イスラーム哲学における知の理論

ムハンマド・バーキルッ=サドル著
黒田壽郎訳




上述の諸思想に関する検討、批判から、この主題に関する主要な論点を導き出すことができる。それは以下のように要約されうるであろう。



第一に、人間の知は、概念的理解と了解の二つに区分される。さまざまな形態を含む概念的理解は、客観的な価値を持つものではない。それは、認識の内部における、事物の存在に過ぎないからである。概念的理解はすべての付加的な要素を失った場合、認識の外部にあるものの存在を客観的に示しえない。しかし、客観的現実を本質的に開示する性質を持っているのは了解、ないしは了解的な知である。それは概念的理解に対して、客観的現実の存在を開示するのである。



第二に、了解に属するあらゆる知は、その必然性が証明されえず、その正しさが論証されえない、基本的な必然的知に帰せられる。ただし理性はその正しさを受け入れ、確信する必要を認めているのである。そのような知の例としては、非矛盾の原理、因果関係の原理、一次的な数学的原理等が挙げられる。これらの諸原理は、第一の理性的な光である。他のあらゆる知、了解はこれらの輝やぎの導きによって作り出される。思考はこの光の適用、利用に慎重であればあるほど、誤りから遠去かることができる。また知の価値は、それがこれらの原理に依存する程度、そこから結論を引き出す範囲に依存している。それゆえこれらの基礎の導きに従がって、形而上学、数学、自然科学のあらゆる領域において真の知を獲得することができるのである。ただし自然科学は一つの点、つまり一次的原理の適用による自然の知の獲得は、人間がそれを適用するさいの条件を準備する実験に基礎を置くという点で異なっている。他方形而上学と数学においては、適用は外的実験を必要としない。



形而上学と数学の結論が、自然科学における科学的な結論と異なり、ほとんど確実であるのは、このような理由によっている。自然科学における一次的原理の適用は、その条件を準備する実験を必要とする。そして実験が多くの場合すべての条件を明かにしえないため欠陥をもち、そのような実験に基礎をおいた場合結論は不確実なものとなるのである。



この例として、熱を取り上げてみよう。熱の自然な原因を発見しようと試みる場合、多くの科学的実験に基づく研究を行なう。そして最後に〈運動が熱の原因である〉という理論を作り上げる。この自然に関する理論は実際のところ、多くの必然的原理と知を収集し、検討した経験的なデータに適用した結果なのである。この結果が必然的な原理に依存すればするほど、正確で、確実なのはこのような理由によるものなのである。自然科学者はまず初めに、動物の血液、熱い鉄、燃えた物体といった数千もの熱に関する事物を収集する。次いで彼はこれらの対象に、ある必然的な理性的原理、つまり〈あらゆる出来事に原因が存在する〉という因果関係の原理を適用する。これによって彼は、このような熱に関わる現象には、よしんばいまだに原因が知られず、さまざまな事柄がそれとして挙げられているにしても、ある固有の原因が存在することを認めるのである。これらの事柄から、いかにして原因となるものを決定しうるのであろうか。



この段階において自然科学者は、必然的な理性的原理の一つ、すなわち〈事物はその原因から切り離されえない〉という原理に助けを求めるのである。この原理に基づいて彼は、実際に熱の原因を含む一群の事物について検討を加える。彼は多くの事物を検討の必要をもたないものと見なし、考察の対象から除外する。例えば動物の血液は、冷血動物も存在するために、熱の原因とは見なされない。それが熱の原因である場合には、熱がそれから切り離されることはありえないのである。ただしある動物の血は、冷たい。動物の血を原因から遠去ける配慮には、事物がその原因から切り離しえないとする、上述の原理が適用されていることは明かであろう。このように自然科学者は、熱の原因と考えられるものをすべて検討し、必然的な理性的原理に基づく判断によって、それが原因でないことを立証するのである。彼は、熱の原因たりうるものについて可能な限り科学的実験を行ない、動物の血液の場合にそうしたように、それが原因ではないことを証明する。そして検討に値しないものを除外したのちに科学的分析を行なった結果として、真の原因を捉えることになる。この段階において、科学的探究の 結果は、それが完全に必然的な理性的原理に依拠しているために、決定的な真理となるのである。他方最終的に二、三の事柄が残され、必然的原理に照らして原因が特定されない場合には、その問題に関する科学的探究の結果は、仮定的なものに留まる。



