イスラームの聖者とは誰か
竹下政孝(Takeshita Masataka)著



イスラームに聖者の概念があるのを知って驚く人がいるかもしれない。キリスト教の 聖者と違って、聖者の資格に対して厳密な規定があるわけでもなければ公的な審査が あるわけでもない。教会として組織された権威があるわけではないからそれは当然で あろう。また聖者の問題は法学や神学でもほとんど中心的主題としては扱われなかっ た。神学では聖者の奇跡の問題が触れられ、また法学では聖者崇敬の外面的形態(墓 への巡礼など)の合法性が論じられることがあっても聖者の資格や認定の問題にはま ったく触れない。しかし、これらの学問によって聖者の存在が否定されることもなか った。なぜならば、聖者を指すアウリヤー(ワリーの複数形)という言葉は「コーラン 」(「まことに神の友(アウリヤー・アッラー)には本当に恐れもなく、憂いもないで あろう、彼らは、信じ、神を畏れていたものたち。彼らに対しては現世でも、来世に おいても吉報がある。」)(一〇章六二−六四節)にあらわれているので正当性を持っ ていたからである。もともとは「特別の保護のもとにある人、友人」を意味するこの 言葉がいつごろからテクニカル・タームとして使われはじめたのかは明白ではない。 さらに複雑なことには、ワリーは法学では保護者の意味で用いられ、また政治思想に おいては、権威の保持者、統治者として使われるようになった。また、シーア派でも 特にアリーがワリー・アッラー(神の友)と呼ばれるが、その後のイマームもすべてア ウリヤーである。しかし、シーア派の使うワリーの概念には常に政治的な「権威の保 持者」の意味を伴っていたように思われる。

それでは聖者とは具体的にはどのような人びとを指すのであろうか。まず、我々は聖 者には広義と狭義の二つの使い方があることを知らねばならない。ジャーミーは聖者 職を、すべての真摯な信仰心の持ち主に共通な一般的聖者と「神のなかに自我を滅却 し、神によって残存する」特殊的聖者職に二分類しているが、前者が広い意味であり 、後者が狭い意味である。(狭義の聖者と広義の聖者の区別として前者だけが奇跡を おこなうことができるという人もいる。)広い意味での聖者とは、「アウリヤー」(神 の友)という語がまだ完全に術語となっていない階段であり、その例は前述の「コー ラン」(一〇章六二節)にあらわれる「神の友」につけられた様々な注釈に典型的に見 られる。ハディースによると、「誰が『神の友』(聖者)ですか」と尋ねられて、預言 者は「常に神の想起にいそがしんでいる人である」と答えたという。イブン・ザイド は前述の「コーラン」の節にある「信じて、神を畏れる」ことこそ神の友の特徴であ ると主張した。ザマフシャリーやナサフィーによると神の友とは服従によって神へと 近づく人である。アブー・アブドッラー・サーリミーによると神の友とは「話し方の 美しさ、洗練された物腰、服従、気前のよさ、反抗心をみせないこと、他人の弁解を 快く受け入れること、善悪を問わずあらゆる被造物に対する限りない優しさによって 知られる。」つまり、広い意味での聖者、神の友とは有徳で信仰あつく、常に神を想 起する敬虔な人びとである。そしてこれが、現実にみられる様々な聖者の最大公約数 といってもよいであろう。そしてこの広義の聖者集団のなかには、狭義の聖者である スーフィーたちの他に、ムハンマドの家族(特にファーティマの子孫)、ムハンマドの 教友(特にバドルの戦いに参加した人びと、及び禁欲的な生活で知られ、モスクの屋 根のある一角(スッファ)で寝起きしていたので「スッファの人びと」と呼ばれた人び と)が含まれる。また、これら三つの範疇に含まれない、単に有徳で敬虔な人びとが 聖者とみなされて崇敬されていることも多い。

今日でもその墓が巡礼の対象となっている聖者についても、スーフィー聖者(特にス ーフィー教団と関わりのある聖者が崇敬の対象になることが多い)の他に広義の聖者 が数多く含まれている。たとえば、現在のカイロの有名な聖者廟についてみると、ア フマド・リファーイーなどのスーフィー聖者の廟もあるが、最も重要なものはフサイ ン、ザイナブ、ルカイヤ、ハフィーサなど預言者の家族の廟や法学者シャーフィイー の廟である。またイスタンブル最大の聖地は教友であるアイユーブ・アンサーリーの 廟である。また、コンスタンティノープルの征服者としてのスルタン・メフメットの 廟も崇敬の対象になっている。ヨルダンでも巡礼の対象となる聖者廟はすべて預言者 の教友である。

このように広い意味での聖者は曖昧だが、実際には聖者の中核をしめるのが、狭義の 聖者、つまりスーフィーのなかの選ばれた者たちであることは疑いようがない。スー フィーこそがアウリヤー・アッラー(神の友)という表現を神への旅を完成し、神に到 達した人びとの意味で術語化し、理論化し、また彼らの理想像、熱望を無数の聖者伝 として残したのである。以下にスーフィーが展開した聖者論を検討していきたい。

……


イスラームの思考回路」、竹下政孝編(板垣雄三監修)、(引用: 189-192ページ)
東京:栄光教育文化研究所、1995年、ISBN: 4-946424-89-X、定価4500円

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