの生徒が約1年間居ることになった。サバ州の教育レベル向上が目的の短期留学だったようだ。

私はこの時22才。中等学校を普通に進級していくと28才で卒業し大学進学となることになる。それは、長すぎる。高校卒の資格が欲しいわけでもないので、飛び級を許してもらえないだろうか?と校長先生に申し出た。クラス50人中5番以内の成績を取れば、次の学期は1学年飛び級するというもので、学期の間に1年分の勉強を独学で行うという条件も付けた。校長はもちろんOKだが、イスラム事務所の許可が必要だったので、出かけて、熱く熱弁をふるい許可をもらった。イスラム事務所にとっては何もかも新しいことで困ったことだったろう。そして最初の学期末テストがあったが、飛び級どころか50人中49位という惨憺たる結果に終わった。
中等学校には、部活動として、スポーツ部というのがあった。日が高い夕方に集まりサッカーをし、風が止んだ夜から同じメンバーで野外でのナイターバドミントンになり、最後は残ったメンバーだけでセパ・タクローをするというものである。夕方のバドミントンは花形で寄宿舎の女子も応援に駆け付ける。バドミントンのヒーローは学校のヒーローでもあった。そこに、私が参加しはじめた。マレーシアがいくらバドミントンが国技のような国でも、田舎の高校生が日本の大学でバリバリに練習していた青年に勝てるわけはない。男前でもあったヒーローの人気は色あせはじめ、ニューヒーロー日本人が登場し始めたのだ。そのうわさはあっという間に郡下に広がり、サバ・ブルナム最強の社会人チーム『ガルーダ』からスカウトされ、社会人チームにも練習に通うようになった。バドミントンはどこに行っても人と結び付けてくれた。
どうもスポーツ部の活動が盛んになったのは、中等学校バドミントン大会郡予選を間近に控えていたからだった。各学校2名の代表を選出し、何週かにわたり郡の体育館でシングルストーナメントが行われた。一般の高校は当校のような宗教学校よりも生徒数も多くレベルも高いのが一般的で、大会での優勝は私でも難しいと感じられた。

さて、男前の元ヒーローが登場した。学校と女子学生の期待を一身に受けコートに入ったが、いいところなしにあっさりと負けてしまった。期待が大きかっただけに、落胆の声も大きく、次の日の朝は「弱すぎ」と言われるようになった。ニューヒーローの私は別の日の登場となり、やはり期待を一身に背負って戦うことになった。私のうわさは何倍にも大げさに伝わり、対戦する相手がみんなビビって自滅してくれた。私は、あれよあれよという間に、最終日の準決勝・決勝に進んだ。決勝の相手はセンスのいいプレイヤーで、勝つのは難しそうだったが、接戦で自滅してくれ、優勝が転がり込んできた。

さて、学業は順調で授業もわかるようになり、2回目の学期末試験では3番を取り、飛び級をはたした。以降、学期末試験では毎回5番以内を取り、2年間で6年分の勉強をしたことになった。

1年目は、学校近くの家に住んでいたので、マグリブの礼拝は学校の隣のマスジドで行い、それからイシャ―の礼拝まで約1時間少々、毎晩のようにたばこを吸いながら語らう地元の長老たちの輪に加わった。長老たちも私の参加を歓迎し、教科書では学べない信仰への知恵の含まれた寓話を話してくれることが多かった。このお話は、大いにプラスになり、徐々に信仰がついてきたように感じた。
2年目からは、森の中の一軒家に引っ越した。踏み分け道を通って帰宅するため、毒蛇との遭遇が怖く、夜の移動は避け、必ず明るいうちに帰宅するようにしていた。そこでは、ハーフィズ(コーランを全部暗記している)の学生とふたり住まいであった。一日5回の礼拝後は必ず1時間のコーラン独唱することを慣行とした。それを聞きながら間違いがあれば、友達が訂正してくれた。この1年間で私のコーラン読みは格段にレベルアップしたはずだ。

