2004年8月8日〜9日
ダルウィーシュ見習い

さて、それでは拙いものですが、ワタシのパレスチナ滞在について雑感のような形ではありますがご報告いたします。
 まず、今回の滞在に関しては自分自身努めて「ウォッチャー」であろうしたものであったため、あまり「過激」な行動はしておりません(と、思います(^^; ….)。会社に属している身でもあるので(いい加減フリーになろうとは思っていますが・・・やはりフリーでないともうひとつ思いきったことはできない)、なにかひっかかったり、問題を起こしたりすると、自分ひとりの問題でいろいろと済まなくなるし・・・イラクの人質問題を見ていてうんざりもしていたので、もしもなにかあっても本人が勝手に行って、好きでやっていることだと言ってくれと、家人や友人など何人かに言っときました(笑)。

目的は、なによりも現状を「自分の目」で確かめること、現地のパレスチナの人々とのコミニュケーションを持つこと、できればイスラエルサイドの人々の話も聞くこと、でした。そして、それを今後にどうつなげるか・・・

 

(人名等に関しては、ご迷惑のかかる場合もあるので基本的に省略します)

まず、今回ワタシの訪れた街々ですが情勢的には平穏でした。エルサレムからカルキリヤ、ラマラ、ベツレヘム、ヘブロンといった街々を訪れ、時に宿泊もしたのですが、物品は流通しており、繁華街は賑わっており、各地にあるチェックポイントも外国人であるワタシは楽に通過しましたが、パレスチナの人々もそれほど足止めはされていませんでした。 

昨年に日本でも公開された映画「D・I」にも出てくる、今までも再三指摘されているチェックポイントで故意に遅滞させるような光景は、チェックポイントを各地で何度も通過した際にも目撃することはありませんでした。全般にチェックポイントでの緊迫感は稀少で、ベツレヘムのチェックポイントを担当していたイスラエル兵などは、年齢、雰囲気ともにホントにコドモという感じで、ワタシのチェックの際には東洋人とみるといつものことでしょうが「ジャッキー・チェン」とか「テコンドー」「クンフー」などの話をしたがってはしゃいでいました。ケーキのようなお菓子を皆で食べている様子など、もう、ただのガキ連中という雰囲気でした(みんなで口を汚していたりして。もっとも国民皆兵制であるイスラエルでは兵士といってもいろいろです。職業兵士らしき風体で「絶対人殺しているなあ」という剣呑な顔の連中も見ましたし、おっさんのいやらしい感じの兵士もいます。

ワタシたち一行をヘブロンの街で呼び止めてパスポートチェックをしたのは、モスクワから来たロシア系。兵役を終えた後は?とワタシたちの一人が聞いたら「NO  IDEA(考えていない)」とのことで、なぜかうかない顔になってしまいました。去り際に「ダスビダーニャ(ロシア語でさよなら)」と言ってやっても、なんだかショボンとしていて気の毒にさえ感じました。イスラエル自体、あらゆる民族、人種のモザイク国家ですから、本当に同じイスラエル人でも種々雑多。テルアビブへの便は、ロシア系イスラエル人がほとんどでしたし、テルアビブの空港の外で夜明かしした時にも、行き交う人々を見ていると「民族の博覧会」的な様相がありました。テルアビブ周辺にいる人はほぼすべてイスラエル人ですが、完全なヨーロッパ系もいれば、アフリカの民族衣装の人も、そしてユダヤの清掃の人も東洋系も・・・国民としてのアイデンティティの自覚、維持はムズカシイでしょう。だから余計に右翼思想に走るのかも)。
 しかし、ワタシの巡った比較的平穏なパレスチナは「何もない」状態のときのことであり、「テロ」その他イスラエルに対する攻撃行為を行ったパレスチナ人がその街にいたり、また、他の地域でそういった行為があったさいに、その当該パレスチナ人の家がある街であったりすると、たちまち外出禁止令、または封鎖となりますし、比較的平穏な状態であっても、急にいやがらせとしてチェックポイントの通過を拒否されるケースもまだまだあると聞きました。ヘブロンでお世話になった青年も、つい一ヶ月前にラマラにシゴトへ行った後、ヘブロンに帰ろうとした際に「オマエはここを通れない、今晩はラマラに泊まれ」と一方的に言われたそうです。結局一時間半ほど押し問答の挙句、通過できたそうですが、そんなことは多々あるそうです。「それはいやがらせのマニュアルみたいなもんでやっているんだよ」と言ったら、「いやがらせ?ぼくはちっともなにも感じないから好きにやってくれというところ。なんとも思ってないよ」と返してきたのは彼のプライドでしょうね。実際、パレスチナ人の車に「NO FEAR(コワイもんなんかねーよ)」と書かれてあるのもよく目にしました。

