2004年10月15日
断食斎戒の秘密−『宗教諸学の復活』より−(前編)
「やすらぎ」2004年9月号掲載文/アブー・サキーナ前野@ダマスカス

 シャリーア(アッラーの定めし掟−人間の表面的な行為の規範)とハキーカ(真理−人間の精神的な道しるべ)を学問的に調合させることに成功した、イスラーム史上最大の思想家にして学者のひとり、アブー・ハーミド・アル=ガザーリー師(西暦10581111年)。イランのホラーサーン地方トゥース出身の彼は、ラテン名「アルガゼル」としても有名だ。数多い著作の中でもとりわけ有名な彼の代表作、「宗教諸学の復活(イフヤー・ウルーミ=ッ=ディーン)の第一巻「サウムの秘密」章から、今年のラマダンに向けていくつか学ばせていただくことにしよう。

 まずは彼の慣例通り(ガザーリー師に限らず、諸学者一般の慣例でもあるが)クルアーンとスンナの引用から、サウムの徳を確認したい。

≪サウムは、信仰の4分の1を占めるものである。『サウムは忍耐(サブル)の半分。(訳注1)『忍耐は信仰(イーマーン)の半分。(訳注2)と預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)のお言葉にあるとおりだ。

 それからサウムは、もろもろの義務行為の中でも至高のアッラーに直接結びつけられる点で特別である。『すべての善行には10倍から700倍の報奨を。断食斎戒だけを除いては。それはわがためにあり、われがそれに報いよう。(訳注3)と預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)の口を借りて至高のアッラーが言われていることからも明らかだ。

 至高のアッラーは、直接こうも仰せられている。

『まことに耐え忍ぶ者たちには限りない報奨が与えられよう。』(第39ズマル章10節)

 サウムは忍耐の半分であり、その報奨は推量や計算の枠を超えているというわけだ。サウムの徳に納得するには、預言者さまのお言葉をいくつかあげれば十分であろう。

「わたしの自我を手中にする御方に誓って。断食斎戒する者の口臭は、アッラーの御許では麝香(じゃこう−ミスク)の香りよりも芳しいのです。至高のアッラーは仰せられています。『彼(断食斎戒する者)が欲を抑え、食べ物も飲み物も口にしないのは、わがためである。サウムはわがためにあり、われがそれに報いよう。(訳注4)

「ジャンナ(天国)にはライヤーンと呼ばれる扉があり、そこからは断食斎戒する者たち以外は入れません。(訳注5)

 サウムの報奨には、至高のアッラーとの謁見も約束されている。預言者さま曰く、「断食斎戒する者にはふたつの喜びがあります。イフタール(断食を解く食事)をとるときの喜び、そして主とお会いするときの喜びです。(訳注6)

「すべてのものには、入り口があります。イバーダ(崇拝行為)の入り口はサウムです。(訳注7)

 さらにアブー・フライラによれば、預言者さまは次のように言われた。「ラマダーン月に入ると天国の門が開かれ、地獄の門は閉ざされます。シャイターン(悪魔)どもは足かせをつけられて、『善行を求める者は来たれ。悪行を求める者はおとなしくせよ。』と呼びかける者の声が響き渡ります。(訳注8)≫(宗教諸学の復活1/310より)

 以上、実はガザーリー師のクルアーンやハディースの引用はまだまだ続くが、ここでは思い切って割愛させていただきたい。サウムをするにあたっての必要不可欠な行いや、サウムを無効にしてしまう諸点など、いわゆるサウムの基本は、イスラーム法学での解説に譲ることにしよう。

 「サウムの秘密」に関して、ガザーリー師は「サウムの秘密と内面的条件」という小題で次のように解説している。

≪サウムには、三つの段階があることを知るがよい。普通の人のサウム、特別な人のサウム、特別な人の中でもさらに特別な人のサウムがそれである。

 普通の人のサウムとは、食欲と性欲を前述(本稿では割愛)の条件に基づいて抑えること。

 特別な人のサウムとは、耳と目、舌と手足、身体の全器官を罪から守ること。

 特別な人の中でもさらに特別な人のサウムとは、低俗な関心事や世俗的な思いから心を引き離し、至高のアッラー以外のものすべてから全身全霊を守ること。それゆえこの種のサウムは至高のアッラーや審判の日以外のことを考えただけで無効になってしまう。あるいは宗教的な目的で考えるこの世(その場合は現世的なことも来世の糧となりうるため)とは別に現世的なことを考えた場合もまた然り。心の清らかさを常に求める者たちは次のように言うくらいである。