これによりわれわれは、以下のことを認めることができる。



(1) 必然的な理性的原理は、この問題を検討した冒頭の部分で述べたように、科学的真理の一般的な基礎である。


(2) 科学的理論の価値、ならびに実験の成果は、これらの理論の正確さと、必然的な原理を、収集された実験的なデータの総体に適用するさいの厳密さに依存する。実験が検討中の問題と関わる可能性を持つあらゆる対象を網羅し、それらの対象に必然的原理を適用するに十分な幅広さ、厳密さを持ち、結果的にその適用を基礎に統一した科学的結果を設定しうることがない限り、科学的理論に十分な確実性は認められない。


(3) 形而上的問題のような、実験と関わりのない諸分野においては、哲学的理論は、その分野に対する必然的原理の適用に基礎を置いている。しかしそこではこの種の適用は、実験とは独立して行なわれる。例えば世界の第一原因に関する論証の場合、理性は必然的原理をこの問題に適用し、それに即して肯定的、あるいは否定的理論を構築しなければならない。問題が実験とは関わりがないため、適用は、実験とは独立した思考、純粋な理性的推論の操作によって行なわれる。



形而上的問題は、多くの局面において、自然科学とは異なっている。われわれは、〈多くの局面において〉と但し書を付けているが、これは必然的原理から哲学的、形而上的結論を引き出すさいにも、時として実験に依拠することがありうるからである。この点において哲学的理論は、科学的理論と同様の価値と地位を持つものといえよう。



第三に、われわれはすでに了解に属する知が、概念的理解の客観性、知性内部にある概念に対応する客観的現実の存在を明かにすると指摘した。同時にこの種の知が、必然的原理に依拠する程度に応じて、確実なものであることについても言及した。新たな問題は、この知的な概念が、それが厳密で、正確である場合、その背後にわれわれが存在を認める客観的現実とどの程度まで対応しているがということである。



この問題に対する解答は、以下のごとくである。われわれが固有の客観的現実に関して形成する知的概念は、二つの側面を持っている。一方は、そのものの形相と、精神内部におけるその固有な存在である。当のものはこれによって、精神の内部に表象される。さもなければそれは、件のものの形相たりえないのである。しかしそれは、他の観点から見た場合、客観的現実とは基本的に異なっている。なぜならばそれは、そのものの客観的現実が持つさまざまな特性を備えてはおらず、その現実が所有する多様な実践的有効性、諸活動を持ち合わせてはいないからである。太陽、熱のような、われわれが物質に関して抱く知的概念は、その厳密さ、綿密さに関わりなく、それに対応する外部の客観的現実がなしうるほどに効果的な役割を果たしえないのである。



以上によりわれわれは思考の主観的な側面と同様に、客観的な側面をも、つまり私的な知的成果に帰せられる側と、客観的現実から引き出される側の双方を規定しうる。事物が知性観念の中に反映されている限りにおいて、思考は客観的である。ただし知性において概念の中に表象された事物は、それが主観的な処理を受けているゆえに、外的世界にあるものが享受するすべての有効性、活動を失っている。この思考と現実の間の相違は、哲学的な表現では、物理的にみた場合、本書の第二部で言及されるように、本質(mahiyah)**と存在の相違なのである。




**知的形相が含み持つこの主観的様相は、われわれの考えによれば、カントが言及し、主観的相対主義老が主張する主観的様相とは異なる。われわれは、主観的要素とは、カントのいうような知の形相的様相に起因するものではなく、また認識が物質的相互作用の産物であるという事実によるものでもない。相互作用とは、両者からの働きかけを必要とする。しかしそれはむしろ、二種類の存在、つまり知的存在と、外的存在間の相違に依存しているものである。相対主義者の見解とは異なり、知的形相の中に存在するものは、外界に存在するものと同じである。ただし形相中の存在と、外的な存在とは種類を異にしている。





書名
著者
出版社
出版年
定価
イスラーム哲学
ISBN: 4915841146
ムハンマド・バーキルッ=サドル著
黒田壽郎訳
東京・未知谷 1992 本体6000




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