また、人によって行動の自由も度合いがマチマチですが、かなり制限を受けています。ほとんどの人が西岸地区内すべてを通行する自由がないでしょう。ヘブロンの一家の主人もエルサレムにさえ行けません。このご主人は公的機関のシゴトをしていらっしゃって、いわゆる「活動」とは無関係のまったくの一般人なのに(前述の青年もまったくの一般人です)。なお、占領地区の境界線を記した西岸やガザの地図は持っていただけでヤバイようです。持ち出しも危険です。イスラエルの学校では境界線を教えていません。学校の先生さえ、まず性格な境界線を知りません。すべて「イスラエルの領土」と既成事実化しようとしています。

なお、もちろん現在まったく訪れるのが困難な地域があり、封鎖状態のガザ地区は日本人の場合は認可された国際援護団体のメンバー、もしくはプレスカード、それもスペシャルなものがないとまったく入れない、という状態でした。たまたまエルサレム到着の翌日、エルサレムでカメラマンの土井さんにお会いできましたが、土井さんはその日から一ヶ月ガザ入りをされるとのことでした。少し話もさせていただきまして、ご自愛くださいと声をかけさせていただきましたが、さすがの土井さんも少し気が重いとおっしゃっていたと、他の話をした方からうかがいました。またナブルスも封鎖続行中でまず入るのは困難でした(それでも入ろうと試みる西洋人の若い女性などはいました)。

 今回宿泊し、最も長い時間を過ごしたのはヘブロンでした。ヘブロンはパレスチナ人の旧市街の一角にイスラエル人の狂信的なユダヤ信者が無理矢理住んでいるため、その警護(少し前のデータですが300人の入居者に千人の警護兵が常駐しているそうです)の兵の存在から、住人とのトラブルの多い街です。旧市街では、度重なるいやがらせで出て行かざるを得なくなったパレスチナ人も多く、外出禁止令は出されていなかったものの、いささか閑散としていました。また、兵馬俑坑ブロンではパレスチナの人々の街に隣接して、キリヤット・アルバという悪名高い入植地があります。ここには、テラスに出てパレスチナ人を無差別に狙撃する狂信的右翼のイスラエル人もいます。ヘブロンの青年の案内で、日没の頃に近くまでは行ってみました。もちろんパレスチナ人の居住区内ですが、遠くに見える監視塔にイエローランプが着いたら、即刻立ち去らないと撃たれるとのことでした。周辺はあちこちに土盛りがされていましたが、パレスチナ人が生活のために道をつくると、イスラエル軍が一日足らずで滅茶苦茶にしてしまうそうです。チェックポイントが近い辺りまでいきましたが、青年がイスラエル兵に誰何され、この辺りの住人でないと分かると、早速拘束されてしまうとのことで、そこからUターンしました。