「日中にイフタールは何にしようかなどと思いをめぐらす者には、過ちが加算されるだけである。なぜならそうした思いを抱くのは、至高のアッラーの恵み深さに対しての信頼が足りないからであり、約束されたアッラーの糧に対しての確信が足りないからである。」

 これは預言者たち(ナビーユーン)や篤信者たち(スィッディークーン)、アッラーの近くまで高められし者たち(ムカッラブーン)の位階にほかならず、理論的にその位階について語るには限界があるが、いかにしてその位階に達するか、実践の何たるかはわかる。自らの全身全霊すべてでもって至高のアッラーに近づこうとし、アッラー以外のものからは離れ去ることだ。

 さて、特別な人、つまり正しき人たち(サーリフーン)のサウムに関して言えば、それは罪から身体の全器官を守ることであり、これから述べる六つの事柄を満たすことで達成されるものである。

ひとつ−見るべきではないものすべて、心を捉えて至高のアッラーを思い起こすことから自らの想念を遠ざけてしまうものすべてから、目を閉ざし、見たいという欲求を抑えること。

 預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われている。「一目(見るべきではないものに目を)やることは、アッラーに呪われしイブリースの矢から出た毒の矢を受けるようなものです。ですからアッラーを畏れてそれを振り払う者には、至高のアッラーが心に甘美な信仰をもたらしてくださいます。(訳注9)

 それからジャービルがアナスを通して伝えるには、アッラーの御使いさま(アッラーの祝福と平安あれ)は次のようにも言われている。「五つのものは、断食斎戒する者のサウムを無効にしてしまいます。嘘、陰口、悪口、偽の誓い、欲に身をまかせて一目やることです。(訳注10)

ふたつ−ばかげた話や嘘、陰口や悪口、辛らつな言葉、口げんかから舌を守ること。そして沈黙を心がけ、至高のアッラーを思念(ズィクル)し、クルアーンの読誦に励むこと。これを舌のサウムと呼び、ビシュル・ブン・アル=ハーリス(訳注11)が伝えるには、(預言者さまの孫弟子にあたる)スフヤーン(訳注12)は「陰口はサウムをダメにしてしまう。」と言ったという。またライスが(同じく孫弟子にあたる)ムジャーヒドの言葉として伝えるには、「ふたつのものはサウムを無効にしてしまう。陰口と嘘だ。」とのことである。

 さらに預言者さまは次のように言われた。「サウムは盾のようなものです。ですから皆さんのうち誰かがサウムをしていたとしたら、淫らな行いや愚かしい振る舞いをしてはなりません。そして誰かが争いをけしかけようとしたり、罵り始めたりしても、「私は断食の身です。私は断食の身です。」と言って相手にしてはなりません。(訳注13)

 ある伝承によれば、「アッラーの御使いさま(祝福と平安あれ)の時代にあるふたりの女性が断食をしたという。日暮れ近くになって彼女ら二人は猛烈な飢えと乾きに襲われ、このままでは倒れてしまいそうだとアッラーの御使いさま(祝福と平安あれ)のところへ断食を解く許しを請いに行った。御使いさまは彼女らのもとに人を遣わそうと、うつわを持たせて伝言を伝えた。「彼女ら二人に伝えてください。あなたたちが食べたものをこのうつわに吐き出しなさい、と。」すると彼女らのうち一人がどす黒い血と新鮮な肉を吐き出し、もう一人もまた同じように血と肉を吐き出して、うつわが一杯になった。人々がその知らせに驚いたので、御使いさまは次のように説明されたという。「彼女ら二人はアッラーが許されたものから身を制して断食し、至高のアッラーが禁じられたもので断食を解いたのです。隣り合って座り、二人して人の悪口を言い始めたのでした。さしずめ彼女らが吐いたものは、彼女らが食べた(悪口を言った)人たちの肉と言えます。(訳注−つまり人の悪口を言うことは、その人の肉を食べるにも等しい卑しい行いだということ)(訳注14)