ところで、ビザの更新、宗教庁の呼び出しで、クアラルンプルに行くことが時々あった。たまたま、マスジド・ジャメに礼拝に行った時に、あるマレー人から呼び止められた。私が日本人であるというのを確認して、Warakと呼ばれる信仰篤き不思議な老人がいるから会わないかというのである。彼は日本人で、人の心が読めて、超人間的能力があるのだとか。何か怖そうで不思議世界の話を彼のエピソードとしていくつか聞かせてくれた。真剣に語る彼の話を信じて、その日本人に会いに行くことにした。まずは、人の心が読めて、信仰心がない者に玄関の敷居をまたがせないという関門があるらしい。

後日、その日本人が住むマラッカに向かった。彼が営む自転車屋さんの住所と屋号を確かめ、「アッサラームアライクム」とあいさつして敷居の前に立った。確かに日本人らしき老人が「ワアライクムッサラーム」と答え、メガネの奥から笑みが漏れてきた。私は第1関門合格し、敷居を超えて彼の仕事場へ入った。「3日間滞在している間に、イスラムを教えてもらいたいのです。」と伝えた。彼は言葉少なく「じゃあ、付いておいで。」としか言わなかった。アザーンを聞くと、仕事を置いて、東京のサラリーマンのような素早い足取りで隣のマスジドに向かった。閉店すれば、家に急ぎ、服を着替えてマスジドに行く。晩御飯を食べると、またイシャーの礼拝に行き、その後スーフィーのズィクルを行っていた。私は3日間バイクの荷台に乗せてもらい着いて回った。言葉で教えてもらったものはないが、きびきびした彼の動きと、彼のしぐさに言葉では伝えられないイスラムの奥義があったような気がする。最終日師は言った。「日本にはイスラムがない。だから、行きたくない。」と。私の心にグサッと突き刺さる大きな批判だった。「日本にイスラムを植えなければ。」
奥さんが師について語ってくれた。「彼はコーランは読めないし、あなたほどのマレー語力も、イスラムの知識もないかもしれない。でも信仰心はマレー人の誰にも負けない。」とのことだった。

この訪問の後クアラルンプルに戻ってマスジド・ジャメに行くと、また不思議マレー人に会った。「君がダアワで成功すれば、また、ここで会うことになるだろう。」という言葉を残して別れた。以降何十年もの間、マスジド・ジャメに行くがその不思議マレー人にいまだに会うことはない。

マレーシアでは、信仰、コーラン読み、イスラムの基礎学力、マレー人としての文化の習得ができたように思う。入信6年目にしてやっと信仰心が芽生えたと自覚するようになった。

学期の区切りには休暇があった。休暇になれば、寄宿舎や小屋に住む学生が一斉に親元に帰っていく、実は私も親元としてシンガポールのコメン家に帰っていった。私は年齢的に子供たちの列にはならず、コメン氏をAbang(兄)と呼び、奥さんをKakak(姉)と呼んだ。ムスリムとして成長を続ける私を見ながら、誇らしげにご近所に紹介してくれた。そして、私が休暇を終わりサバ・ブルナムに帰るときは、服や食料をたくさん持たせてくれ、お別れの駅でKakakは涙を流しながら別れを惜しんでくれた。「コメン家の一員だから、シンガポールが里だからいつでも帰っておいで。」と言ってくれた。

私が第6学年(高校3年生)に進級し、次は大学という段階で、私は宗教庁長官に留学先の変更許可を申し出た。「このまま私が留学を続ければ、次はNilam Puriという宗教大学か、一般大学の文学部宗教学科に進むことになるが、それは私にとって、いつまでもマレー語とアラビア語という二つの外国語を使いながら、学び続けることになる。私はここまでマレーシアに育ててもらったが、ここから本場アラブでアラビア語だけでイスラムの勉強をしていきたい。」と伝えた。長官は残念がったが、私の選択を尊重し、認めてくれた。