イスラエル人がヘブロンの旧市街に押しかけて住み着くというのもイブラヒームモスク、というよりマカベラの洞窟があるためです。ここはアブラハム、その妻サラ、イサクなどの息子と妻たちの墓所でした。そのためユダヤ、イスラーム双方の聖地のひとつなのです。現在は、洞窟はホンの一部が穴から覗き見できるだけで、アブラハムらの棺もイブラヒームモスク内にあります。ずっとイスラエル軍が管理しており、中に入りたいと言ってもなかなか入れてくれませんでしたが、なんとかOKとなり、セキュリティチェック後に内部に入りました。サラーフ・アッディーンがずいぶんと改築、美化に尽くしたモスクのようです(着いた翌日に、神殿の丘へも行きましたが、午前11時にはもうイスラエル兵がその場から出るように言ってきました。ここへは嘆きの壁の方から入ったのですが、セキュリティチェックでズボンのベルトまで外されました。そのくせ、旧市街のパレスチナ人のスークを通ってまっすぐ行くとノーチェックなんです。よく分からない。)。そのガイドをしてくれたのはパレスチナ人の公認ガイドで、分かりやすい英語ながらエライ早口で、回るのもせかすので、なんだろと思って、ガイドが終わったときに聞いたら「20分で終えろ」とイスラエル兵に言われていたそうです。笑ってしまいました。 

外へ出て、モスクの横の道を降って左へ行くと広場と公園のようになっています。左の方はイスラエル人の居住区。シナゴーグがあり、入れないかと警護の兵士に聞いてみたらあっさり「NO」と断られました。この辺りにいるときに少し遠くに断続的に銃声を聞きました。しかし、兵士たちの様子も変わらなかったので、おそらく大したことではないのでしょう(多分、威嚇射撃)。後で聞いたら先の青年も「銃声?たまに聞くよ」と平然と答えました。しかし、銃声になにも感じなくなるというのは・・・(ヘブロンの中心街では、高いビルにパレスチナ、イスラエルの撃ちあいで銃撃の跡だらけになったビルがいくつもあります)。

実は、このヘブロンで今回の滞在中に最も緊迫した場面に遭遇しました。

 ヘブロンを訪れたのは、ユダヤ教のシャバート(安息日)である土曜日でした。先に記したヘブロンの旧市街を歩いていたときです。スークのようでもある旧市街は、閑散としつつものどかだなあと思って歩いていると、突然周囲の空気が変わりました。イスラエル兵がやってきます。何かと思っているとイスラエル人の集団の前後左右を警護して進んでいるのです。シナゴーグで礼拝を終えたイスラエル人が警護付きで旧市街近くの自宅へ帰るところにあたってしまったのです。パレスチナ人、イスラエル人相互の目つきはすさまじいものでした。一行が行ってしまった後でも若いパレスチナ人青年などは、しばらく目がおかしくなったような感じでした。硬直したままです。あっという間のことでしたが、この場面については優に短編小説が書けそうなくらいです。

 こんなになってしまうのも当たり前で、なにかの弾みでパレスチナ人の住居の上からものが落ちてもすぐイスラエル兵は発砲するそうです(街路の上には金網が張られていましたが、ずっと高台に住んでいるイスラエル人はよくいやがらせでゴミを下に投げてくるそうです)。

 そもそもこの街で対立が激化し頂点となったのは、ゴールドシュタインというイスラエルの過激派の医師が、イブラヒームモスクで礼拝中のパレスチナ人を乱射で何十人も殺してからです(1994年のことです)。このときはイスラエル軍によるものも加え死者六十人となっています。もちろん、この事件についてイスラエル人の多くも激しく非難しましたが、はっきりと支持する人々も僅少ではなかったようです。

 このことだけをことさらに取り上げる気はありませんが、今回、ヘブロンの街に滞在していろいろなことを目にし、耳にして思ったのは、やはりイスラエルの挑発行為が前提にある、ということです。わざわざトラブルの種をまいている、ということです。旧市街に無理に住み着く、入植地をすぐ近くにわざわざ設定する。