みっつ−耳にすべきでないものすべてから、耳を守ること。というのも、言うべきでないものはすべて耳にすべきでもないからである。それゆえに至高のアッラーは禁じられたものを貪る者と嘘偽りに耳を傾ける者とを等しく並べて言われている。

『かれら(不信心に競う者たち)は嘘偽りばかりを聞き、禁じられたものを貪る。』(第5アル=マーイダ章42節)

『なにゆえに聖職者や律法学者は、彼らが罪深いことを語り、禁じられたものを貪るのを禁じようとはしないのか。』(第5アル=マーイダ章63節)

 それから陰口を黙って聞き過ごすのも禁じられたこと(ハラーム)である。

 至高のアッラーは仰せられている。『(誹謗中傷する者たちと同席した)ならば汝らも彼らと同類である。』(第4アン=ニサーゥ章140節)

 またそれゆえに預言者さま(祝福と平安あれ)は次のように言われたのである。「陰口をたたく者とそれに聞き入る者は、罪を分け合うのです。(訳注15)

次号に続く

≪訳注≫

訳注1−スライム族出身の男に由来する伝承として、ティルミズィー(3519)が出典。また、教友アブー・フライラに由来する伝承としてイブヌ・マージャ(1745)が出典。

訳注2−アブー・ヌアイムが出典。また、教友イブヌ・マスウードに由来する伝承としてハティーブが出典。

訳注3−教友アブー・フライラに由来する伝承として、ブハーリー(1904)とムスリム(1151)が出典。

訳注4−ブハーリー(1894)とムスリム(1151)出典。

訳注5−サハル・ブン・サアドに由来する伝承として、ブハーリー(1896)とムスリム(1152)が出典。

訳注6−アブー・フライラに由来する伝承として、ブハーリー(7492)とムスリム(1151)が出典。

訳注7−アブ=ッ=ダルダーィに由来する伝承として、イブン・アル=ムバーラクが出典。 しかしながら伝承経路の信憑性は弱性と判断される。

訳注8−ティルミズィー(682)やイブヌ・マージャ(1642)が出典。 「呼びかける者の声が…」から最後までを除いては、ブハーリーとムスリムも出典。

訳注9−教友フザイファに由来する伝承としてハーキムが出典。

訳注10−アザディー出典の弱性伝承。

訳注11−ビシュル・ブン・アル=ハーリス(ヒジュラ暦150〜227年)…通称ビシュル・アル=ハーフィー。敬虔さで知られる正しき人たち(サーリフーン)のひとり。バグダードに住み、バグダードで亡くなった。(アッ=ズィリクリー著「アル=アァラーム(碩学たち)」第2巻P.54参照)

訳注12−スフヤーン・アッ=サウリー(ヒジュラ暦97〜161年)…ハディースの伝承者としては最高位の「信徒の長(アミール=ル=ムゥミニーン)」と呼ばれる大学者。クーファで生まれ育ち、マッカとマディーナに移り住んで、晩年はバスラで過ごす。彼が編纂したハディース集に「アル=ジャーミウ=ル=カビール(大全集)」と「アル=ジャーミウ=ッ=サギール(小全集)」がある。「一度覚えたものを忘れたことはない。」と自ら口にするほど、驚異的な記憶力の持ち主であった。(アッ=ズィリクリー著「アル=アァラーム(碩学たち)」第3巻P.104参照)

訳注13−教友アブー・フライラに由来する伝承として、ブハーリー(1894)とムスリム (1151) が出典。

訳注14−預言者さまの召使いであったウバイドに由来する伝承として、アフマド(5/431)が出典。

訳注15−タバラーニーが弱性の伝承経路でイブヌ・ウマル由来の伝承として伝えるには、「アッラーの御使いさまは陰口を禁じられ、陰口に聞き入ることも禁じられた。」とある。

断食斎戒の秘密−『宗教諸学の復活』より−(後編)
「やすらぎ」2004年10月号掲載文/アブー・サキーナ前野@ダマスカス

 前号では、「特別な人、つまり正しき人たち(サーリフーン)のサウム」を達成させるのに欠かせない六つの事柄のうち、三つまでを紹介するにとどまった。簡単なおさらいをして、続きを見てゆこう。

