イスラーム教徒の生活点描

蒲生礼一著




イスラーム教徒の生活のうちには私たちにとって珍しいと感じられるような問題がた くさんあります。


イスラーム教の聖典コラーンはイスラーム教徒たちの生活のあらゆる面の根本をなす 規則を盛ったものと考えられます、すなわちコラーンはイスラーム教徒等の政治、経 済、法律、社会、宗教その他生活のあるゆる面の拠りどころ生なる規定を含んでいる と信徒は言います。したがって、イスラーム教徒等は単に宗教面で結びついているば かりでなく、生活のあらゆる面において共通性をもっということになりうるわけです。


一体キリスト教は聖典を外国語に訳することを奨励する態度をとってきましたが、イ スラーム教ではそれを外国語に翻訳することを認めない立場をとってきました。ただ 実際間題としてはキリスト教徒その他の宗教の信者による翻訳を禁ずることはできま せんでしたから、現在ではさまざまな外国語に訳されているばかりでなく、いくつか のイスラーム教国の言語にも訳されています。


イスラーム教徒は自国語のいかんを問わず、挨拶や礼拝に際してアラビア語の旬を使 用します。礼拝を捧げよということはコラーンに命じられていても、どのような方法 で礼拝をしたらよいかという点についてかれらは伝承にしたがうのです。伝承とは預 言者マホメットの言行の記録を集めたもので、コラーンとともに教徒の行動の基準を なすものであるのであります。つまり基準となるものが共通でありますから、礼拝の し方も、用いられる文句も共通ということになるわけです。


種族が違い、イスラーム化以前の文化が異なり、自然環境が相違するような場合、精 神面は言うに右よばず、生活面にさまざまな相違が生ずることは言うまでもありませ ん。このような条件の、さまざまな民族や国土に伝えられたイスラームはその聖典コ ラーンや伝承などによって教徒生活の共通的基準を設定しているわけですから、地域 差がぜんぜんないとはいえないまでも、教徒等の考え方はもちろん一切の行動に共通 性が強く生れて来るわけです。


イスラーム教が他の宗教と大変ことなる点に、僧侶という特別の階層を設けていない という事実があります。ですから、イスラーム教には宣教師というものはないわけで す。特別の宣教師がないということは誰にでもその仕事ができるということです。今 日四億にあまると考えられる信者は熱心なイスラーム教徒全体の努力によってできた わけです。


イスラーム教は民主性に富む宗教ですから、職業による貴賎という考えはありません 。拠りどころを一にするから信仰面のきまりはもちろん、遺徳的戒律も一様であるこ とは言うまでもないことです。ただ信徒の生活には、私たちが想像することができな いほどの宗教性の強さが見受けられます。


キリスト教では宗派が二となる場合、説教の解釈、勤行の形式などにすら。お互いに 受け入れることのできないほどの対立を生ずる場合ができていますが、イスラームの 場合はそれほどひどい対立は通常おこりません。なるほどイスラーム教にもスンニー 派とシーア派との間には根本的に桐容れない主張があることはありますが、シーア派 の信者がスンニー派の礼拝蛍で礼拝を捧げることもあるという程度です。


アラビアに右こったイスラーム教は種族や文化的伝統、自然環境などを異にするさま ざまの民族の間にひろまりましたから、地域による差違や特殊性がぜんぜん生じなか ったとは言えますまい。それにしてもある地域のイスラーム教徒として、他の地域の 信者等と宗教的に共同動作が妨げられるようなことはないのです。つまり、そうした 地域性とか民族性とかは決してイスラームの本質を変化させるほどのものではないの です。


つぎに、イスラームの特徴の一つに教友愛という精神があります。元来イスラームは アラビアに右こった宗教ですから、アラビア的なところが窺われるのは言うまでもな いことです。前にも述べましたように、、礼拝その他、右折りなどにもコラーンの聖 旬をそのまま使いますから、異なった国語をもつ人たちでも一緒に、礼拝を捧げるこ とができるわけです。またメッカ巡礼はセム族の古い習慣であったのを預言者が制度 化したものであるのです。巡礼はある程度の経済的能力をもつほどの信者等にとって 義務とされています。したがって巡礼時にはイスラーム世界のあらゆる土地からの巡 礼者がメッカに集ってきます。巡礼者のうちにはネグロも、ベルベル族も、中国人も 、インド人も、マライ人も、イラン人も、トルコ人も、アラビア人もあり、金持ちも 貧しいものも、地位の高いものも低いものもあるわけです。こうした人たちが巡礼と いう一つの目的を達するために相より、相援け合って努力を続けるのですから、イス ラーム教徒間の教友愛を育て、教徒間に一種の劃一的精神を生ぜしめることになるわ けです。こうして、イスラームは人種、皮膚の色、国籍などの別をとり除くことに、 或る程度成功したということができましよう。


外国で、日本人に会った場合、私たちは日本人であるという自覚に基いて非常な親し みを覚えます。しかし、今日の日本人にはお互いが仏教徒であるとか、神道の信者で あるとかいうことによって喜びや親しみを感ずることがあるでしょうか。種族が違い 、国語が違い、国籍が違うような場合でも、イスラーム教徒は喜んで、一緒に礼拝を 捧げることができるのは言うまでもないことで、そこにイスラームの国際性や民主性 がうかがわ机るわけです。あるイスラーム教徒がアラビア語の挨拶で述べる「貴方の 上に平和があるように」ということばに答えて相手は「貴方にこそ平和があるように 」と述べます。こうして教友愛が育まれると同時に、その価値を発揮するのです。


イスラーム教徒は来客に対する歓待を特徴としていますが、これはイスラーム教徒と いうより、むしろ東洋人的特徴と言うべきかもしれません。




書名

著者

出版社

出版年

定価
イスラーム(回教)
ISBN: 4004121647
蒲生礼一 岩波新書 C164 1996 本体631


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