今回の滞在では、本当に多くのパレスチナ人に会いましたが、彼らについて思ったのは基本的に大人しくマジメな人たちが多い、ということでした(日本人に比べ、アラブの人々は声も大きいことが多く、感情表現も身振りが大きい。また紛争地での映像が日本で放映されることが多いので、そう思われにくいようです)。一方、残念ながら多くのイスラエル人には接することはできませんでしたが、もちろんイスラエルの人々もほとんどの人々が「まとも」な人々でしょう。移動の際に関わった人たちなども誠実に接してくれました。しかし、一部にどうしようもない人々がいる。それが今のところは実感です。もっともユダヤの正装である黒づくめの服装ながら「壁反対」のプラカードを持って立つ人もいるそうで、そんな人に会ったらワタシは抱きしめてしまいそうです(向こうはおっさんに抱きしめられてもメーワクだろうけど(笑))。
 イスラエル政府がずっと続けていることは、要約すれば「地上げ屋」です。それも国家ぐるみの地上げ屋であり、とても悪質なものです。このことはどうイスラエル側が弁明しようとしても無理です。テロ対策であれば、なぜパレスチナ農民のオリーブの収穫まで妨害する必要があるのか、なにかというとすぐ家屋破壊をするのはなぜか。

  ベツレヘムで壊されたままの家屋を見ました。イスラエルの許可がなく再建もできないそうです。ヘブロンでは壊されたガラス工場を見ました。元々、ヘブロンはガラス工芸品で有名な街です。その高台にあった大きな工場をイスラエル軍はミサイル攻撃で粉微塵に破壊してしまっています。なんのため?

この工場跡で、カメラで写真を撮るため瓦礫の中へ入ろうとすると、地元の人が慌てて止めにきました。いったいどうしたのかと思いきや「不発弾がまだ瓦礫の中にある」とのことでした。あわわ。「前に日本のプレスが空港でおみやげに不発弾を持って爆発させたけど、オレも何個か土産にもらおうかな」なんて、悪質な?ジョークを言ったら、ヘブロンの一家は大笑いしていました(これからパレスチナに行く方に。現地がいかに酷い状況であっても、いきなり「たいへんでしょう」とか「イスラエルは酷い」とか、暗い話ばかりふっかけるのはよくないと思います。相手を見て話した方がいいでしょう。自分から話す人はともかく、いきなりずけずけと危機的状況について質問したりはしないのがいいと思います。彼らにとっては日常なのです。そして、忘れていたい人も多いと思います。自然な会話の中でいろいろと話すのがベターと思います。実際、パレスチナ人にはジョーク好きの人も多い。ことさらに話を深刻に暗くするのは避けた方がよいと思います)。

 しかし、本当になぜガラス工場をここまでして壊すのでしょうか?別の場所に移転して、熱心に働いているガラス職人さんにも会いましたが・・・パレスチナ人の生活の基盤を崩そう、暮らせなくしようという意図がここにも現われています。

 ラマラでは、ブルドーザーとイスラエル軍の攻撃で半分瓦礫となっている自治政府の官邸も見ました。いわゆるアラファトのオフィスです。最初、壁越しに写真を撮っていると「撮るな」と手を振る兵士がいて「まずい」と思いましたが、案内してくれた大学生の青年(英語はあまりできませんでしたが、彼もとてもいい青年でした)が「中に入ろう」というので、敷地内まで入りました。兵士はパレスチナ自治政府のポリスたちでした。みんな「オレたちの姿が入らないようにすりゃいいから、どしどし写真を撮れ」と言います。こちらも壊されたままですが、これは正直言ってアラファトが同情を引くため、修復しないようです。パレスチナポリスは若い連中ばかりで、人によっていろいろでしたが、アラファトの評判はよくありませんでした(他にも「老齢」を理由にアラファトはもうダメという人々がいました。正直なところ、求心力は明らかに低下しています。しかし、替わる決定的な人材がいないのも事実のようです)。

・・・他にやはりヘブロンで壊された家々の修復に携わっている人にも会いました。パレスチナ人の家で特徴的な屋根の上の貯水槽(いつ断水にされるか分からないため必須の生活用具です)がいくつも置いてありました。明らかな銃弾の跡が確認できました。

・・・さて、いよいよ壁のことです。これはおそるべき代物です。今回、最初に見たのはエルサレムのオリーブ山の上から。遠くですがベツレヘム方面に築かれた壁がはっきりと見えました。延々とくねくね曲がりながら続いていました。

