- われわれはここで、イスラム教のすべての理論と実践に対する不可謬の試金石であるコーランに立ち戻ってみよう。神秘主義の芽生えがそこに見出されるであろうか。前述の如く、コーランは、人間の感情や願望を遥かに超越した唯一にして永遠かつ全能の神アッラーの観念に始まる。アッラーは子供らの父ではなくて奴隷の主人である。罪人を法に照らして厳然と処断し、改悛、謙譲、たゆまぬ信心の行為によって神の怒りを免れた人々にのみ慈悲をさしのべる裁判官であり、愛よりは恐れの神である。これは、ムハンマドの教えの一面であり、しかも最も顕著な面であることは間違いない。しかし、この世とアッラーの間に越え難い溝を作ったにもかかわらず、ムハンマド自身ある種の神秘家的なものを持っていたので、神を遠くと同時に近くに、超越的と同時に内在的に感じていた。後年の彼が説くアッラーは、天地の光、世界と人間の魂の中に働く存在としての様相を持ってくる。
- 「もし私の僕(しもべ)共が、私のことを汝に尋ねるなら、おお、私は側近くにいる。」(聖コーラン、二章一八六節)
「われ(神)は彼の頸の血管より近くにいる。」(同、五〇章一六節)
- 「そして地上には、信仰の篤い者への御徴(みしるし)が多くある。汝らの中にもある。それでも汝らは見ようとしないのか。」(同、五一章二〇ー二一節)
- 彼等が見えるようになるまでには時間がかかった。来たるべき神の怒りの恐ろしいヴィジョンに悩まされたイスラム教徒の意識は、徐々にしかも苦しみの中から、それらを解放する思想の重要性に目覚めていったのである。
- 私が先に引用した句は、単独で存在するわけではない。コーランが全体としてはいかに神秘主義に好意的でないとしても、それがイスラム教の神秘主義的解釈の基盤をまったく与えないという見解には賛成できない。それこそスーフィーたちが詳細に考え出したことなのである。その際彼らは、フィロンがモーセ五書を扱ったのときわめて似た方法で、コーランを扱ったのである。しかし、正統派の闘士がスコラ学的体系を構築し始め、神性を純粋に形式的、無変化の、絶対的唯一性、あらゆる愛情や情感に欠けた意志そのもの、人間がいかなる交わりも個人的接触もできない圧倒的で計り知れない力にしてしまわなければ、スーフィーたちが信心深いイスラム教徒大衆をそれほど完全に彼らの側に引きつけることはなかったであろう。ところがそれがイスラム神学における神であったのである。スーフィズムに代わるものといえばそれであった。そこで、この問題に関する西欧の最高の権威であるD・B・マクドンルド教授は、「思索する宗教的イスラム教徒は皆神秘家である。」と言った。そして、「また全部が汎神論者だが、それに気づかない者もいる」と付言している。
"The Mystics of Islam" by Reynold
A. Nicholson
邦訳 「イスラムの神秘主義・スーフィズム入門」からの引用(34-3 8ページ)
R.A.・ニコルソン著、中村廣政郎訳
東京:平凡社、1996、ISBN : 4-582-76143-7、定価1200円
スーフィズムのページへ戻る
イスラーム文献のページへ戻る
ホームページへ戻る