ひとつ−見るべきではないものすべてから、目を閉ざし、見たいという欲求を抑えること。

ふたつ−ばかげた話や嘘、陰口や悪口から舌を守ること。

みっつ−耳にすべきでないものすべてから、耳を守ること。

よっつ−身体の残りの器官を罪から守ること。手足を避けるべき行いから、そしてお腹を断食明けの食事(イフタール)時に口にしてもよいものかどうか紛らわしいものから守ることである。ハラールな(許されている)食べ物を断つのがサウムなのだから、ハラーム(禁じられている)なものでそのサウムを解いていては、何の意味もなくなってしまうはずだ。たとえて言えば、この種の断食者は、城を築き、都市全体を壊す者に似ている。ハラールな食べ物も、質はよくても量を取り過ぎれば害となってしまうが、サウムはその食事を減らすためにあるのだ。副作用を恐れて薬の取り過ぎを避け、少量の毒を飲む者は愚か者である。まさにハラームは宗教を台無しにしてしまう毒であり、ハラールは少量であれば役に立つ薬となるが、取り過ぎは害をもたらすものである。サウムの目的は、そのハラールを摂取する量を減らすことにあるのだ。

 預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)は言われている。「飢えと乾きしか得られないサーイム(断食者)の何と多きことでしょう。(訳注16)

 つまりそれはハラームで断食を解く者のことだとも、ハラールを断っておきながら、陰口を言うことで人々の肉によって断食を解く者のことだとも、あるいは身体の諸器官を罪から守らなかった者だとも言われる。

いつつ−断食明けの食事(イフタール)時に、お腹がいっぱいになるまでハラールの飲食物を取り過ぎないこと。ハラールでいっぱいに満たされたお腹以上に至高のアッラーにとって腹立たしい器はない(訳注−お腹も「器(ウィアーゥ)」の一種だから)。断食をしていた者が日中食べ逃したものをイフタール時に取り返していたら、アッラーの敵を打ち負かし、欲望を克服するといった目的を、いったいどうやってサウムを通して達成できようか。さらにはもっと贅沢をするかもしれない。事実、他の月には食べないようなあらゆる食べ物をラマダーンのために蓄えるという習慣すらできたくらいである。ご存知の通り、サウムの目的はお腹を空っぽにして欲望を克服し、さらなるタクワー(アッラーを畏れる気持ち)を養えるよう自我を強くすることである。ところがその自我がもし日中欲を刺激され、願望を強めた上で美味しいものをご馳走され、満腹になったとしたら、その欲望はますます強くなるばかりとなる。そうなってしまえば、最初から断食などせずにいたほうがまだましというものだ。そもそもサウムの精神とその秘密は、悪へ悪へと引き戻そうとするシャイターン(悪魔)の手段となる要素を弱めることにあり、そのためには欲を少なくするしかない。つまりたとえサウムをしていなくても、夕食の量を今まで食べていたよりも少なめにすることが肝心である。それを日中食べなかった分まで夜にまとめて食べていては、サウムの効果は得られないであろう。

 それどころか、礼儀としては日中寝過ぎないことも大切である。飢えと乾きをしっかりと実感し、物欲が弱められるのを感じることで、心が清められるからだ。そして毎晩ひと時は物欲を抑えるよう習慣づけることで、深夜の礼拝(タハッジュド)やアッラーを思念すること(ズィクル)も楽になるであろう。そうすればきっとシャイターンが心をつきまとうこともなく、天を仰げばそこに真理の開示を垣間見るといった恩寵にあずかることもあるかもしれない。それゆえ自分の心と胸の間を食べ物袋とする者は、心眼が覆われてそうした神秘の一端を目にすることができない。またお腹を空っぽにする者も、覆いをはらい上げるにはそれだけでは十分とは言えず、至高のアッラー以外のものに対する興味関心をも空っぽにしなければダメである。肝心なのはそれに尽きると言ってもよく、すべての基本は食事を少なめにするということだ。

むっつ−断食明けの食事(イフタール)を済ませたあと、自らの心を恐れと希望で困惑させ続けること。自分のサウムが受け入れられるか、拒絶されるか分からないからである。またサウムに限らず、イバーダ(崇拝行為)のあとはいつもそうあろうとするのがよい。

