ムスリムと日本人

Kareema T. Bah著




日本人がイスラームについて知っていることといえば、どんなことでしょう。



多くの人にとっては、自分とは関係のない外国の宗教で、一日に何度もお祈りをし、飲酒と豚肉が禁じられている大変難しい宗教と捉えられています。だからといってそれを責めることはできません。なぜなら、自分のよく知らないものについて正しく理解することなど誰にもできないからです。



では、このような認識を持っている日本人にイスラームを正しく理解してもらうにはどうすればいいのでしょう。難しいことはありません。私たちムスリムが伝えればよいのです。伝えるといっても方法はいろいろでしょう。いきなり「イスラームについて教えます」といっても敬遠されてしまうでしょう。彼らが誤解していることから伝えるのです。例えば、「イスラームは難しい宗教」という誤解。その誤解の主たる原因は一日五回の礼拝でしょう。彼らの理解するところの礼拝とは、時間になれば仕事を中断してでも礼拝をしないといけない。それも一日に五回も繰り返して。確かに、そのとおりであれば大変な行為です。社会生活も困難になるでしょう。でも本当にそうでしょうか。



礼拝は、ある特定された時刻に行われるものではなく、定刻の礼拝の始まりから終わりの時間まで、短い時でも1時間以上あるのです。例えば早朝の礼拝。これは朝仕事へ行く前にできます。昼は誰もが昼食を摂る時間帯、昼休みにできます。午後は多くの人が十分か十五分の短い休み時間を取ります。日没後と夜の礼拝。これは季節によって変動はありますが就業後、または帰宅後にできます。礼拝の時間帯は、ムスリムの国ではない日本の一般的な就業体制とほぼ同じなのです。これらの説明を聞けば、礼拝は彼らが考えているほど難しいことではないと理解できるでしょう。アッラーは、 私たち人間に困難なことは命じません。(第2章雌牛章:185節)



このように、イスラームについての誤解を解くこと、そしてアッラーの導きに従って生きることは難しいことではないと知らせていくことは、非ムスリムの国、日本で生活している私たちムスリムにとって重要な課題だと思います。もちろん、母国を離れ言葉も文化も違う国での生活は、容易ではありません。しかし、そのようにして国を出た人たちも、まず自分の意志でその決定をしたこと、そして、何よりもアッラーのご意志により今ここに居ることを忘れてはいけません。



日本はムスリムの国ではなく、その上、多くの日本人は特定の宗教への信仰も持たず、季節や行事に応じて、神社へも行けば寺院へも行き、さらには教会へも行くといった理解しがたい行動をとります。



だからといって「日本人は信仰心がない」といってよいでしょうか。「信仰心」を人知をはるかに越えたものに従い頼る感情、それらを畏れる感情と捉えるなら、このような日本人の行動の奥に「信仰心」を見ることができるのです。そして、日本人の多くは、自分の信じる宗教を持つ人や、信仰心篤い人に対してはある種の敬意を持って接します。



私達は、よいムスリムとして行動するだけでも日本の社会に受け入れられる要素を持っているのです。例えば、両親を大切にする、嘘をつかない、約束を守る、よい態度で人と接するなどは、(第2章雌牛章:83節)日本の社会通念と大差ありません。ムスリムも自分達日本人とあまりかわりなく、イスラームは難しいものではないと理解してもらうことが大切なのです。それと同時に、ムスリムも日本人を理解する努力を忘れてはいけません。(第49章部屋章:13節)


K.T. Bah: 改宗ムスリマ、松江市西川津町 748-113、Fax: 0852 25-2264

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