殉教の中国イスラム・神秘主義教団ジャフリーヤの歴史
張承志(Zhang Chengzhi)著、梅村坦(Umemura Hiroshi)編訳



ジャフリーヤ・中国イスラムのシンボル
引用:277-288ページ



 ジャフリーヤにとってばかりではなく、中国イスラムにおいてももっとも重要な人物であった馬元章も、南川・板橋支派に並ぶような一派の祖になることとなった。このジャフリーヤ支派が北山・沙溝支派と呼ばれ、馬明心の継承者馬元章をムルシドと認める教徒たちの中核部となっているのである。

 こうして、全国各地のジャフリーヤ教徒は、あるいは馬元章をムルシドとして承認し、あるいは馬進西をムルシドと認めるようになったのであった。ところが大勢のドゥースターンは、時代の流れに従って、ムルシド個人よりもジャフリーヤの儀礼と伝統そのものを重視するようになっていった。民国時代からのことだが、とたえば張家川の一部の教徒や北京の教徒が、とくにどちらか一支派にのみ参加するのではなく馬元章と馬進西ともに尊敬したように、各地で、馬明心に捧げられる儀礼と二〇〇年を超えるジャフリーヤの殉教伝統のみを重視する人びとが相次いで出現し、ジャフリーヤを新しい段階に進めたことは、非常に注目すべきことにちがいない。

 じつは、血統がどのように強調されていても、ムルシドの資格は血統によらなければ定められないものでもない。これは伝教の証拠すなわちイジャーザと同じことであろう。ジャフリーヤの歴史で、イジャーザについての記録は多いが、このイジャーザによって伝教されたことはほとんどなかったと思われる。ムルシドという存在の資格も、いわゆる正統性と関連はあったが、じつのところは単なる正統性の保持とは違うものであった。ジャフリーヤのムルシドは必ず試練や犠牲に直面する運命をもつもので、大きな試練、とくにバラー(受難)というものは、アッラーが下さるすべてを判断させる機会だと、昔もいまもドゥースターンは考えつづけたのである。

 このような現象は、世界中のスーフィズムが盛んな各地で繰り返し現れた。一般にこの現象が、イスラム・スーフィズムの世俗化と見られている。ところが宗教における世俗化が、宗教の成熟を象徴しているのも事実である。組織や宗教活動の複雑化するあいだにも、宗教としての貴重な中身が守られていたことを無視することはできない。

 中国のジャフリーヤの場合においては、ドゥースターン=教徒たちの私的な「孝」という思想が目立つが、犠牲者である祖先にたいする「孝」は、ふつうの孝行より意味深いものであると言わねばならない。中国人であるジャフリーヤ教徒は、宗教の世俗化にたいする不満を抱いてもジャフリーヤにたいする信仰を変えない理由がある。それは、自分の代々の祖先も含むこの殉教者的な宗教組織を失えば、人間としての立場も失ってしまう、ということであるにちがいない。ムルシドの家族はいつもふつうの教徒の家族より犠牲が多い。殉教した自分の祖先も、これらのムルシドの祖先に率いられて信仰の道に辿りついたのであったから、自分の世代になってこの「孝」の道を放棄すれば、信仰する人間とは言えなくなると考えている。そればかりではなく、ジャフリーヤならこの信仰を生きるということこそ唯一の価値あるものと考えているのである。これこそジャフリーヤ的な気持ちであり、ジャフリーヤの秘密とも言えるであろう。このような感情によって数十万のたくましい教徒は、南川・板橋支派にせよ、北山・沙溝支派にせよ、出現している世俗化を甘受し、相変わらず命をかけてジャフリーヤのために働き、それぞれのムルシドに従って各地でジャフリーヤの復興の活動に身を投じ、そうしてジャフリーヤの成熟期を迎えたのである。

 民国初年、支派が形成された当時、ジャフリーヤにとって、ムルシドの資格より重要なことは、まず各地に分散しているジャフリーヤ教徒たちをふたたびこのジャフリーヤ信仰の旗の下に集められるかどうかということであった。