 この壁についてはイスラエル国籍の人間からも「みんなが迷惑するだけ」という感想を聞きました。知っている方も多いと思いますが、パレスチナ人の居住区を無数に散らばるイスラエル人の入植地から隔絶し、囲んでしまうものです。もちろん、本来のパレスチナ人の土地をイスラエル側に取り込んでしまいます。肥沃なヨルダン渓谷周辺の土地も分離され、本来の半分以下の面積内に閉じ込められてしまうことになります。初期は鉄条網でしたが(電流が流されたもの)、三メートルの壁が築かれ、その後さらに強化され、その高さは現在八メートルにまでなっています。

 この壁により、自分の農地と切り離されたり、家屋を破壊されたりしたパレスチナ人も多数います。壁のために風が通らなくなる、視界が悪くなる、などというのは障害のうちには入りません。八メートルの壁というのは、実際に目にするとかなり高いものです。その圧迫感だけでもすさまじい。囚人でもここまでの壁には囲まれることは少ないでしょう。しかも、壁には一定区間で監視塔があり、街によっては近づくと威嚇射撃されます。今回、メンバーのひとりが監視塔の真下まで行こう、というので壁伝いに歩き、監視塔の真下を通りましたが(監視兵がいませんでした)、場所によってはとても危険です。真似をしないようにしてください。

 今回、壁を見たのはカルキリヤ(地中海沿岸の街です。かなり気温の高いところで塀の近くは風がないため焦熱地獄になっていました)とベツレヘム(街の入り口辺りで盛大に工事中でした)でした。また、西岸へのエルサレムからのターミナルのようになっているカランディアの辺りには、設置前の壁がずっと道沿い、どこまでもどこまでも横倒しに置かれていました。既に国際法廷でも違法とされているのに、シャロンはアメリカの援助もあるためまったく止める気はないようです。しかし、こんなことをしてなにになるのでしょうか。何の解決になるのでしょうか。ひたすらのいやがらせでひとりでも多くのパレスチナ人を追い出す、そのことしかアタマにはないようです。しかし、壁は問題の解決には絶対になりえませんし、イスラエルにとってもいいことはないと思います。国際非難が高まるだけで、なんの得にもならないでしょう。無意味です。

 また、西岸を行くと本当に無数のイスラエル人入植地が次から次へと現れてきました。建売住宅のような安っぽい感じなのですぐ分かります。周囲の風景(礫岩が多く、緑はオリーブの林ぐらいという眺めが多い)にマッチしたパレスチナ人の街に比べ醜く感じる。この入植地はシャロンが国土関係の大臣になったときに一挙に増えています(もっともベギン、そしてラビンさえも建設を進めていますが)。

 最後にパレスチナの人々について。本当に人なつっこく、あたたかく、もてなし好きの人たちが多かったですね。もちろん、すべての他の国と同様にすべてが善人ではありません。ぼったくり、押し売りガイドもエルサレムなどにはいますので要注意です。特にエルサレムは治安が悪化していますので緊張感を持たないとダメです。深夜、人気がないところでは強盗もありえます。しかし、それもここ何年かの逼迫させられた状況を考えると・・・

また、観光客がずっとほぼ途絶えていますから、観光関係で潤ってきた人々には、その収入減もたいへんでしょう(これはイスラエルも同じことです。まあ、イスラエル政府の自業自得という気がしますけど)。ベツレヘムのチェックポイントを過ぎての物売りの子どもたちは、かなり執拗で怒鳴らなければなりませんでした(財布を出すと、手を入れようとしました。またタバコをポケットから出すとひったくりました。そのまま逃げるということはなく、返しましたが)。また、生誕教会前のパレスチナ人の公認ガイドらしき初老の男性は、入るときにいいと言って断ると、中を見て戻ったときもワタシに雇わなかったことについてぶつぶつ文句を言っていました。生誕教会内部では、係員らしき男性に立てこもりの跡を見せてくれと言ったら快諾してくれて、壁の銃弾の跡、またイスラエル軍が強行突破しようとした横の門の辺り(銃弾の跡がまだ無数に残り、ここで二人死んだと教えられました)も案内してくれて、さらに当時の写真も見せてくれましたが、土産物屋を経営していて、「なんか買ってくれないか?」と頼まれました(苦)。今回は一切みやげ物は買う気がなかったので断ったところ、しつこくは言いませんでしたが、全然収入がない、と肩を落としていました。