 アル=ハサン・アル=バスリー(訳注17)に伝わるところでは、あるとき彼は大笑いする人たちのもとを通りかかったという。

「至高のアッラーは、ラマダーン月を人間がアッラーへの忠誠において競い合う競技場とされた。ある者たちは勝ち組となり、また他のある者たちは負け組となった。驚くべきは先んじた者たちが勝ち、遅れをとった者たちが負けた日にふざけて笑う者である。もしアッラーが幕を開けたなら、善人は善行に勤しみ、悪人は悪行にふけるのを目にしたであろう。つまり(善人にとっては)行いが受け入れられた喜びでふざけている暇などなく、拒絶された者の喪失感は笑う気をどこかへやってしまうのである。」

 アル=アハナフ・ブン・カイス(訳注18)によれば、彼は誰かにこう言われたという。

「あなたはもう高齢のご老人。スィヤーム(断食)は大変でしょう。」

「私はスィヤームを長旅のようなものとみなします。それに至高のアッラーに仕えるなかでの辛抱(サブル)は、かれの懲罰のなかでの辛抱よりも楽なものです。」

 そう、これがサウムの内面的意味である。

  ひょっとすると、あなたはこう尋ねるかもしれない。

「食欲と性欲を抑えるにとどまり、もろもろの意義には関心を払わなかった者も、法学者が言うには『その人の断食は正しい』ということですが、いったいそれはどういう意味でしょうか?」と。

 知っておいていただきたいのは、表面的なことに重きをおく法学者たち(フカハーゥ=ッ=ザーヒル)は表面的な条件を決定させるにあたり、先にあげた内面的な条件を決定づける根拠よりも弱い根拠で決定づけてきたということである。特に陰口とその類に関しては顕著な例であるが、そもそも表面的なことに重きをおく法学者が導き出すもろもろの義務や条件は、あくまでもこの世での生活に忙しい一般大衆が耐えられるものに過ぎない。

 一方、来世に重きをおく学者たち(ウラマーゥ=ル=アーヒラ)が強調するのは、受諾の条件であり、受諾によって真の目的に達することである。それゆえ彼ら来世に重きをおく学者たちは、サウムの目的が至高のアッラーの道徳倫理(アフラーク)を身につけることにあるということをよく理解している。すなわちそれは本来の目的を常に見据えて行動することであり、できるだけ天使たちに見習って欲望を抑えることである。かれら天使たちは欲望とは無縁の存在だが、人間は理性の光によって欲望を克服できるがゆえに動物よりは上の位にあり、欲望に打ち勝つには努力を要する分だけ天使たちよりは下の位にある存在である。それゆえ人間は欲望に溺れれば溺れるほど最低最悪の存在にまで堕ちて行き、獣と同類になってしまうが、逆にまた欲望を抑制すればするほど最高最善の存在としての高みに昇り、天使と同類になれる。天使たちは至高のアッラーと非常に近い存在であり、かれらを見習って、かれらのように振舞う者は、かれらのように至高のアッラーとお近付きになれるであろう。近しい者に似た者もまた、近しいものだからである。もちろん、ここでいうアッラーとの「近さ」とは、場所ではなく、性質においての近さであるのは言うまでもない。

≪訳注−内容的に繰り返しが続くため、一段落割愛させていただく。≫

 

 食事や夫婦間の契りから身を制しながら、罪の入り混じったかたちで断食を解く者は、ウドゥー(礼拝前のお清め)で各部位を3回ずつ濡れた手でなでるだけの者に似ている。サウムの意味と秘密を理解した者はそう知るであろう。つまり表面的には(数から言っても)条件を満たしてはいるが、より大切な「洗う」という行為を省いてしまった場合である。アッラーがお望みになれば、この者の礼拝も最低基本条件は満たしているがゆえに受け入れてはもらえるだろうが、より大きな徳(ファドル)を逃してしまったのは確かであろう。一方、ウドゥーの各部位を3回ずつ洗う者は、基本と徳(推奨行為)をともに満たしたと言え、またそれこそが完璧な状態なのだ。