甘粛・関川の馬明心道堂(馬元超書)

 客観的に言えば、支派が形成される前にも、ジャフリーヤの七割以上の教徒はジャフリーヤ事実上の指導馬元章に従っていた。形としての支派が形成されてから、多数のドゥースターンは、馬進西を救出したのもジャフリーヤを復興したのも馬元章であったという事実によって、馬元章を第七代ムルシドと認め、北山・沙溝支派に属するようになった。現在の時点でジャフリーヤという中国イスラムのスーフィー派は、事実上、北山・沙溝支派によって代表されていると言えるかもしれない。

 馬元章はまず、二五歳の若さで流罪の身のまま逝去した馬進城を、第五代ムルシド馬化龍の次に値するとみなして、実際にはジャフリーヤを指導していなかったにもかかわらず第六代ムルシドとして追認した。このため、現在ジャフリーヤは河南省開封市()に墓参し、第六代ムルシド馬進城を記念するのである。さらに、馬進西の南川・板橋支派が確立されたことにともない、馬元章は馬進西よりはるかに指導上の実力をもっていたため、かえってここに正式に張家川でみずからジャフリーヤ第七代ムルシド道堂を成立させた。のちに、彼は弟の馬元超を北山道堂の留守役にして、張家川より北の甘粛・寧夏の深山に発展を求め、また沙溝村を拠点にして、さらに「沙溝太爺は蘭州に入る」を決行し、蘭州の馬明心ゴンバイでジャフリーヤの道堂を成立させたのだった。

 こうして、馬元章は蘭州の馬明心ゴンバイおよび道堂、張家川における馬化龍の首のゴンバイおよび道堂をはじめ、ジャフリーヤのシンボル的な宗教拠点を全部北山・沙溝支派に所属させるようにしたのであった。言うまでもなく、馬明心ゴンバイに付属する金城関ゴンバイ、甘粛の関川にある馬明心のサラール人の妻のゴンバイ、雲南にある馬明心の息子の二つのゴンバイ、さらに教内の大人物たとえば関里爺のゴンバイなど、みんなジャフリーヤ北山・沙溝支派の手によって回復された。これらを基盤をして、馬元章と彼の弟馬元超や息子馬震武など継承者たちは、全国に向けて北山・沙溝支派の発展を目指したのであった。

 同治一〇年から連絡のなかった新彊ジャフリーヤと、西北の中心地との連絡も回復していた。

 はるか以前のこと、馬明心の妻、張夫人が新彊まで流罪されたときにともに入った教徒たちよりさらに前、賀麻路乎(ハマールフ)などサラール人のジャフリーヤ教徒がすでに新彊に流れ込んだことは、すでに述べた。それ以来、新彊ジャフリーヤの実力は少しずつ発展し、世代がかわっても内地のムルシドの指導に服従していた。

 李三畏(リサンウエイ)という大アホンは、馬化龍によって新彊ライースと任命されたのであったが、新彊のジャフリーヤ教徒の中に伝えられているところによれば、馬化龍はかつて李三畏にこう言った。「あなたは、ジャフリーヤの西口(長城)の外の一つの明るい燈だ。」

 同治年間の回民大反乱のとき、白彦虎に率いられた回民軍の残衆は、清の政府軍の攻撃に耐えられず、新彊を経由してロシア国境を越え、フェルガーナ盆地のカラコルという地域に住むようになっていた。ややあとになって、李三畏だけはジャフリーヤ教徒を率いて、ふたたび中国境内のイリに戻ってきたのであった。しかし馬化龍が処刑されたのち、さらに李三畏も逝去したのち、この新彊ジャフリーヤは、指導者を失ってしまった。光緒初年、新彊のジャフリーヤ教徒たちは、甘粛の張家川に何度もやって来て、馬元章を新しいムルシドとして戴き、新しい新彊ライースを任命してもらうよう要請した、しかし当時の馬元章は、自分はその身分でもなく、新彊にまで宗教事務を指導する時期でもないと考えていたので、これを断ったのであった。李三畏の息子が新彊ジャフリーヤの中心人物であったが、彼みずからが苦労して尋ねあてた馬元章の立場は、この時期そういうものであった。