でもパレスチナ人の多く、特に西岸の各地の街の人々はほとんど素朴ないい人たちで、お茶に招いてくれたり、道いくだけでもたくさんの人が挨拶してくれました。「中国人」といわれることも多かったので、東洋人が珍しい(まず見られませんから)だけのことも多かったのですが、中には明らかに今、西岸へ来る日本人がなんのために来るのか、を知っていて好意を持ってくれている人も少なくありませんでした。とにかく全体に、なにかいい人過ぎるようにも思いました。前述しましたが本当におとなしいマジメな人が多い。これではあの海千山千のイスラエル政府の連中に対しては・・・とも思ってしまったのも事実です。ヘブロンからの帰り道にも乗り合いワゴンに乗るとき日本人だと分かると、ウェルカムの連発で助手席へ乗せてくれましたし、彼らのもてなしはホントに喜んで欲しいという気持ちからだけのものでした。行き交った無数の笑顔、またベツレヘムのデヘイシャ難民キャンプで淋しそうな笑顔を見せていた少女のことなどを思い出すと胸が詰まります

(「難民キャンプ」は、年数が経ってしまったものは、テント生活はしていません。下町のような感じになっています。モノはけっこう売られていて、そんなに不自由な感じはしませんでした。しかし、人口過密は酷いようです)。一方、パレスチナ人の間での貧富の差も開いています。ラマラの街はずれには車庫が四台分あったり、家の外側に楕円の大きな階段があるなど大豪邸がありました。これはアメリカでの出稼ぎで稼いでいるパレスチナ人の家だそうです。アメリカ国籍の持ち主もいて、年に一ヶ月しかパレスチナにはいないそうな・・・

まあ、パレスチナ人もいろいろです。青年、というよりまだ少年が何人か集まってコンピューター関係の店を経営しているところでもしばらく話しましたが、なんか頼もしく感じました。なんにしろ他の国でもそうですが、みんな一生懸命に日々を生きています。彼らに本当に普通に暮らして欲しいです。そのために今は以前よりもう少しなにかしたいと思っています。昼食をご馳走になった一家とは、今後もコンタクトを続けます。必ずまた訪ねて元気な彼らに会いたいですね。

さて、現地のイスラーム事情も書き込まねばと思います。

エルサレムは大きな街ですから種々雑多。ムスリム、ムスリマでもいろいろな人がいます。キリスト教徒のパレスチナ人も多くいます。西岸の街々ではベツレヘムがやはりキリスト教徒が多いものの、他の街は圧倒的にイスラーム人口が多いです。ヘブロンなどはイスラームの保守的な街でアザーンもよ〜く聞こえました。案内してくれた一家も敬虔なムスリムで、青年とはイスラームのよい点についての話もしました。最も平等な宗教であることなど・・・ムスリム、ムスリマの方が行かれたら、ワタシ以上に歓迎されるでしょうね。モスクの数もヘブロンだけで三百以上(小さなも礼拝所も含む)。ヘブロンの人口が十万くらいですから、約三十人にモスクひとつとなります。

・・・さて、一応この辺りで・・・

書き込めないことも(ご迷惑がかかるといけないので)あります。また、あまり詳細に書き過ぎても・・・ということも考えられますので。

なお、若い方、特に学生の方で関心を持っている方には、ぜひ、どしどし行っていただきたい、と思います。そんなに訪ねるのは難しくありません。言葉もパレスチナ自治区でも片言の英語で大丈夫です。お金も大してかかりません。ユースホステルで一泊七百円程度のところ(無論ドミトリーですが)があります。食費も一日1000円程度で大丈夫。本を何十冊読むより、二週間でも滞在するのがなによりです。

 以上、はなはだ駄文ではありますが、ワタシの第一回目のパレスチナ滞在をレポートさせていただきました。ありがとうございました。