エジプト編へ続く 

エジプト編

本場に行きたいと言ったものの、手続きなど何もしてなかった。ただイスラムの最高学府アル・アズハル大学に入りたいという気持ちだけで、ビザなし、あてもなしで飛び込んだのだった。ちょうど、マレーシアの留学のスタートが、ヒッチハイクの末行きついた目的地マスジド・ネガラでバスリ師との偶然の出会いがあったからこそ、留学につながったのだが、その時と同じ状況で飛び込むことになる。
困ったときは、ここを訪ねたらいいと長官からもらったメモが、アッバースィーヤにある「マレー人会館」の住所だった。私は、行く当てもないので、空港からまっすぐマレー人会館を目指した。荷物を持って入り口に立っていると、通りかかった学生が声をかけてくれた。クランタン州出身の学生だった。私の経歴を聞き、部屋に通してくれた。彼は、マレーシア学生会の執行部に私をサポートしようと掛け合ってくれてた。とにかくその夜は、彼の部屋にこっそりと潜り込むことになった。学生会は、マレー人会館を管理しているマレーシア大使館と交渉し、私の奨学金取得と留学手続き完了まで、マレー人会館に無料で住まわせ、食事も無料という夢のような条件を引き出してくれた。私がマレーシアで総理府宗教庁の奨学生だったのが影響したのかもしれないし、マレーシア学生会と大使館の良好な関係がすべてを与えてくれたのかもしれない。

アル・アズハル大学の寮には数名の日本人留学生がいるというので、連れて行ってもらった。日本ムスリム協会から派遣された留学生たちで、ディラーサート・ハッサでアラビア語の勉強をしている留学2年目の学生たちで、ほぼ同世代か少し上の年齢だった。私のように何も手続きをしていない日本人の登場に、先輩日本人留学生たちは、手続きのお手伝いをしなければならなかったのだろうが、ノウハウも語学力も自信がなかったようで、マレーシア学生会にお願いしたらということになった。

さて、私の奨学金取得と留学先の手続きを担当したのは、学生会きってのやり手で、あらゆる難しい手続きを可能にしてきたマ・ダウド氏だった。当時のエジプトでの手続きは、何度も窓口に通わされ、門前払い、たらい回し、書類の行方不明などがよくあり、言われるがまま通っていると一つの手続きが何か月もかかることがある。スムースに手続きを終わらせるには、辛抱とアラビア語力と人間関係が必要だ。私の手続きは0からのスタートで、普通の人には手に負えない手続きだった。マ・ダウド氏だからこそできる手続きなのである。彼は、わずかな日数で奨学金手続きを完了させ、シェイフ・アル・アズハルに表敬訪問も決めてきた。そして、他の日本人と同じディラーサート・ハッサへの入学手続きを完了させ、アル・アズハル大学の寮にも入寮できた。結局、すべての手続きを3か月程で終わらせたのである。その間じゅうマレー人会館でお世話になったことになった。

マレー人会館ではいろいろな経験をさせてもらった。マハティール副総理、アンワル・イブラヒーム氏など後のマレーシア政界の中心人物の講演会があり、懇親会では学生に交じって懇談に加わったことがある。また、マ、ダウド氏もクランタン州出身だったし、クランタン州出身の学生の部屋に出入りし、座長のようなマワルディ氏から個人的にイスラムを教えてもらったりした。氏は、クランタンの偉人Tok Kenaliのひ孫で一目置かれたシェイフだった。

当時世の中はオイルショックの時代に入り、しばらくしてアラビア語ブームがやってきた。それでイスラムに入信し、アラブ諸国のイスラム大学への長期留学を目指した日本人がいた。それが彼らムスリム協会からの留学生たちであった。長期留学までしなくても、観光ビザで入国し、カイロ大学やアメリカン大学のアラビア語講座で学んでいたものも多かった。多いときは50名を超えていたと聞いている。
ちょうど同じ時期、私はアル・アズハル大学の寮に入り貧乏な学生生活を送りはじめた。奨学金は、寮費と朝食代、昼食代が引かれて5ポンドの現金をもらった。このお金で、夕食、バス代、書籍代などすべてを賄わなくてはならず、何かを削らなければ生活はできなかった。昼食は半分食べ、残り半分は夕食へ回した。近距離のバスにはほとんど乗らず、徒歩で済ました。日本人の付き合いで集まることがあったが、貧乏学生の私は、よほどのことがない限り参加することはできなかった。ただ、日本大使館近くに住むムスリムアラビストK氏宅は、若い学生たちが出入りしやすい場所だったし、街に出れば私も寄った。もう一か所、アングロスイスというホステルにはたくさんの日本人が中長期滞在していたので、集合場所になることが多かった。