 しばらくして、張家川での復興事業が順調に進んだころ、新彊のジャフリーヤ教徒はふたたびやって来た。李三畏の息子、李が泣きながら馬化龍の「西口の外の明るい燈」の話をしたとき、馬元章も涙を流した。彼は、「十三太爺(馬化龍)の手によって、西口の外に掲げられたあの明燈は、あなたがたの心を照らしているだけではなく、私の心をも明るくしてくれた」と言って、正式に新彊ライースを任命したのである。

 こうして馬元章を第七代ムルシドとみなすジャフリーヤ、すなわち北山・沙溝支派が新彊に成立したことになる。その影響の強い地域は、現在のことをいえば、イリ地域の各県・トゥルファン盆地・ウルムチ南方の農業地区などである。

 新彊においては、ジャフリーヤ北山・沙溝支派の発展が、前にふれた南川・板橋支派よりも目立った。とくに馬明心のために復讐した末処刑された張夫人、流罪の途中で死んだ馬明心の娘たちのゴンバイ、すなわち伊犂ゴンバイ、トルファン頭道河子ゴンバイ、伊犂ホルゴスゴンバイは、現在ウイグル人などの民族の尊敬をも得ているので、ジャフリーヤを新彊イスラム教に位置付けさせる意義をもっている。これらのゴンバイを囲む新彊ジャフリーヤ回民は、南川・板橋支派と合わせて、南北新彊のほとんどすべての地域に定住しているばかりではなく、とくに近年来、ジャフリーヤ回民は甘粛・寧夏・青海から新彊に流入しつつ、新彊ジャフリーヤとして拡大しつづけている。宗教的なネットワークはこのようなジャフリーヤ回民に新彊という豊かな経済的条件を与えたため、新彊は将来にわたって甘粛・寧夏より重要なジャフリーヤの中心地になっていくかもしれない。

 黒龍江の齊齊哈爾(チチハル)に、第三代ムルシド馬達天とともに流罪された「一二人」ともいわれるジャフリーヤ教徒は、その後ジャフリーヤ教徒独自の集落(坊)を形成した。彼らはのちに、ムルシド馬元章の家族との婚姻関係をつうじて西北のジャフリーヤ中心部とのつながりを保ちつづけた。吉林省の船厰(現在の吉林市の郊外にあたる)に建設され、西北から派遣されたゴンバイ・アホンに守られている馬達天ゴンバイは、いまも毎年大勢の西北の教徒の墓参者を集めているが、そうした彼らと黒龍江のジャフリーヤ教徒の集落は、ジャフリーヤ派の中国東北における維持・拡大を望んでいる。

 すでに見たように、「ジャフリーヤ道統史伝」に伝えられるところでは、北京にジャフリーヤが入ったのは馬達天が流罪される途上で北京を通ったときのことである。とくにのちの十三太爺馬化龍の努力によって、ジャフリーヤ教徒が北京に現れはじめた。その後、馬化龍の遺族馬進西と西府夫人を北京ジャフリーヤ教徒の金月川が救ったことを北京ジャフリーヤ教徒は誇りとした。また、北京北郊の昌平の町にいる回民なら全員ジャフリーヤ信仰をもつようになっていた。それは山東ライースの影響であった。一方、首都の東関(現在の朝陽門の外)には、いつのころか「上坡モスク」が建設され、これを囲んで一九五〇年代までに六〇戸の集落を為すジャフリーヤ教徒も出現した。その後、大都市の建設や人口移動によって、この集落は保存されなかったが、北京市のあちこちに散在するジャフリーヤ教徒は、教派にたいする敬虔さを失っていない。

 大運河に沿って、昔の馬明心時代からジャフリーヤに影響はわずかながら点在していた。それは何人かのアホンの個人的活動によるものであった。馬化龍時代を経て、とりわけ馬元章の時代に入ってから、いくつかのジャフリーヤのモスクや教坊が成立した。それらの中には、ジャフリーヤが馬明心によってもたらされた当初から馬明心に従った金アホン(山東省の首府、済南市出身)の家族の動きがあった。彼らを中心として、ジャフリーヤの済南ライース道堂が作られ、山東・河北・北京など各地のジャフリーヤ回民を指導するようになっていたのである。