 預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)は、かつてこう言われたという。「サウムは信託(アマーナ)です。ですから皆さんはそれぞれ自分の信託を守るようにしなさい。(訳注19)そして『まことにアッラーは汝らが信託として預けられたものを、元の所有者に返すことを命じられる。』(第4アン=ニサーゥ章58節)というアッラーの御言葉を読み上げてから、手を耳に置き、目に置いて言われた。「聴覚は信託であり、視覚も信託です。(訳注20)つまりもしそれらがサウムに託された信託でなかったならば、「私は断食の身です、と言いなさい。(つまり、私は舌を守るために制しているのに、あなたの愚かしい誘いに応えるために舌を解き放ちなどしようか、という意味)」とは預言者さまも言われなかったはずである。

 以上、すべてのイバーダには表面的なものと内面的なものがあり、皮と実があるということがお分かりいただけたであろう。さらにその実には段階があり、それぞれの段階にはさらなる階層がある。

 皮で実を覆い隠すのか、あるいは実を取る真理の探究者に加わるのか。

 果たしてあなたはどちらを選択するだろうか。≫(「宗教諸学の復活」1/314〜317より)

 ガザーリー師の「サウムの秘密」、いかがだっただろうか。冒頭でムスリムを三種類に分け、「普通の人、特別な人、特別な人の中でもさらに特別な人…」と論じ始めたときには、正直言って「私は凡人に過ぎないから、あまり関係ないのでは…」と思ってしまった。サウム本来の目的を達成するための具体的なアドバイスが述べられている六つの項目に関しても、「特別な人、つまり正しき人たちのサウム」とあったので、個人的には関係のない理想論が展開されるのかと思った。ところが実はそうでもなさそうである。もちろん私たちの多くは凡人の域を超えず、「正しき人」になどいつなれるのか分からない状態にあるのが現実だが、「正しき人」になりきっていないからといって私たちの成長に役立つアドバイスをみすみすやり過ごしてしまうのは、あまりにももったいない話だ。

 要はアッラーのお力添えを祈りつつ、志しを少し高く持てば、私たちの誰もが「正しき人」を目指しながらムスリムとしての日常生活に生かせるアドバイスではないだろうか。

 そうやって改めて読み直してみると、身につまされる思いのする点がいくつもある。中でも、「食事は少なめに」という忠告は耳が痛いくらいだ。でも今年は、イスラームに導かれて11回目のラマダーンである。分かってはいるけどやめられない…そろそろそんな自分にも真剣に「喝!」を入れなければ…そんな気持ちにさせてくれたガザーリー師のアドバイス、皆さんはそれぞれどんな風に受け止められただろうか。

 慈悲深き我らの主アッラーが、皆さん方にとって今年のラマダーンを今まで以上に有意義で、幸多く、祝福に満ちたものとしてくださいますように。アーミーン。

≪訳注≫

訳注16−教友アブー・フライラに由来する伝承として、イブヌ・マージャ(1690)が出典。

訳注17−アル=ハサン・アル=バスリー(ヒジュラ暦21年=西暦642年〜ヒジュラ暦110年=西暦728年)…マディーナで生まれ、バスラにて亡くなった「サイイド=ッ=タービイーン(教友に従った者たち−タービウーン−の長」と呼ばれる大学者。(アッ=ズィリクリー著「アル=アァラーム(碩学たち)」第2巻P.226参照)

訳注18−アル=アハナフ・ブン・カイス(ヒジュラ前3〜ヒジュラ暦72年)…タミームの族長。寛大さで知られる著名な勇者。バスラに生まれ、預言者さまと同時代に生きたが、預言者さまを目にすることはなかったため、イスラーム史上3代目タービウーンのひとりとみなされる。第2代カリフ・ウマルが彼を評価し、バスラの総督をしていた教友アブー・ムーサー・アル=アシュアリーにアル=アフナフを相談役として重用するように忠告したという。(アッ=ズィリクリー著「アル=アァラーム(碩学たち)」第1巻P.276参照)

訳注19−教友イブヌ・マスウードに由来する伝承として、ハラーイティーが良好な伝承経路により 「マカーリム=ル=アフラーク」の中で出典。

訳注20−教友アブー・フライラに由来する伝承として、アブー・ダーウードが出典。

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  ジャザークムッラーフ ハイラー。