私がK氏と知り合ってまもなく、K氏の妹がエジプトにやってきた。エジプト好きで、イスラムに興味を持っているということで、K氏からイスラムを教えてやってほしいと頼まれた。週1くらいの割合で妹にイスラムの信仰についてのお話をしてあげた。しばらくして入信するということになった。ちょうど、K氏の結婚相手も入信の必要性があったので、二人を連れてアル・アズハル・モスクで入信させた。私が入信まで導いた最初のケースだった。

妹をさらに一人前のムスリマに育てるため、知り合いのインドネシア人女学生が共同生活しているマンションに一緒に住まわせてもらった。インドネシア人たちからイスラムを教えてもらい、いくいくはアル・アズハルの女子学部へ入学することを目標とした。でも、実は内心アングロスイスで日本人の中で過ごすよりは、特別に私のテリトリー内に置きたかったのが本心であった。K夫妻からは、「妹はムスリマになり、結婚相手もムスリムでなくてはならない。もらってくれないか。それが二人にとって一番いい。」と言われ、大きな味方を得た。妹も慣れない民族の中で緊張の生活が続き、私が訪ねる度に笑顔がこぼれ、いつも私の訪問を心待ちにしていたようだった。私はイスラムを学び貧乏な学生生活をしていたので、結婚などは一生ないのではないかと思っていたが、ここで一気に恋愛が生まれ、結婚への運びとなった。

結婚については、マレーシアのペルリス州出身のマフムード氏が、イスラム最高評議会(エジプトイスラム庁に当たる)に結婚式を上げてもらおうと言い出した。日本人同士がアル・アズハルで出会い結婚するという過去にないケースという理由で手続きを続けた。そして、イスラム最高評議会を動かし、最高評議会長官とアル・アズハルのシェイフの出席で、日本国大使も招いて結婚式が大々的に行われた。

一文無しの私が結婚式まで上げてもらい、さらに、結婚によって妻と妻が貯めてきたお金も転がり込んできた。そのお金でマンションを借り新婚生活が始まった。もちろん、学業も順調で、ディラーサート・ハッサは毎日通い、2年目アル・アズハル大学宗教学部1年生へと進級する手続きも完了した。

ディラーサート・ハッサは、アル・アズハルの学生寮の敷地内あり、毎日徒歩で通えた。大学入学前の予備課程としてイスラム基礎科目をアラビア語で学習でき充実した内容だった。

それ以外に私が欠かさず熱心に通ったのは、寮のモスクで週3の割合で開催されていたタジュウィード教室である。最初はひとりの日本人ムスリムと一緒に通っていたが、あまりにもシェイフからの訂正とやり直し指示が多く、精神的にめげて来なくなった。20名ほどの各国からの学生に交じって通い続けたが、やはり、私に対する訂正とやり直し指示は多く、正確なマハラジュ(調音点)、口室の形、口の形の細かい指示がOkと言われるまで繰り返された。少なくとも、一緒にいっているマレーシア人やインドネシア人よりは自分の方が正しい読みをしていると思っていたが、彼らに対して、ほとんど訂正はなかった。ある時先生に聞いてみた。「私は、友達のマレーシア人よりも下手な読みをしていますか?」「正直言えば君のコーラン読みは生徒の中でも一番うまいくらいだ。しかし、イスラム諸国から来ている者は上手に読めなくても、他にたくさんのコーラン読み専門で学んでいる者がいる。だから彼らは大体読めればいいのだ。しかし、君は違う。君にタジュウィードを完璧にマスターしてもらわなければならない。日本人には君以外にコーランをちゃんと読める者はいないからなのだ。だから、厳しく訂正する。」そんなものだと思っていた。ただ、自分の発する音声と、耳に伝わる音声は違うので自惚れの思い込みでは間違いで、やはり先生の耳に届いた音声への訂正は素直に聞くようにしなければならないと思っていた。
また、趣味としてファジュルの礼拝前のコーラン読みをモスクに聞きに行った。当時の有名カーリー(コーラン読み手)としてシェイフ・マハムード・ハリールル、フサリー、シェイフ・アブドル・バースィト、シャイフ・アリー・ルバンナーなどがいたが、コーラン読み割り当て表のようなものが販売されており、モスク名とカーリーの名前をチェックして、彼らの生のコーラン読みを聞きに行ったのである。あまり、頻繁に行くのでそのうち顔を覚えてもらったようで、着いたら暖かい視線が飛んできた。

