日本の将来とイスラム

アブデユルレシト・イブラヒム著
小松香織・小松久男訳




これは実に検討に値する問題である。今日、列強の宣教師たちはすこぶる熱心な活動を展開している。



百年後には日本人を丸ごとキリスト教徒にするつもりらしい。しかし、この願いは成就するのだろうか。なるほど、これは考えられないことではない。宣教師が日本にやってきてからすでに四十六年になるという。当時の日本人はまったくの無知蒙昧であった。およそ科学や教育、軍事力と名のつくものは皆無であった。このような一種の空白期間に行なった宣教活動であっても、巨額の資金をばらまいたあげくに、これまでに少なくとも百万の日本人をキリスト教に改宗させたとでもいうなら、まだ希望も持てようというものである。しかし、この先、日本人がキリスト教に改宗することはまずあるまい。エチオピア人とはわけが違うのである。



私は多くの理由から、日本人はイスラムに改宗するにちがいないと確信した。



まず第一に、日本人の慣習や道徳ならびに生活様式は見事にイスラムの慣行や道徳にかなっており、両者の間に基本的な相違は見られないからである。日本人とシベリアのムスリムとが並ぶと、これを見分けることはまず不可能である。とりわけ日本の夫婦関係はイスラムの教えと完全に合致している。妻は夫の許したこと以外、いかなる行動もとることはない。わけあって実家をたずねるときにも、夫の許しを求めるほどである。妻はまさに家庭の主婦であり、夫には絶対に服従しなければならないのである。



第二に、日本人の民族精神は彼らのかけがえのない財産である。総じて日本人はこれを誇りとし、その護持のためにはいかなる犠牲も惜しまない。たしかに、キリスト教は彼らの精神を毀損しはじめたかもしれない。キリスト教に改宗した者はたいてい悪徳に身を委ねている。浪費が蔓延すれば、国家の経済バランスも崩れてゆくであろう。しかし、日本人はこうした問題もよくわかっているから、全力を尽くしてその防止に献身するにちがいない。そして、そのための唯一の道はイスラムに改宗することである。宗教に支えられなければ、精神を守り通すことはできない。これは数多くの経験が証明する事実である。仏教ではこの任務を遂行することは不可能であろう。そうだとすれば、日本人にとってもっとも安全な近道はイスラムを措いてほかにはあるまい。日本人がイスラムへの入信をためらうことは断じてなかろう。しかし、そのためには我々もいささかの努力をしなければならない。なぜなら、今日イスラムの真理を日本人に教示しようにも、そのすべがないからである。彼らはアラビア語もトルコ語も知らない。その他の言語をとってみても、イスラムの真理を正しく解説した書物は一つとし て見あたらないのである。



ところが、ヨーロッパ人宣教師はどうであろうか。彼らは巨額の資金を投じ、イスラムを誹謗した日本語の出版物を広めてはばからないではないか。こうした現状では好むと好まざるとにかかわらず、イスラムにたいする警戒の念や疑惑が生まれてくるであろう。ここでわがウラマーたちが多少の労苦は惜しまず、日本人を此方に引き戻すならば、イスラムはすみやかに広まることであろう。これはいつも中し上げていることであるが、こうする以外に道はないのである。



第三に一日本人はイスラムの受容によって政治的にも大きな利益を期待することができる。日本人がイスラムに改宗すれば、中国ムスリムは日本商品に一大市場を提供するであろう。また満州の人口の半数はムスリムである[明らかに過大評価]。日本は武力を用いずしてこれらの地域を獲得するであろう。インド洋の島々も日本の政治的な野心にはまことに好適な存在である。なぜなら、[インドネシアでは]二千万ものムスリムがひとにぎりのオランダ人の支配下にあるからである。彼らはいっでもイスラムに改宗した日本人の側に身を投ずるであろう。オランダ人の圧制から逃れるためには、日本の保護を求める以外に手だてがないのである。



もう一つ日本人にとって重要な問題がある。それは将来における中国の発展である。中国が進歩をとげれば、そのとき日本の地位は大いに脅かされるにちがいない。しかし、中国に住む一億のムスリムが日本人の忠実な友、その信奉者であったとすれば、事情はまた別であろう。この点からもイスラムの普及が日本人に多大の政治的な利益をもたらすことはまちがいない。



ほかにもさまざまな理由がある。日本にとって最大の敵、ロシアの領内にもムスリムは三千万を数えている。インドのことは考慮に入れずとも、アジア大陸の南の耳にあたるマレー半島やシンガポール、さらにジョホール国を含めた地域には七つのムスリムの首長国があり、やはり日本の支援に感謝することであろう。



以上の諸点を熟慮した上で、日本へ赴くウラマーに指針を与えてやればどうだろうか。そのウラマーにいささかでも政治の才覚があれば、イスラムが日本全土で要の地位を獲得することは疑いない。日本の高官たちも挙げてイスラムの弘布に尽力するであろう。むしろ、このような政治的な目標が掲げられなければ、宗教の問題は日本人にとって何の意味も持たなくなってくる。日本人に形而上のことがらを納得させることは所詮無理だからだ。これはほとんど自明の事実である。



こうなると、我々はスーフィー[イスラム神秘主義者]の心境にならざるをえない。宗教に欲求をもたない日本人を相手に、我々はなぜ彼らの改宗を求めるのであろうか。こうした疑問が湧いてくるにちがいない。[スーフィーは、法や神学、儀礼などイスラムの形式的な側面を重視せず、もっぱら人間の内面の信仰を追求した。]



しかし、政治に明るい人間は日本におけるイスラムの普及を評価することに何のためらいも覚えないであろう。さよう、最初の段階ではイスラムという名前だけで十分なのである。日本人がたとえ形式であれ、我々はイスラムを受け容れたと発言しさえすれば、ヨーロッパ政界におけるムスリム間題の取扱いは一変するにちがいない。



私個人は日本人の改宗を心から願う。日本滞在中はこの問題に大いに関心を払い、知恵をめぐらしたものである。ある程度は成功をおさめたかもしれない。我々のウラマーがいささかでも努力をすれば、輝かしい成果が生まれることは疑いない。たとえ初めの段階では政治がらみであったとしても、我々が真理を諭すことができれば、日本人はやがて堅忍不抜のムスリムとなるにちがいない。今でさえ、イスラムに改宗した日本人の間にはひたむきな信者がおり、誠心から入信する人々もいる。しかし、肝心なのは政府要人がこれに同意すること、つまりイスラムを国教とさせる方策を見いたすことである。慎重に振舞いながら努力を積み重ねていけば、これはすべて実現可能なことなのである。





書名
著者
出版社
出版年
定価
ジャポンヤ・イスラム系ロシア人
の見た明治日本

ISBN 不明
アブデユルレシト・イブラヒム著
小松香織・小松久男訳
東京・第三書館 1992 本体2500



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