 寧夏北部においては、馬元章は、南川・板橋支派の活動と並んで、カランダルという大物の宗教者一族や、のちに「ジャフリーヤ道統史伝」を著したマンスール=馬学智の一族、第三代ムルシド馬達天とともに流罪となった牛二爺の一族も重要な伝教のはたらきをし、多くのアホンがこの北山・沙溝支派に参入した。

 霊州という地名は民国時代から寧夏と呼ばれるようになった。現在、青銅峡を流れる黄河の両側に位置する豊かな灌漑地である。この地域では、北山・沙溝支派は南川・板橋支派と並びたっており、儀礼などはまったく同じであるし、大きな行動なら大共同体でおこなわれている。一九八四年、馬化龍が処刑された場所すなわち四旗梁子という所に、まず北山・沙溝支派がゴンバイを建てた。一九九〇年、さらに北山・沙溝支派と南川・板橋支派は共同して、馬化龍ゴンバイを立派に再建したのであった。一方、古くからある第四代ムルシド馬以徳の寧夏における洪楽府ゴンバイや、第三代ムルシド馬達天の吉林省における船厰ゴンバイは、ジャフルーヤの北山・沙溝支派によって建設されたのである。

 以上のような支派の形成はジャフリーヤの繁栄を映し出しているともいえよう。ジャフリーヤ派はすでに甘粛・黒龍江・北京・山東・新彊・雲南などの地で発展した。民国期には中国大陸の九つの省にジャフリーヤは存在するといわれる。すなわち、甘粛・青海・寧夏・新彊・雲南・山東・河北・黒龍江・江蘇の各省である。実際には貴州、北京にもジャフリーヤはおり、また吉林省には第三代ムルシド馬達天のゴンバイがある。

 一八世紀終わりのころ、一七八一年、馬明心が蘭州で殺害され、彼のサラール人教徒たちが蘭州で起こした反乱も全滅した。それ以来、一三〇年にわたって差別、弾圧、禁止を受けつづけたジャフリーヤという教派は、二〇世紀初頭、清朝の滅亡と民国の成立を迎えるころ、以上に見てきたような各地に拡がったと伝えられるほど、中国イスラム教スーフィー派の最大の一派になっていたのである。

 ジャフリーヤは、この終章で述べたような系列的なムルシド、ゴンバイおよび教内に伝えられた歴史によって、世界を認識した。ジャフリーヤは二〇〇年にもわたった貴重な教史によってみずからを教化しつづけ、信仰させつづけたのであった。現代を迎えて、新しいジャフリーヤの歴史はすでに始まった。いまこの時期に、ジャフリーヤ史に一段落の総括を与えるのは意味あることと思われる。

 人類の信仰および宗教の歴史の流れの中で、ジャフリーヤ史は小さな存在かもしれない。しかし、中国においては、ジャフリーヤのような集団は、二つとなったのは確かなことである。考えられぬほどの貧窮生活に甘んじ、想像を絶するほど過酷な黄土高原という自然環境で生きていたジャフリーヤの民衆が、このような宗教史を編み上げるまで、どれほどの犠牲を捧げたことか。

 ジャフリーヤは、西アジアからスーフィズムが伝入したことによって生まれて以後、中国文化の中で育てられてきた。一方、母なる中国にたいして、このジャフリーヤというもっとも貧しい子どもは、貴重な貢献を捧げたのであった。中国の歴史にジャフリーヤ史が位置付けられなければならないと筆者が考えるのは、ジャフリーヤが数知れぬドゥースターンの生命によって、古い中国文化の海に、少なくともある新鮮な血液を注ぎこんだからなのである。


殉教の中国イスラム・神秘主義教団ジャフリーヤの歴史」、張承志著、梅村坦編訳
東京:亜紀書房、1993年、ISBN: 4-7505-9310-9、定価2400円

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