私のエジプト滞在後半のある日のクルアーン教室後、先生は私を呼び止め「おめでとう。これで日本民族のファルド・キファーヤ(民族または社会の誰かひとりが達成しなくてはならない義務)は達成された。」と言ってくれた。私がエジプトで得れた勲章の一つである。

金曜礼拝は、寮のモスクか、マレー人会館近くのモスクに出かけることがおおかった。後者には、マレーシア人留学生と近くの町工場や建設現場の労働者が集まっていた。私が育った二つの国の人々を見れる象徴的なモスクであった。マレーシア人は、金曜日は洗濯の行き届いた清潔な服装でモスクに入り、エジプト人は、薄汚れた作業着の礼拝者が多数いた。よくマレーシア人はそういうエジプト人を批判していた。『清潔は、信仰の半分である。』なのにと。モスクでは、フトバ(説教)の間に修復工事のための募金箱が回ってくる。募金したければこっそりとお金を入れ、募金できなければ隣に回すという形式で行われている。マレーシア人も私も日本円にして10円とか100円入れるくらいのものだが、私の隣にいた労働者風のエジプト人が高額紙幣を複数枚重ねて入れた。3万円くらい。内心信じられなかった。彼の月給は3万円もないはずだ。モスクのためにそんな大金を入れれるその気持ちは何なんだろう。

また、マレーシア人は清潔な部屋でひとりで礼拝することが多いが、エジプト人は路上で礼拝している人がいれば、服が汚れるのも厭わず、すぐに列に加わる。礼拝は早い時間にジャマア(複数)で行うことをよしとするものだ。

 イスラムの肝心なポイントは、エジプト人がより押さえているのかもしれない。そういうエジプト人を私は好きなのである。

 私はかなり後になって、タイ南部のイスラム小学校に寄ったことがある。教室で講演したあと、その学校を後にするときに、寄付として10万円ほど置いて帰った。やっとエジプト人の列に並べたのかもしれない。

リビア編へ続く>>

リビア編

さて私たちの結婚は、日本の親からの承諾をもらっておらず、また、お世話になったシンガポール、マレーシアにも挨拶周りをしなくてはいけないと思い、久しぶりに帰国した。ちょうどこの1970年代は日本赤軍が国際テロ事件などを起こし、アラブというとキナ臭い匂いがしていたので、私の両親も心配していたようだ。見たことのないムスリマの結婚相手となるとさらに心配だったのだろう。しかし、妻本人と会って、両親の不安は吹き飛んでいったようだ。

その後、シンガポールのコメン家へのあいさつ、マレーシアの中等学校へのあいさつ、そして最後に宗教庁長官へのあいさつと回った。宗教庁長官ナワウィ氏はアル・アズハル大学で留学を続けることに難色を示した。エジプトは奨学金が少なく、生活のために働かなくてはならなくなる。そうなるとイスラムの勉強は中途半端になるだろう。イスラムの勉強はどの国でやっても同じだ。充分な奨学金を出してくれて勉強に打ち込めるサウジアラビアやリビアに行くことを薦めるとアドバイスをくれた。そして、私たち夫婦は、宗教庁の好意で敷地内の宿泊所に無料で住まわせてもらい留学手続きをすることになった。いまだに、マレーシアに居る限り宗教庁の奨学生であるという理由をこじつけてもらったようだ。

サウジアラビアの宗教大臣がマレーシアを訪問した。これがチャンスとばかり宗教庁長官との会談後、私も入室させてもらい。長官は私を紹介し、サウジアラビアに連れて行ってほしいと申し出てくれ、大臣も了承してくれた。早速、大臣ご一行と一緒にサウジアラビア入国ができるのかと思いきや、大臣秘書が大使館に伝えたので、あとの手続きは大使館でやってくれとのこと。大臣の許可があるので、留学は決まっているようなものだと言ってくれた。しかし、サウジアラビア大使館に手続きに行くものの、なかなか前に進まない。何か月も待たされた。妻は妊娠して徐々におなかが目立つようになってきた。これ以上待てないとのことを長官に伝えた。最善の方法として、長官はサウジアラビアの手続きを諦め、リビア大使に連絡を取ってくれた。そして、2,3日で私のリビア留学は決まった。
お腹の大きい妻を連れてリビアのトリポリ空港に到着した。大使館発行のビザは問題なかったのだが、イスラムダアワ大学からのお迎えが無かった。仕方がないので、タクシーに乗って大学本部に行った。何かの手違いなのか、私の名前は本部には届いてなかった。アラブではありがちなことなので驚きはしなかった。また、この時点から本当の手続きをして、ゲットできるのもアラブであった。奨学金、入学、夫婦で住める場所をお願いした。

イスラムダアワ大学はまだできて間もない大学で、やっとこの年第1期卒業生を出し、予備校といえる高校が開校したばかりだった。大学の学長は、シャイフ・スブヒ宗教大臣が兼務していた。多忙な大臣だが、この大学の授業をほぼ毎朝見回わるほど教育に熱心な大臣だった。アル・アズハル大学と違う点は、何万人もの学生を世界中から集め大講義室でマイクを使って授業をし、出席など取ることはなく、欠席しても試験前にノートを借りれば進級試験は何とかなるのに対して、一方のイスラムダアワ大学は一学年40名程度。欠席すればすぐにわかるし、時々教授が寮の部屋をノックすることもあったので、授業をさぼることはできなかった。追試はあるものの全教科合格でやっと進級がかなうもので、ごまかしは効かず、毎年生徒は真剣に進級試験に立ち向かうしかなかった。
さて、まず最初は学年振り分けの口頭試験があった。高校ができたばかりだったので、試験は形だけでほぼ全員高校2年生からスタートである。中にはインドネシアの博士課程だった学生が、高校2年生編入で何年分も予定が狂った学生もいた。私の場合は、お腹の大きな妻同伴で、妻も学生として授業に通うというので、学校側も男子寮の中に特別に家族部屋を作ってくれた。私の同学年は約80名でほとんどが男子学生だったが、妻とタイ人のふたりだけが女学生だった。高校2年生から大学卒業までの6年間、80名の学生のうち、進級がかなわず下の学年に次々取り残されたり、途中で退学する者などがでてきて、結局入学から卒業までストレートで進級した者はわずかに20名少々だった。もちろん上の学年から落ちてくる者もいたので、卒業時の同窓生は約50名であった。日本の大学では考えられないほどの厳しさだ。

ここでの生活は申し分なかった。まもなく第1子(長女)が生まれ家族3人での生活になったが、寮には朝昼晩の食事つき、家族用に毎回食堂から部屋へ食事を運んできて食べていた。奨学金も十分で贅沢はできないものの金銭的に事欠くことはなかった。ただ、男子寮の中に家族で住む妻は、どれほど度胸が据わっていたことかと感心する。

高校2年生の進級試験は、教授からの内申点50点満点、試験の点数50点満点で、二つの合計が50点以上あれば合格というものであった。試験開始前1週間で各教科の内申点が明かされて、私は唖然として教授に詰め寄った。東南アジアの学生のほとんどが30点から40点の内申点をもらっていた。つまり合格まで試験で10点から20点獲得するだけでいい。私には内申点20点であり試験で30点以上の結果を出さなくてはならない。「私と東南アジアの学生は何の差があるのですか?」「彼らはみなネイティブで幼少よりイスラムを学んでいる。君は入信して間もないので、まだイスラム理解が伴っていない。」「教授、それは納得いきません。私は少なくとも一マレーシア人のつもりでイスラムを勉強してきました。イスラム理解だって劣っているとは思えません。それからこの内申点は新入信者へのいじめではないですか。」しかし、この内申点に思い当たる節が無くはなかった。それは授業中妻に日本語で解説したりしていたから、日本人夫婦は授業中におしゃべりをしていると勘違いされたかもしれない。結局そのまま試験となり、たいへんな試験勉強の末、40点近くを獲得し進級を果たした。教授もそれからずっと私のことを気に留めてくれ、「君は授業を理解できている。」と言ってくれた。

この試験の成績上位者は1番から20番まで貼りだされ、勉強の励みになった。また、大学では成績上位者は貼りだされた上、驚くことに上位5人には多額の報奨金が支給されていた。

2年間の高校過程は無事終わり、大学へ進級した。家は、旧市街地スーク・トルクにインドネシア人留学生3家族と一緒に家を借りた。石畳の道路に面したところに、扉がひとつあり、その扉を抜け中にはいると中庭があり、それを囲むように2階4部屋と台所がある伝統的なアラブの家である。そこに4世帯で住んでいた。妻とすれば、男子寮内での緊張した生活から解放され、奥様方と一緒におしゃべりができるようになってある面よかったようだ。また、妻は第1子ができて学生という身分は返上していたので、この時は完全に主婦になりきっていた。私は自宅から大学へ毎日通う生活となり、買い物は一緒にスーパーマーケットや市場に出かけるようになった。しかし、時とともに欧米諸国からのリビアに対する経済制裁が厳しくなり、欲しい食材が買えない状態になっていった。

 リビアについて間もなく日本人補習校の教師の仕事をお願いされた。週1休日の時だけ小中学生の日本人子女に国語と算数を教えるのだが、リビアに居る間中6年も勤めあげた。さらに、大学になってからは、企業などに頼まれて通訳をすることもあった。奨学金で生活費は足りていたが、これらのアルバイトをすることによって、多額の収入が入ってきた。しかし、リビアディーナールから外貨への換金は制限があったので、溜まっていくのはリビアディーナールだけだった。

 スーク・トルクに移ってしばらくして第2子(長男)が生まれた。リビアの経済制裁を心配して、義兄であるアラビストK氏が、1年間仕事先として日本企業のリビアトリポリ支社を選んでくれた。子供たちのこと、生活のことを心配してくれたのだろう。よく遊びに来てくれたし、手に入りにくい食材も運んできてくれた。

ある日のこと、長男が急病となり私は抱きかかえて病院に行ったのだが、朝から午後遅くまで待合室で待たされた。リビアは社会主義国で医療費無料だが、病院数に対して患者数が多く、こういう状況の時にでも待たされることを知った。病院の状況、経済制裁下を考えれば生活しにくい国となってしまった。ついには、大学2年生が終わると同時に、家族を日本に送り届けた。妻と二人の子供は、私の両親と共に、愛媛県北条市で暮らすことになった。

家族の居なくなった私は、3年生から大学の寮に移り勉強三昧の日々を送ることになった。ちょうど一時帰国時に連れてきた日本人ムスリムE君が高校へ入り、後進指導への遣り甲斐もできてきた。勉強ばかりしてきた私の轍を踏まず、会話を中心にアラビア語のレベルアップを最優先するようにとアドバイスした。

さて、私の成績は高校時代から徐々に上がってきた。大学2年生では、日本人では無理だろうと思われてた10番以内にまで躍り出た。ただ、報奨金までは手が届かなかった。ところで報奨金はいくらだったかというと、日本円にしてだいたい1番60万円、2番30万円、3番20万円・・・だったかなと記憶している。

大学3年の進級試験はとんでもない報奨が用意されていた。上位20名にはハッジ切符と路銀、上位5名には例年よりは多い報奨金であった。ただし、条件として自分の国のハッジ団を率いて指導に当たるということであった。私の成績はこの年得意教科が多く2番となり、報奨金とハッジ切符をもらった。ハッジ切符は、とんでもない世界旅行である。トリポリ―ロンドン―東京―ジェッダーローマ―トリポリというものだった。母国に帰ってハッジビザを取得し、母国からのハッジ団の一員としてメッカに向かうというものだ。しかし、日本からのハッジ団はその年はなく、東京のサウジアラビア大使館でハッジビザを取ったのは私一人だけだった。

 私は一人でジェッダに着き、メッカを目指した。途中ハッジの登録事務所に寄って、ハッジ登録をしたが、日本からのハッジ団はいないので、顔で判断されて、ウイグルハッジ団の一員に入れてもらった。メッカの宿泊所は、バングラデシュ系の大家さんが管理するお宅で、ウイグル人約50名と私一人だった。ウイグルからはもう一団別の家に約50名泊まっていたようだった。彼らのリーダー ダームッラー師は私と同じ家におり、唯一アラビア語ができる人だったので、私は師の補佐をさせてもらった。メンバー100名のほとんどは60才以上の高齢者ばかりで、彼らの手を引きながら、感激的な価値あるハッジをさせてもらった。滞在中、偽札事件、他国ハッジ客とのトラブル事件などいろいろな事件にでくわし、ウイグルの人たちを守り頑張ることになる。ハッジ記については別の機会に書いてみようと思う。
 リビア留学の6年間はいい同級生に恵まれ、授業時間以外もよくダアワに関する議論を行った。とくに、仏教国タイからの留学生との議論はそのまま日本に当てはまることが多く、将来の日本のイスラム社会をシミュレーションしながら語り合うことが多かった。この時考えていたことが、実際に今の日本で話し合われていることに驚きを感じる。

勉強を通して知識を補充しながら、自分の信仰心の増減を振り返ることにも十分な時間があった。また、信仰に刺激を与えた夢がある。それはいまだにはっきりと覚えている夢である。リビアの高校時代、夢の中で預言者が流し目でちらりをこちらを見てすぐに去っていき、私は追わえようとしたこと、次は、大学2年スークトルク在住時代に、がけから落ちていく長男を助けれずに声を上げる私が居たことだ。預言者の夢への登場はどんな意味があったのかわからないが、どちらの夢も私の信仰心の足りなさへの警告だと捉え、次の日から急に真剣に礼拝に取り組んだ。

ところで10年にわたるマレーシアとアラブの留学生活の中で、語学習得に苦労したのではないかと思われるかもしれない。しかし、どこにいても語学習得に苦労したと感じたことはない。私が学んでいたのはイスラムであって、言語は単なるイスラムを学ぶための手段(ツール)なのである。だから、語学で苦労するわけにはいかないのである。

最終学年大学4年生の卒業試験は、イスラム諸国出身のほとんどの学生にとって将来を左右する大切な試験だった。成績評価は、合格にはムムターズ(excellent)、ジャイイド・ジッダン(very good)、ジャイイド(good)、マクボール(acceptable)の4段階ある。しかし、卒業証書にマクボールと書いていれば、教員としての就職は難しく、それならわざとに落第して来年の卒業試験を受けた方がいいそうなのだ。誰でも少しでもいい結果を取れるように卒業試験は頑張る。私も頑張ったが、3年生より順位を落とし5番でジャイイド・ジッダンであった。この1年間の勉強時間はかつて経験したことのないほど頑張ったつもりだ。この年、一番厳しかった教科は、『フトバ(説教)』である。一人前のシェイフとなるには必要不可欠な科目だ。教授たちを前に、与えられたテーマに沿って即興でフトバを行わなくてはならない。アラビア語力はもちろん、コーラン暗記、多数のハディースの蓄積、説得力が求められ、総合的能力が必要な科目だ。コーラン朗読ミスは0点となるので記憶に自信のないアーヤは使えない。私をはじめアジア系の学生には厳しい教科であった。

とにかく、晴れて卒業した。私は、日本に帰る前に、シンガポールのコメン家とマレーシアの宗教庁長官ナワウィー氏に卒業報告と感謝の挨拶に行った。長官は私に就職先を用意してくれていた。それは1983年にできたばかりの国際イスラム大学の教員であった。そこで、私は長官に言った。「マレーシアには私のようにイスラム大学を出たシェイフは山ほど居ます。でも日本にはほとんど居ないのです。いい仕事がなくても日本に居続けることが大切なのです。私は『イスラムの杭』として、日本の社会で生きていきます。杭としていつも立っていれば、イスラムを求める者が頼ってくるはずです。マレーシアが私を育てたのは、マレーシアのテレビで拍手喝采を受ける変わった日本人を作るためではなく、日本にイスラムの杭を立てるためではなかったのですか?」ナワウィー氏は解ったくれて、私を送り出してくれた。この年が、長官として最後の年だったようだ。氏は次の年、国際イスラム大学事務局長として天下りしたらしい。

留学記終わり
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